その日は翌日の準備のためレストランもバーも営業時間を短縮していた。 0時前、歩いて家に戻る陽。 リビングの灯りが点いているのが遠くから見える。 ガレージの奥には移転する前のバー金魚鉢が当時と同じ姿で残っている。 看板代わりのブリキの金魚に弱々しい光が灯っていた。 入口の鍵は掛かっていた。 昼間1人でアイスコーヒーを飲むためにバーに入ったが看板のスイッチを入れた覚えはない。 鍵を開けて中に入り照明を点けると扉が開いて薄いブルーのドレス姿の詩穂がいた。 「Blue Moonをお願いします」 「畏まりました」 営業はしていないがカウンターの中に酒は揃っていた。 氷も多少ならある。冷凍庫から出してしばらく空気に慣らす時間が必要だ。 陽は暖房のスイッチを入れた。 「寒くないか?」 「大丈夫」 「月、見たか?」 「ええ」 「月明かりの富士山は?」 「えっ、そんなの見たことない」 「年に何度も見られる訳じゃないし、満月の富士山なんかめったに見られないぞ」 陽は詩穂の肩に自分が着ていたジャケットを掛けて外に誘った。 「月がきれいだと思わず海の方を見ちゃうだろ、だから富士山に気づかないんだ」 「ほんとね。夜、富士山が見えるなんて考えたことがなかった」 寒いから中に入ろう。Blue Moon作らなきゃ。 「大丈夫」 「そう言えば、明日、俺は何をしたらいいんだ?」 「まずは婚姻届に署名と捺印して」 「ブチに証人を頼んだんだな」 「そうよ、ブチさんと美樹さんが証人。その後は皆さんに祝っていただくんだから、あなたはいつものバーテンダーね。和村くんと朱音さんも手伝ってくれるから少しは飲んでも大丈夫よ」 「わかった、賑やかなパーティーにしよう。みんなへの感謝の気持ちを込めて、これからもよろしくお願いしますという気持ちを込めて」 陽はウエストコートのポケットの時計を見た。 23時50分。 「相澤詩穂さん、早く中へ。最後のBlue Moonが待ってる」 ブードルスのジン、マリーブリザールのパルフェ タ ムール、搾ったレモンをシェイカーに入れ、キンっと冷えるまで振り切って、霜がついたグラスに注ぐ。 敢えて少し多く作り、陽はシェイカーのトップに注いだ。 それは見習いのころ、自分で作ったカクテルの味を確かめるためにしていたことだ。 「乾杯」 2人はグラスとトップを合わせた。 「0時ね、お誕生日おめでとう」 「俺と河内詩穂の誕生日だな」 「ずっと待ってた、この日が来るのを」 空にはビーバームーンが浮かんでいる。 グラスの中のブルームーンは空になっていた。
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