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   学校から自転車で十分くらい走らせると、「ツル屋」という大きなスーパーがある。この辺りには大手チェーンのスーパーはたくさんあるけど、鯉が売っていそうなのはツル屋だけだった。  店に入り、一目散で鮮魚売り場に向かうと、マグロや鯛、イカにエビなどに紛れて筒切りにされた鯉が置かれていた。  カゴに入れてさっそくレジに向かおうとすると、お菓子売り場で、保育園くらいの女の子が通路を塞いでいた。どうやら何かの曲に合わせてダンスをしているようだった。女の子は背を向けているので、彩音の存在に気づいていない。可愛らしさに癒され、もう少し近くに寄ってみた。すると小鳥みたいな歌声も聞こえてきた。曲名はすぐわかった。東京少女のムーンだ。  彩音はスナックを選ぶふりをしながら、女の子の歌とダンスに見入った。  動くたびに女の子のポニーテールがぴょんぴょんと揺れる。髪を結んでいるゴムの色を見て、これは東京少女のリーダーメイの真似なのだと確信した。メイはポニーテールに緑のゴムを使うと決めていた。本人曰く「ゲン担ぎ」だそうだ。  きっとこの女の子はメイを推しているんだ。こんなに小さな女の子にまで影響を与えているなんて、ただただすごいと思う。それと同時にあらためて東京少女は遠くに行ってしまったのだと実感した。  リーダーのメイはオーディションの参加者の中で最年長で、さらに実力も一番だった。性格は姉御肌で、未経験者の彩音に体の動かし方や声の出し方まで親切に教えてくれた。  他のメンバーと比べても、メイは特別で、二次選考で初めて見たときから、この人は絶対に合格するだろうなあと思っていた。見た目もオーラも実力もそれくらいズバ抜けていた。だから彩音はメイをライバルだなんて思えず、憧れの先輩として見ていた。メイのなだらかなビブラートや、腰のくねらせ方。メイの良いところはすべて真似した。当時の彩音はそれが合格への近道だと信じて疑わなかった。  でも、今となればわかるが、それが良くなかった。最終選考で落選したのは怪我だけが原因ではない。    東京少女のメンバー発表の日。彩音は松葉杖で参加した。ステージの上に立ち、祈る気持ちで自分の名前が呼ばれるのを待った。しかし結局、最後まで彩音の名前が呼ばれることはなかった。半年に渡る挑戦が終わった瞬間だった。どんなに厳しいレッスンでも涙を流さなかった彩音だったが、これまでの日々が脳裏をかけめぐったからなのか、それとも悔しさがあったのか、自然に涙があふれた。    落選が決まり、号泣する彩音にプロデューサーはこう声をかけた。 「誰でもない。あなた自身の色というものをみつけてください」  プロデューサーにはすべて見透かされていたのだ。    「誰でもないあなた自身の色」この言葉が今ならわかる。    メイの物真似じゃダメだったんだ。プロデューサーが求めていたのは、彩音独自の色だったのだ。    あの日のことを思い出し、感傷に浸っていると、女の子の姿はなくなっていた。我に返った彩音は速足でレジに向かった。                             🐡    家に帰り、さっそく鯉こく作りを始めた。  母のメモによると、まずは鯉を洗う。血合いも多少はついているので水で流す。臭みの原因になるとのことだった。そして水と大量の日本酒で鯉を煮る。日本酒は父の晩酌用の佐久の地酒を拝借した。鯉こくには味噌汁と違って出汁を使わない。鯉の身やアラが出汁になるからだ。鯉を煮ながら途中でじゃがいも、ゴボウ、大根を加えて煮込む。そして最後に味噌を溶かし入れる。    母のレシピを信用していないわけではないけど、一応、ネットで他の作り方も調べた。そこで気づいたのは、一般的なレシピでは鯉以外の具は入れていないことだった。どうやら野菜を加えるのは母のオリジナルらしい。  味噌を入れて煮込んでから、最後にもう一度味噌を足して味を調える。  彩音はお玉でおちょこに汁を注ぎ、味見した。 「あっ、あっあっあっ」  彩音はもう一口味見した。  これはもしかしてとんでもなく美味しいのかもしれない。それになんだろう、すごく懐かしい。しかも気分が高揚するような懐かしさがある。この感覚はなんだろう。クリスマスでも運動会でも、誕生日でもない……  しばらく考えてわかった。この感覚はお正月だ。さらに言えば、母が生きている頃のお正月。あの頃は本家である我が家に親戚が大勢集まっており、一年で一番賑やかで華やかで楽しい日だった。  正月の母は本家の嫁として大忙しだった。毎年、十五人くらい、多いときは二十人近くが我が家に集まっていたが、祖母が亡くなってからは一人で料理を用意した。大変なことだと思うが、勝気な母は苦にすることはなく、お客の数が多ければ多いほど燃えるタイプだった。 「よし、やるか」と気合を入れて、クリスマスが過ぎるとすぐに仕込みを始めていた。彩音も良く手伝っていた。とは言っても母からすると邪魔だったのかもしれない。母の作る甘い伊達巻が好きで、手伝いながらつまむのが格別だった。  我が家では母の特製のおせちと一緒に食卓に上るのが鯉こくだった。おせちと鯉こくの組み合わせは彩音の中では当たり前だったので、日本中みんなそうだと思っていたけど、どうやら佐久市限定だということはだいぶ大きくなってから知った。    一月二日、午前中も十一時を過ぎると、親戚が続々と我が家にやってくる。母から「ちゃんと挨拶しなさい」と言われ、彩音は照れながら「あけましておめでとうございます」と玄関で挨拶する。中には一年ぶりに会う同世代の従妹もいて、再会がうれしかった。  みんなが集まると、宴会が始まり、親戚のおじさんたちからお年玉をもらう。正月の楽しみといえばやっぱりお年玉だった。  大人たちは宴会が始まると、お酒を飲んで陽気になる。最初は子供たちも大人しくごはんを食べているけど、すぐに飽きてしまう。そうなると宴会から抜け出して、同世代の従妹同士で遊ぶ。トランプをしたり、わけもなくじゃれあったり、雪が降っていれば外に出て雪合戦をした。  懐かしい風景が脳裏に浮かんだ。    正月の恒例行事は、母が亡くなってからはなくなった。親戚が集まっても母がいなければもてなすことはできない。そういった事情を親戚たちが考慮したのだと、今ならわかる。それでも当時は母の死と合わせて余計に寂しく思ったのだった。  母の死以来、正月は父と二人きり。正月のイメージがすっかり変わってしまった。  あの頃が懐かしい。楽しかったお正月を思い出すと、併せてエプロン姿の母がせっせと親戚たちをもてなしている姿が浮かぶ。あんなに元気だったのに。そう思うと鼻のあたりがつーんときた。目頭も熱くなる。だめだ泣いちゃだめだ。こんな姿を父に見られたら心配される。そう思って必死に涙を堪えた。    幸い、父が帰ってくるころには気持ちもなんとか静まった。スーツを脱ぎ、色落ちしたトレーナーに着替えた父が食卓にやってくると、彩音は何食わぬ顔で鯉こくを父の目の前に置いた。 「おっ、鯉こくじゃないか」  父はお椀の中を見て声を上げた。こういうリアクションをしてもらえると作った甲斐がある。 「早く飲んでみてよ」 「ああ」  父はさっそくお椀を持ち上げて口をつけた。反応が見たくて彩音はおかずに箸をつけずにじっと見ていたが、父はお椀から中々口を離さなかった。やっと口を離したと思ったら、メガネが曇っていた。間抜けでちょっと笑ってしまった。 「どう? お味は?」  彩音は笑いながら尋ねた。 「うん。うまい」  それだけだった。意外と反応が薄くてちょっとガッカリだ。 「どう? お母さんとおんなじ?」  彩音が聞くと、父は固まっていた。 「同じだ。順子のとおんなじだ。おんなじだああ」  あれっ、父が肩を震わせている。そのことに戸惑っているうちに、父のメガネの曇りが取れた。  父が泣いている。目をぱちぱちさせながら泣くのをこらえようとはしている。でも全然堪えられていない。むしろ秒を追うごとに涙が溢れ、嗚咽に繋がった。 「ちょっと、お父さん泣かないでよ」    駄目だ。そんなのを見させられたら泣いてしまう。せっかくさっきは堪えられたのに。父の涙はすぐに彩音に伝染した。  そのあと、しばらく二人は声を出して泣いた。けっこう大きな声で泣いていたと思う。父が泣き止んだと同時に彩音も泣くのをやめ、すっかり冷めてしまった鯉こくを鍋に戻してもう一度温めた。  再びお椀に盛って食卓に置くと、目を真っ赤にした父は鯉こくをすすった。 「彩音、美味い。本当に美味いよ」  父は目元を濡らしながら微笑んだ。 「じゃあ、今度から時々作るね」  彩音が言うと、父は首を横に振った。 「いや、しばらくいい」  父は噛みしめるように鯉の身を味わっていた。  

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