小さな金魚鉢 
#24 経人と里紗ー3 播州西脇

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9時46分発 岡山行きの東海道新幹線は定刻通り三島駅に滑り込んだ。 どの車両にも数人が乗っているだけだ。 9号車、10番D席に里紗が座っている。この車両には他に3人がいた。 「おはよー、里紗さん」 「おはようございます、人生初グリーン車、テンション上がります」 「俺だって普段からグリーン車なんて乗らないよ、感染対策のために空いていそうなグリーンにしたけど、自由席も指定席もどこに乗っても貸切みたいなもんだな」 名古屋を過ぎると毛織物の産地、一宮が見える。 最近来たのは今年の2月。 ジャパン・ヤーンフェアの日だった。 ウールにしろ、綿にしろ農産物に違いない。工業的に人が手を加える最初の工程が紡績だ。 糸がわからなければ、生地の本当の良さも、スーツのクセもわからないというのが経人の持論でもあり沼津の野中羅紗店のおばちゃんの持論であった。 ヤーンフェアの会場にその人はいた。 鮮やかなショールを身にまとい、鋭い視線で会場内を歩いていたのが玉木新雌さんだった。 経人と里紗が身につけているマスクを作るブランドの創業者であり、デザイナー。もちろんマスクを作るのが本業ではなくショールや服を作る世界的なブランドになっている。 播州西脇のShop&labには何度となく訪れたが、本人に会うのは初めてだ。 経人は躊躇いつつも声をかけ、話すことができた。知り合いがいる綿紡績会社のブースに案内すると、綿の糸に触れ 「あ、これだ~、私タオル作ろうと思っているのよ。ヤーンフェアって言っても最近は糸そのものを出している会社も少ないし、糸を触って価値がわかるアパレルさんも少ないでしょ?」 と言っていた。 新幹線の中で里紗はよく眠っていた。 玉木新雌さんが越前勝山の出身だということを何かで読んだのを思い出した。 後戻りすることもなく、一定のテンションで進み続ける時間が経糸ならば、出会う人や訪れる場所が緯糸として交わり、色を変え柔らかく姿を変えていくのではないかとなんとなく思った。 みんなが経人にとって貴重な存在だ。 「里紗さん、起きろ。そろそろ着くぞ」 「寝顔、大丈夫でした?」 「マスクしてるから、口を開いていたかはわからんが…」 新大阪駅で軽く食事をしてからレンタカーを借りて、一気に西脇まで走った。 北緯35度、東経135度。日本の標準時となる経線は西脇市の上を通っている。 2人が目指す玉木新雌 Shop&Labは穏やかな田園風景の先の畑谷川沿いにある。神戸からも大阪からも少し離れた不便で静かな場所だ。 「里紗さん、ここだよ」 車を降りるとすぐにスマホを取り出し、工場の周りの風景を撮り始めた。 入口で手をアルコール消毒して店内へ。 「洪水、まるで色の洪水ね。でも濁ってない。全部の色が別々なのに、それぞれが溶け合っている」 経人はそんな里紗の素直に見たままを表現できる感性がとても好きだ。 それがまったくおかしくないし、とても柔らかい感情をまっすぐ飛ばしてくる感じも悪くない。 ショールや洋服、傘やネクタイが開放的な外の光が差し込む店の中に並んでいる。レジカウンターの目の前にはできたばかりのタマスクも並んでいる。 「こんにちは。いつもお世話になっています。これ、差し入れです」 レジのスタッフさんに新大阪で買ってきた喜八洲のみたらしを渡して店の奥のLabを案内してもらう。 シャトル織機も丸編み機もちょうど動いていた。 「近くまで入って好きなだけ見ていってくださいね」 壁際の棚には色糸が並んでいる。見た限りでは同じ色の糸はない。ここで出来上がるのはすべてが1点ものか数点もの。いや出来上がるまでの過程を含めたらすでにそれはモノではなく、ストーリーなのであろう。 床には大きく【あたりまえを疑え】と書かれている。 経人はあえて里紗に声はかけず、好きなモノ、興味がある場所を見る時間を作った。案内についてくれたスタッフと話しながら里紗は熱心に写真を撮っている。一番気になっていたのは織機の綜絖の上下を決めるプログラムとなる紋紙パンチカードのようだ。 織機の横で紋紙が動くごとに経糸が上下して緯糸が打ち込まれていく。 里紗は突然振り向いて、離れた場所にいた経人を探すような素振りをした。 軽く手を振ると、群からはぐれた子羊のように経人のそばに立った。 Labの中は織機が緯糸を打ち込むガシャンガシャンガシャンガシャンという大きな音が響いている。 「いなくなっちゃったのかと思った。織機が刻んでるリズムを聞いてたらぼーっとしてしまって自分がどこにいるのかもわからない感覚になっちゃって」 「大丈夫、ずっと近くにいたよ」 経人は里紗の背中に手を触れてShopの方にエスコートした。 何らかの感情が動くようなシーンではなかった。ただフラつきそうな里紗の背を右手の小指で軽く支えたような感覚だけが経人に残った。 「そう言えば、里紗さんのお母さんが新雌さんのファンなんだよね? お土産探そうよ。俺が娘さんにアルバイトを頼むご挨拶」 「えっ、いいんですか? お母さんにまでプレゼントなんて」 「にまで…… もちろん里紗さんも欲しいものを選んで」 「経人さんとお揃いのタマスク欲しいかも」 「じゃあ、俺のも選んでよ」 「きいろ。経人さんの瞳の色ってゴールドだから絶対ぜったい黄色」 今まで黄色が似合うと思ったことはなかった。 でも瞳の色に服の色を合わせるのは理にかなっている。特にマスクのような小さいアイテムでアクセントにするなら悪くない。 結局、マスクの他にもいろいろ買い物をしてShopを後にした。 その後は播州織工房館や組合の直売店を回り、大阪に戻った。 大阪本町のいつものホテルにチェックインしたのは18時。 「じゃあこの後、夕飯食べに行くから19時にフロント前に集合な」 そう言って別々のフロアに別れた。

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