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「今日の目標は50分切ることな」  作業台に並べ終えると潤が表情を引き締めて言った。  潤の声掛けに、彩音は頷いてから、ふーっと息を吐く。そして手首を回しながら頭の中で手順を確認する。    夏休み中の学校は静かだ。潤が黙ると、エアコンの羽の音がやたらと聞こえる。  夏休みに入っても休みなんてなく、毎日練習を続けている。   本番まであと三週間。決勝進出が決まってからより一層気合が入っていた。    決勝大会では書類審査のレシピを再現する。だから、メニューで頭を悩ますことはない。しかし、課題はある。それは仕上げるスピードを上げることだ。  本番では、60分以内に3食分を作る。ラスボスで池亀さんに試食してもらったときは一時間半もかかってしまった。この1か月は30分を縮めるための特訓に充てている。  練習ではスマホのタイムウォッチを使い、本番と同じように3食分を作る。料理を作り終えると、タイムを調べ、その数字に一喜一憂する。まるでコンマ何秒を競う陸上部のようだ。  最初はだいぶオーバーしていたが、ここ最近は規定の一時間以内に仕上がる日の方が多くなった。  でも、それは使い慣れた家庭科室だからであって、本番では慣れないキッチンを使う。しかも、とてつもない緊張を伴う。だったら余裕を持って家庭科室では50分以内に収める。これが潤の打ちだした目標だった。   「昨日も言ったけど、彩音が鯉の下ごしらえしている間に、俺が野菜切っておくからね」  潤はスマホを取り出しながら最終確認をした。  分担も練りに練った。最初はから揚げと鯉こくを彩音が担当して、鯉のたたきと漬け丼を潤が担当するという完全な分業制だったが、効率を考えて、お互いに協力して作ることにした。 「じゃあ、行くよ。よーいスタート」  潤がスマホをタップすると、二人同時に動き出す。彩音はまずは鯉を洗うところからはじめる。その為に水道の蛇口をひねった。その時だった。  ガラガラとドアが開き、 「櫻井くーんお客さん」  普段あまり見ることのない事務員のおばさんが家庭科室に顔を出した。 「お客さん?」  潤は包丁を手に怪訝な顔で言った。  せっかく集中していたのに、水をさされてしまった。  それにしても学校にお客さんて誰だろう。 「誰ですか?」  潤がそう口にしたと同時に、そのお客さんは家庭科室に足を踏み入れた。 「あっ」  彩音にはそれが誰だかすぐにわかった。坊主頭に四角い顔、近くで見てもやっぱり高校生に見えないほどの貫禄。ポロシャツをズボンにインしていて、まるで休日のお父さんみたいだ。 「兄ちゃん」  潤は困惑の声を出した。 「よう、潤。久しぶりだな」  上村宗太はゆっくりと潤に近づく。一歩一歩ただ歩くだけで迫力がある。  彩音は当人ではないにも関わらず心拍数が一気にあがった。  じっと宗太を見ていると、向こうも彩音に気付いた。 「うわっ、本物だ」  宗太は一気に表情を崩した。鋭い目つきが笑うと垂れ下がって別人になる。ゆるキャラみたいで案外かわいいかも。そんなことを思っていると、潤の方に足が向いていた宗太は、かくっと方向転換し、彩音の方に近づいてきた。 「彩音ちゃん。オーディション見てました。3次審査の段階で僕の推しは彩音ちゃんだったんだ」  宗太は目を輝かせながらながら彩音の手を握った。ごつい手だった。そして握る手が無駄に力強い。彩音はその勢いに圧倒されて声一つ出なかった。 「おい、やめろよ。何やってんだよ」  潤が宗太の手を払い抜けた。 「何やってんだよって。俺は彩音ちゃんのファンなんだよ」  宗太は不機嫌そうに潤を睨んだ。彩音に向ける顔とはまったく違って眼光が鋭い。 「知らねえよ。そんなの」  潤も宗太を睨みつけた。    にらみ合う兄弟を見て、ここで取っ組み合いの喧嘩になったらどうしようと、そわそわする。 「で、わざわざ何しに来たの?」  潤が宗太から視線を外しながら言った。   「ちょっと用事があったんだよ。それよりも決勝進出おめでとう。俺のチームも出るんだよ」    やっぱり宗太のチームも決勝進出か。当然と言えば当然かもしれないけど、あらためてこの人がライバルになると思うと不安になる。  しかし、腑に落ちないのは、どうして彩音と潤のチームが決勝に残っていると宗太が知っているのだろう。サイトではまだ決勝進出チームの名前はあかされていない。それなのに、知っているとなると、審査員長を務める父親から聞いたのだろか。まさかレシピまで見られているのだろうか。だとしたら納得がいかない。 「おめでとうは、グランプリを獲った後に言ってほしかったな」  潤が挑発的な顔で真正面から宗太の目を見た。  うわっ、言っちゃた。と彩音は焦った。恐る恐る宗太の横顔を見ると、あきらかに表情が強張った。  二人の間で、今にもバチバチと火花の音が聞こえてきそうだ。 「わかった。その時にもう一度言うよ。そんなことよりも、なんでお前が彩音ちゃんと出るんだよ。彩音ちゃんのインスタにお前が映っていたのを見たときは怒鳴り込んでやろうと思ったよ」  インスタを見てくれてるんだ。私も見てます。と割り込もうと思ったけど、そういう空気でもないのでやめた。 「そんなのはどうでもいいだろ。あのさあ、俺たち練習中なんだけど。何、もしかしてスパイ?」  潤は作業台の上の食材を指さした。 「スパイなわけないだろ。ったく悪かったよ。じゃあ行くよ。本当にお前は冷たいな」  宗太は潤に背を向けて部屋から出ようとした。しかし入り口のあたりで立ち止まり、 「彩音ちゃんは頑張ってね。また決勝で会いましょう」  宗太は愛嬌のある笑顔を彩音に向けてから家庭科室をあとにした。 「まったくなんだったんだ」  潤は作業台の前に戻りながらご立腹の様子だ。 「ねえ、用事って何だったんだろう」  こんな田舎に用事なんてあるとは思えなかった。 「さあ、あっあれじゃない? ただ彩音に会いたかっただけじゃない?」  それだけかなあ。それだけで東京からわざわざ新幹線に乗ってやってくるだろうか。彩音には疑問だった。 「それより、練習だ。50分切るぞ」  潤は、「じゃあ、いくぞ」と声を掛けてからスマホのストップウォッチを押した。  この日の動きは最悪だった。彩音も潤も分担を間違えたり、火をかけ忘れたり、普段だったらしないようなミスを連発してしまった。当然、タイムもさんざんでここ二週間ほどでワースト記録を出してしまった。 「あいつのせいだ。あいつのせいで調子が狂った」  帰り道に自転車を漕ぎながら潤は怒っていた。照り付ける太陽の熱さも潤を余計にいら立たせているように見えた。  潤は家に着くと、「じゃあな」ではなく「明日は50分切るぞ」と鼓舞しながら自転車を降りた。  それにしても暑い。彩音はアイスが食べたくなり、コンビニに向かった。  ペダルを漕ぎながら、練習を思い出す。彩音にもミスがあったことは認めるけど、どちらが多くミスをしていたかというとあきらかに潤の方だった。宗太の登場で相当に心をかき乱されたことは間違いない。  潤の家から5分ほど走らせると、コンビニが見えた。自転車を降り、店内に入ると外の熱さから解放されて気持ちが良かった。  これだけ熱いとクリーム系より氷系のアイスがほしくなる。彩音はガリガリ君と迷った末にスイカバーを手に取り、レジに向かった。お金を店員に払い、コンビニから出ようとした。すると、イートインスペースでアイスコーヒーを飲む人影が目に入った。自動ドアが開いた音で向こうの視線も彩音に向き、「あっ」とお互いが指をさしあった。  

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