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   3月も10日を過ぎると歩道に雪はほとんどなく、徐々に空気が暖かくなってきた。昨日よりも薄手のコートを着て、潤の家に向かうと、潤はすでに家の前で自転車に跨っていた。 「えっ、私遅れた?」  声をかけると潤は彩音を見て首を横に振った。 「いや、大丈夫。じゃあ行こう」  潤はそう言うと、ペダルを漕ぎ始めた。どこまでもせっかちだな、と彩音は思った。  自転車を漕ぎ始めてすぐに潤が思い出したように口を開いた。 「今から、30分以上漕ぐけど足は大丈夫」  潤の視線が下に向かった。 「ああ、うん。もう大丈夫。ありがとう」  もうすっかり足は良くなっている。何の支障もないから休み明けは体育も再開しようと思った。今ならダンスの練習を始めることだってできる。一瞬、ダンスをしている自分の姿が脳裏を過ったが、それを打ち消すように首をブルブルと横に振った。今は和食グランプリに集中だ。そう自分に言い聞かせた。  三十分漕ぐと、「そろそろだな」と潤が減速した。  目的地が近いらしい。しかし、彩音は周りを見ながら首を傾げた。そこはどう見ても住宅街で、こんなところに飲食店があるとは思えなかった。 「ねえ、なんていう名前のお店?」  お店探しを手伝うために聞いた。 「ラスボス」 「ラスボス? それがお店の名前?」 「うん。変な名前だよなあ。でも、料理は良さそうなんだよ。東京の有名店で修業してるし」  潤はきょろきょろしながら言った。  そうなのか。ラスボス、ラスボス。彩音は口に出しながら探した。 「あった」  潤が自転車を止めた。  彩音も慌ててブレーキを掴むと、たしかに木製の板にラスボスと書かれた看板があった。 「思ったよりいい雰囲気だね」  率直な感想だった。名前からして悪の組織が潜んでいそうな秘密基地を想像したが、実際のラスボスは古民家を活かした趣のある外観で、店の前には柊が植わっている。  彩音たちは駐車場に自転車を止めると、ラスボスと書かれた紺色の暖簾を潜り、靴を脱いで店内に入った。花のようなお香の匂いが香っていた。    店の中は掘り炬燵式のテーブルが四卓とカウンター6席。木の温もりを感じる凛とした内装だった。  雰囲気は凄くいい。でも客が1組もいないのが気になった。それに店員の姿も見えない。  スマホを開くと、一時十五分。食後に鯉について店主から話を聞くためにランチ時間のピークは避けたつもりだった。それにしても静かすぎる。  立っていても誰も来ないので潤は「すみませーん」と大声を出した。  すると、カウンターの奥から「はいー」という声と共に男性が出てきた。 「いらっしゃいませー。お二人ですかー」  他に店員がいないことから、この人が店主なのだろう。顔色が悪く痩せていて幽霊みたいだ。見た感じ三十代にも見えるし五十代にも見える。いわゆる年齢不詳な人だった。でもそんなことよりも…… 「二人です……」  潤は答えたが、戸惑いは隠しきれていない。 「お好きな席へどうぞー」  店主に言われるまま、彩音たちは一番近くの掘りごたつ席に腰をおろした。 「ねえ、見た?」  開口一番、彩音は言った。 「うん。そりゃ見たよ。変わっているのは店名だけじゃなかったな」  潤が小声で言うと、 「はいー。すみませーん」と店主が近寄ってきた。歩くたびに、店主が着ているTシャツにプリントされたアニメの美少女の顔がゆがむ。  店主は湯気の立った湯呑を置くと「お決まりになったらお呼びくださいー」と言ってカウンターの奥に戻っていった。 「いわゆるヲタってやつだよね。でもさ、何も店で着なくても」  彩音はお茶を自分の近くに寄せた。 「あの人が、店主の池亀さん。高校卒業後に東京の料亭「菊川」にて修行、二年前に地元である佐久市で和食店ラスボス開業」  潤は棒読みで声に出した後「ってネットに書いてあった」と付け加えた。 「その菊川って有名なの?」  高級料亭に縁遠い彩音からするとまったくわからない。 「うん。かなりね。ちなみに一縷とライバル的な感じもある」  潤は言ったあと、「それよりさ」とメニュー表を開いた。 「ランチメニューに、佐久鯉御膳ていうのがあるんだけど、それでいいよね?」  潤は開いたままメニュー表を彩音に渡した。  目を向けると、ランチメニューは五種類。佐久鯉御膳以外は、天ぷら御膳、刺身御膳、松花堂弁当と、いたって普通のメニューだ。 「うん。もちろん」  潤は店主の池亀さんを呼び、佐久鯉御膳を注文した。やっぱりTシャツに目がいってしまう。 「なんかあの人見てると気が抜けるよな。あの『はいーっ』ていう語尾」    苦笑いを浮かべる潤の気持ちもよくわかる。こんなに濃厚なキャラの店主だとは誰も思わない。 「でも、収穫あるといいね」    彩音はお茶をすすりながら潤の顔を見た。鯉料理でいくと決めたものの、中々オリジナリティのある料理が浮かばないせいで、潤の表情はどこか冴えない(ような気がする)。ここでの食事が何かヒントになればいいなあと思った。  十五分くらいすると、「お待たせしましたー」という緩い声とともに二人分の佐久鯉御膳が運ばれてきた。 「本日の佐久鯉料理ですー。鯉のから揚げと熟成鯉のお刺身、それから鯉のつみれ汁でーす。暖かいうちにどうぞー」    二人の前にお膳を置くと、池亀さんは厨房に戻っていった。 「なんかうまそうだな」    潤の目が輝いた。   「うん。たしかに」    鯉のから揚げから良い匂いがする。それから汁も味噌仕立てではなく、すまし汁というのも初めてだ。 「じゃあ、食べよう」    潤は竹箸を割った。    彩音はまず、から揚げに手を付けた。 「うわ、から揚げ美味しい」    しょうがの香りがガツンと来た。自然とごはんに手が伸びる。これは鶏のから揚げの味を鯉で再現しているんだ。鯉の難点である小骨が気にならないように、身にたくさん切り込みを入れているから食べやすい。 「彩音、このつみれも上手いよ。普通つみれって言うとイワシとかだけど鯉も全然負けてない。っていうかこっちの方が好きかも」  潤がすごい勢いで口に運んだ。この後しばらく二人は無言で箸を動かし続けた。そしてほぼ同時に平らげてから潤が口を開いた。 「全部旨かったけどさあ、刺身すごくない? やっぱ熟成がポイントなんだな」 「うん。私も思った」  同じ刺身でも、鯉の洗いの美味しさとはまったく違った美味しさがある。 「よし。ちょっと挨拶しようか」  すみませーん。潤は厨房に声を掛けた。料理に感動したせいか、声が弾んでいる。 「はーいー」    池亀さんは前掛けで手を拭きながら小走りでやってきた。Tシャツの女の子が目に入るとこの料理を作ったのが本当にこの人なのかと疑ってしまう。 「料理めちゃくちゃうまかったです。感動しました」  最初は疑心暗鬼だった潤が尊敬のまなざしを池亀さんに向けている。 「ありがとー。感動って言われるとうれしいーなー」  うれしーなーと言いつつ、表情からは喜んでいるのかわからない。というかこの人は感情が顔に一切現れていない。 「本当に勉強になりました」  潤が言うと、ここでやっと池亀さんが表情を変えた。 「お客さんたち、見たところ高校生くらいだけど料理の勉強しているの―?」  不思議そうに池亀さんが尋ねた。 「あっ、はい。実は」そう言って潤は姿勢を正した。それに合わせて彩音も背筋を伸ばす。 「僕たち、今年から開催される全日本高校生WASHOKUグランプリという大会に出るんです。それで僕たちは地元食材の鯉を使おうと思っていて、今日は勉強させてもらいました」  潤にとっては地元じゃないだろ。と突っ込みたくなったが、彩音は黙った。 「それは一品だけ作るのー?」  アニメにしか関心がなさそうな池亀さんが食いついた。 「いえ、ごはんものを入れなくてはいけないという決まりはあるんですけど、それ以上細かい指定はないんですが、一汁三菜で考えてます。なので鯉づくしでいこうかなと」 「鯉づくし」  潤の言葉を反復したあと、 「そうなんだー。なんだかうれしいなー」  池亀さんの口元がわずかに緩んだ。  彩音と潤は自然と顔を見合わせた。その理由は多分、池亀さんの笑顔がちょっと不気味だったからだ。 「僕ねー、佐久鯉と魔法少女ポリンは同じくらい好きなんだよー」 「あっ、そうなんですか」  潤が苦笑いで答える。鯉への想いはわかりづらいけど、Tシャツの女の子が魔法少女ポリンということはわかった。 「高校生が鯉に目をつけてくれたのも嬉しいからさー。僕にできることならなんでも協力するよー。鯉御膳は内容もしょっちゅう変えるからまた食べに来てよー」  池亀さんは嬉しそうに言った。そして「ところで魔法少女ポリンて知ってる?」と二人に尋ねた。  二人そろって首を横に振ると、池亀さんがこちらが望んでもないのに魔法少女ポリンについて説明を始めた。  その説明が長く、ちらっと横を見ると潤の顔が引きつっているのがわかった。  どうやら魔法少女ポリンは武器で戦うわけではなく、歌声で相手を癒すのが必殺技らしい。どうでもいいけど。  池亀さんの説明が終わると、あらためてお礼を言って店を後にした。 「結局、鯉のことは教えてもらえなかったなあ」  帰りの道中、自転車を漕ぎながら潤が嘆いた。 「そうだね。ポリンに話が移っちゃったからね」  鯉とポリンは同じくらい好きと言っていたけど、彩音の見立てとしてはポリンに軍配が上がりそうだ。 「にしても、お客さんは全然入ってないけど大丈夫かなあの店」 「たしかにね。でも理由はわかるよね」  理由は料理と建物以外のすべてだと彩音は思った。 「まあ、味はたしかだから、また食べに行こうよ」  潤は前を向いたまま言った。  

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