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「今日は学校に来てる? 来ているなら食べてもらいたいものがあるから放課後に第二理科室に来て」  父と二人でさんざん泣いた翌朝、潤にラインを送った。    昨日、泣きやんだ父が愛おしそうに鯉こくを食べている様子を見ていたら、この料理を和食グランプリに出すのもアリなのではないかと思えてきたのだ。  もちろん、この料理自体に思い入れのない潤や審査員が、父みたいに感動するなんて思ってはいない。そこを抜きにしても、もしかしたら、と可能性を感じたのだ。それに潤に伝えたいこともある。   翌日は卒業式だし、来週には春休みが始まってしまう。こういう話は日を置かない方がいいと思った。    潤からすぐに返事が来た。 「わかった。楽しみにしている」  絵文字もスタンプもない簡素なこの文面からは、潤が彩音のラインに対してどう感じているのかはわからないし、本当に楽しみなのかも怪しい。  お前ごときが出しゃばったマネをして。と良く思っていない可能性もある。でも、もう送ってしまったのだから覚悟を決めないといけない。  それにすでに彩音は自宅から昨夜作った鯉こくを小鍋ごと持ってきていて、今は家庭科室の冷蔵庫の中でスタンバイしている。  本当は家庭科室で一から作ろうと思ったが、24時間営業のスーパーでは鯉を買えないことと父の「鯉こくは二日目が美味いんだよな」という一言で考えを改めた。  二日目が美味しいのはカレーだけだと思っていたが鯉こくも本当にそうなのだろうか。でも、ここは父の言葉を信用して、今度は彩音が潤に勝負を挑んだ。  授業が始まり、時間が経つごとに緊張してくる。緊張のあまり、1時間目から4時間目までずっと古文の教科書を開いていた。  不安の理由はわかっている。もしも母のレシピで作った鯉こくを、潤が受け入れてくれなければ多分、自分は傷ついてしまう。それが怖かった。    潤は昼休み、第二理科室に顔を出さなかった。顔を合わせづらいのだろうか。前向きなところもあるのに、繊細なところもある。いわゆるめんどくさい男子だ。彩音は泳ぐ鯉を眺めながら苦笑いを浮かべた。    放課後、ホームルームが終わると速攻で家庭科室に駆け込んだ。そしてビニール袋を開いて鍋のふたを開けた。  筒切りにした鯉が二切れと、三種類の野菜が、茶色いゼリーに覆われている。中々シュールな見栄えだ。朝見たときは驚いたけど、ネット情報によると鯉はゼラチン質で、冷えると固まるらしい。  さっそく小鍋を火にかけた。ゼリーが徐々に溶け出し、味噌の良い変わりが部屋に広がった。この匂いを嗅いでいると勝機があるように思えてくる。  鍋の中身が沸いたら大きめのお椀に鯉を盛り付け、汁をそそぐ。最後に上から刻んだ分葱を添える。これで完成だ。  お盆に鯉こくをのせて彩音は走った。待ち合わせ場所を家庭科室ではなく、第二理科室にしたのにも理由がある。でも汁が冷めてしまっては台無しだ。すれ違う生徒に好機の目で見られるのは恥ずかしかったけど、彩音は湯気立つお盆をもって急いで潤のもとに向かった。    第二理科室の戸を開けると、潤は頬杖をついてぼーっと鯉を眺めていた。 「お待たせ」  声をかけると潤は振り向いた。表情が浮かないところを見ると、まだ悩んでいるのだろう。 「それ、食べさせたいものって」  潤の視線がお盆の上に移ると心臓が動き始めた。 「うん。食べて。お好みで七味もどうぞ」  彩音は盆ごと机の上に置いた。 「なんだか温まりそうだね。でもこれはなんだろう。ただの味噌汁じゃなさそうだね」  潤はお椀の中身をじーっと眺めてから箸をとった。  彩音は立ったまま潤の様子を伺う。  湯気の立つお椀を手に持つと「じゃあ、いただきます」と言って口をつけた。彩音の鼓動が速まる。  ずずっと汁を吸う音が聞こえた。一口飲んでお椀から口を離したが、潤は何も言葉を発しない。今度は箸を持ち、鯉の身を口に運んだ。そしてもう一度汁をすすり、また身を食べた。それを何度か繰り返した。その間に、何回も首をひねった。口に合わなかったのだろうか。  美味いとも不味いとも言わない。じれったくなった彩音は「ちょっと食べながら聞いてほしいんだけど」と前置きして話を始めることにした。 「潤は東京の人だから、もしかしたら知らないかもしれないけど、佐久は佐久鯉が名産でさ、この鯉こくはお祝いとかお正月とか特別な時に食べる料理なんだ」  話しを切り出しても潤は反応を示さず、鯉の身を箸でつまんでいる。彩音はかまわず話をつづけた。 「私、東京少女のオーディションに落ちた時、プロデューサーから『あなたはあなた自身の色を見つけてください』って言われたんだ」  突然、鯉の話からオーディションの話になったからか、潤がぴくっと動いた。 「落ちた直後はショックでなにも考えられなかったけど、合格した五人を見て思ったのは、みんな歌とかダンスとか声の質とかそれぞれ個性があるんだ。で、みんな、その個性を精一杯生かそうと頑張ってて…… でも私はうまい人の真似を頑張っていただけで、自分が見えてなかった。だから落ちて当然だった」    最終選考の間際になっても、彩音は憧れのメイの真似ばかりしていた。上手い人に近づく。それが合格への道だと誤解していた。でも違った。どんなにメイの真似をしてもメイにはなれないのだ。 「だからさあ、私がいうのも気が引けるんだけど」 「要するに、それが鯉ってわけなんだね」    彩音の話を遮るように潤が言葉を発した。 「あっ、え?」  意味を分かりかねた彩音は潤の顔を見た。 「だから、要するに、あいつがやるみたいな正統派の日本料理じゃなくて、俺たちならではの個性を見つけ出す。そんでその方向で頑張る。そういうことでしょ?」    あいつ。とは上村宗太のことを指しているのだろうか。潤は顎に手をあててうーんと考え込み「そうか、これが鯉か、そうか鯉か」とブツブツ言い始めた。 「で、どうだった?」  思い切って彩音は尋ねた。反応から手ごたえを感じた。  すると潤は顔を上げた。 「噂によると鯉は臭いって聞いたことがあるけど全然そんなことないし、なにより出汁のうまみがすごい」 「本当?」 「うん。いけるよこれ。出汁がテーマだけど、よく考えたらカツオと昆布にこだわる必要ないもんな。むしろ、それ以外でやった方が個性的だ。もしかしたら鯉こくだけじゃなくて、佐久鯉を使ったいろんな料理を試作したらオリジナルの料理が見つかるかもしれない。いっそのこと鯉づくしでいこうか」    潤は霧が晴れたように、はじける笑顔を彩音に向けた。    よかった。緊張が解けて気が抜けた。今すぐにでも地べたにへたり込みたい。  もしも鯉こくを気に入ってもらえなかったら、立ち止まったままで前に進めないような気がしていた。鯉の料理が和食グランプリに勝つためにベストなのかはわからない。それでも一歩前進したような気がした。  ほっと胸をなでおろしていると、潤がクククっと笑った。 「彩音、でもさあ、熱々のお椀をわざと寒い部屋で食べさせたのは作戦としてはいいと思うけどさ、泳いでいる鯉の前で食べさせるのは悪趣味だよ」    にやけながら潤は水槽を指さした。    言われてみると、たしかにそう思う。でもこの二匹の鯉のおかげで鯉こくを作る気になった。彩音は水槽でほとんど動かない鯉に対して感謝しながらも、気まずさを感じていた。

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