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   それでも去年の夏までは、居心地の悪さを感じながらも教室でお昼ご飯を食べていた。  しかし、二学期になってからは、昼休みのチャイムが鳴ると同時に立ち上がり、一年三組の生徒から逃げるように第二理科室に駆け込む。二学期の彩音といえば怪我で松葉杖をついていた頃だ。不自由な体を引きずって移動するのはなかなかに大変だった。  第二理科室といっても今は授業では使われておらず、開かずの間みたいな雰囲気がある。それなのに部屋の片隅に大きな水槽があって、水中では鯉が二匹ゆったりと泳いでいる。  彩音はここに一人でいることを校内の誰にも知られたくなくて、教室の灯りはもちろん、ストーブさえもつけない。  二月の長野は寒い。制服の下にヒートテックを着てなんとか寒さに耐えている。寒くても彩音にとってここが校内で唯一落ち着ける場所になっているのだ。  お弁当を食べる前に、鯉が元気か確認する。うん。今日もほとんど動かないけど口をパクパクさせている。鯉の健康チェックを済ますと今度はスマホのSNSを開く。それがここでのルーティーン。  ラインを開くと、偶然目にしたニュースに胸がズキっと痛んだ。 「新世代ガールズグループ『東京少女』鮮烈デビュー! ユーチューブの再生回数5000万回越え」  彩音の目に最初に飛び込んできたニュースがそれだった。その瞬間、胸の痛みと同時に、アキレス腱に電流が走ったような気がした。  この世には、目を覆いたくなるような残酷なニュースがあふれている。けれど、彩音にとっては『東京少女』の活躍が、何よりも目にしたくないニュースだった。    彩音はスマホの画面を下にして机の上に置き、弁当箱の蓋を開けた。  途端、嫌な匂いが鼻をついた。料理が痛んでいるわけではない。ただ昨日の夕飯の麻婆豆腐とタクアンの匂いが混ざり合ってなんとも気持ちが悪い。せっかくのお昼休みが不快な時間へと変わっていく。思わずため息が漏れた。  薄暗く、カーテンから差し込む光だけが頼りの教室でため息をつくと、この世で一番みじめなのは自分なのではないかと思えてくる。   今、鏡で自分の顔を見れば相当にしみったれた顔をしていることだろう。思えばここ最近まったく笑えていない。これが16歳の青春なのかと思うと自分が情けない。無理やり笑ってみた。笑顔から遠ざかっているせいで頬が引きつる。もっとむなしくなった。  もし、自分が東京少女に選ばれていたら、今頃はたくさんテレビ出て、見ている人に笑顔を向けていたはず。時々、そんなことを考えるが、現状の自分とあまりの違いに愕然とする。  東京少女が出演している番組は出来るだけ観ないようにしている。それでも破竹の勢いで躍進するグループの姿は望まなくても視界に入る。  東京少女のメンバーはテレビの中では、辛いことや悩みなど一つもなさそうに、とびきりの笑顔を振りまいている。けれど、裏では泥臭い青春を過ごしているのだ。プライベートを犠牲にし、レッスンを重ね、時に涙を流しながら、とんでもない努力を重ねている。それは半年前まで一緒にオーディション合宿をし、誰よりもメンバーを間近に見てきた彩音だからこそわかること。そして、飛び散る汗と、感情に任せて流す涙がとんでもなく美しいことも彩音は知っている。    自分もまた、あんな風にきれいな涙を流すことができるだろうか。また歌って踊って、爽やかな汗を流せる日が来るのだろうか。今は想像すらできない。    さっきまで感じていたアキレス腱の違和感が消えていた。やっぱり気のせいなのだ。体育の授業はいまだに見学をしているけど、階段を上り下りしても特に支障はないし、今では足を引きずることもない。もう完治しているといえるだろう。    ためしに弁当を持ったまま立ち上がってみた。そして小さく深呼吸をしてから、右足を引いてクルっとターンしてみた。  痛みはないけど足首が固まっている感覚がある。試しにもう一度ターンしてみた。感触は同じだった。そのまま足だけでステップを踏んだ。ステップを踏むのは合宿中のダンスレッスンでアキレス腱を切った時以来だ。  右、左、左、右。これはレッスンのときに散々なやった東京少女のデビュー曲の振り付けだ。足だけで踊ってみたけど、体の重さを感じる。それになんでだろう、体以上に心がピクリとも動かない。体を動かしてさえいれば、心も弾むかと思った。そして、また自然に歌って踊る意欲が沸く気がしていた。しかし実際は、自分でも驚くほど心が凍っている。まるでやる気が起きない。そしてそのことに焦りを感じている自分もいる。  このまま抜け殻みたいな状態で高校生活を過ごすのだろうか。ただ学校に通って時間が過ぎるのを待つだけの日々。ハリも刺激もない日々を。  そんなのは嫌だった。また何かに情熱をささげたい。心のどこかで自分がそう叫んでいるのが聞こえる。だけどひょっとしたら歌やダンスには、もう情熱を捧げられないのかもしれない。  だとしたら、歌やダンスに代わる何かをみつけられるだろうか。今のところまったく浮かばない。じゃあ大学進学を目指して受験勉強に青春を捧げるのか、それもピンとこない。  彩音は弁当を手にしたまま棒立ちで考え込んでしまった。その時、 「あのさあ、ダンスは終わった?」  入口から男子の声がした。その声にビクッとなって「あっ」と声を上げた。そして、その拍子に弁当を床に落としてしまった。幸い、弁当の中身が飛び散ることなかったが、ごはんとおかずが詰められている面が見事に床に着地した。 「うわっ! やばっ」  男子の慌てる声が聞こえた。彩音はそれに構わず、弁当を拾い上げた。うまくすくって弁当の中身を集めることができたけど、マーボーの餡が床にべっとりとついてしまった。するといつのまにか声を掛けてきた男子が近寄ってきていて、テッシュを取り出し、床を拭き始めた。 「私、やるからいいよ」    男子からティシュを奪い取った。ステップを見られた恥ずかしさから手に力が入る。 「いいよ。だって俺のせいでこんなことになっちゃったんだし」  ティシュを取り上げられたその男子は、もう何枚かティシュを取り出し拭き始めた。  薄暗くてよく見えないが、声とシルエットを見るからに、床を拭いている男子の正体がわかった。 「櫻井潤くんだよね?」  床を拭いている男子のつむじに声を掛けた。 「えっ、俺のこと知っていたの?」  潤はどこか嬉しそうに顔を上げた。 「それは、知っているよ。だって有名だし」  多分、一年生で櫻井潤を知らない人はいないだろう。理由一、イケメン。理由二、部活に入っていないのに体育で大活躍。理由三、この進学校の中でもトップクラスの成績。つまり完璧人間。さらにたまに廊下ですれ違うところを見ると、いつもバスケ部やサッカー部のイケている男子とつるんでいる。つまり一軍だ。  そんな一軍の潤が「えっ?」と言う顔をしながら口を開いた。 「俺なんて別に有名じゃないでしょ、瀬野さんの方がよっぽど有名だよ。それこそ、この町で知らない人はいないと思うよ」 「そんなことないでしょ」とは言ってみたものの、それは否定できない。自分がこの町で注目を集めていたことは実感していた。 「俺も見てたよ。東京少女オーディション」  潤はそう言うと立ち上がり、背負っていたリュックの中から弁当を取り出し、彩音が座っていた机の上に置いた。 「それ食べてよ」  部屋が薄暗くても弁当箱を包んでいるランチクロスのチェック柄はわかった。 「いやいや、いいよ。だって櫻井君が食べるのないじゃん」  まさかこんな申し出をしてくるとは思わなかったので、彩音は慌てて断った。ご厚意はうれしいけど、さすがに他人の母親が作った弁当を食べるのは抵抗がある。 「ううん。俺のは俺のであるから。それは瀬野さん用に持ってきたやつ。ほらっ、俺のはこれ」と潤はバッグからもう一つ弁当を取り出した。 「え?」  意味が分からない。どういうこと? どうして今まで一言も話したことのなかった男子が自分にために弁当を持ってくるの? あっ、もしかしてこの人はファンなのか? オーディションに出ていた時もいろんな人から「応援しています」と声を掛けられたし、道でおばさんから煎餅をもらったこともある。それと同じことなのか。 「それ、俺が作ったんだ。瀬野さんに食べてほしいと思って」  潤は言いながら、部屋のスイッチを入れた。蛍光灯が不揃いなタイミングで光り始める。急に部屋が明るくなって彩音は目を細めた。思えば明るいこの教室を見るのは初めてだった。 「櫻井君が作った? それを私に?」  聞き間違いかもしれない。そう思って聞いた。 「うん。そう言ったじゃん。瀬野さんに食べてもらおうと思って作ったって」  電気をつけたことで潤の顔がはっきりと見える。やっぱり整ったいい顔をしている。いや、顔のことよりもこの状況はなんだ。ちょっと怖い。いやかなり怖い。    呆然としている彩音に対して潤は話し始めた。 「実は、瀬野さんに話があってさ、四時間目の授業が終わってから後をつけたんだ。そしたら急に踊りだしたから声を掛けられなくて」  見られていたことはわかっているけど、改めて言われると恥ずかしさがこみ上げる。それにしても話ってなんだろう。男子が女子に話と言えば一つしか思い浮かばない。心臓がバクバクと音を立て始めた。 「足はもう治ったんだね。じゃあ、またダンスするの?」  潤は彩音のソックスの辺りを指さした。 「うーん。わからない……」  彩音は視線を逸らした。 「そっか。まあ、とりあえずそのお弁当食べてよ」  潤は背中を向けた。 「ちょちょ、待ってよ。これはどういうことなの」  彩音は立ち去ろうとした潤を呼び止めた。告白するんじゃないの? なんの説明もないままお弁当を食べるわけにはいかないし、この一連の行動の理由を知りたい。 「あー、なんか話を切り出すムードじゃなくなっちゃったから、今日はやめようと思ったんだけど」 「いいよ。話してよ」  話してくれないと気持ち悪るすぎる。 「あーそう。じゃあ言うけどさあ」  今から告白される。ドキドキして潤の目を見られない。彩音は握りこぶしに力を入れながら潤の口元を見た。 「一緒に全日本高校生WASHOKUグランプリに出てほしいんだ」  

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