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 薄暗い帰り道、自転車を走らせながら、潤が「あのさあ」と声を掛けてきた。  彩音は隣で自転車を漕ぐ潤に視線をやった。 「ありがとう」  潤は彩音と目を合わさずに前を見たまま言った。 「えっ、なにが?」  突然お礼を言われて彩音は驚いた。 「いや、鯉こく、凄く美味しかった。それに…… 方向性が見えたよ。実は、この前、彩音に言われたことがずっと引っかかっててさ」  辺りが暗くて表情はよくわからないけど、潤の顔が晴れやかに見える。 「俺さあ」と言って潤は話を続けた。 「どうやったら勝てるかなって。あいつよりも良い料理を作ることばかり考えていたけど、たしかに正面から攻めてもあいつには勝てないよ。それは認めることにした。さっきの話を聞いて気づいたよ」  あいつ?   「ええと、ところであいつって言うのは誰のこと?」  彩音は潤の横顔に尋ねた。 「あいつはあいつだよ。彩音、前にインスタ見せてきたじゃん」 「ああー。上村さんのこと?」  潤は首だけで返事をした。  そういえば、この前「あいつには絶対に負けたくない」と潤は言っていた。でもそれは誰にも負けたくないという意味だと思っていた。 「あのさあ、もしかしてあの人と知り合いなの?」  彩音が聞くと、潤はためらった様子で、少し間をおいてから答えた。 「知り合いも何も、兄貴なんだよ」 「えええー!」  驚きのあまりハンドル操作が乱れた。彩音は電信柱にぶつかりそうになったが寸前でブレーキを踏んだ。 「危ないなあ」  潤も止まって彩音の方に近寄ってきた。 「いや、ちょっと驚きすぎて……」 「まあ、そうだよな。俺もインスタ見せられた時は驚いた。あの時に言えばよかったけど、あいつのことを兄貴って呼びたくなくてつい言いそびれた」  潤は神妙な表情でそう言うと再び自転車を漕ぎ始めた。 「ねえ、その、どういうことなの。苗字も違うし、その、なんていうか険悪な感じだしさ」  彩音は慌てて潤の後を追った。 「そんなの想像できるでしょ。親が離婚したんだよ。俺は母親の方について、あいつは父親についたの。ちなみにあいつの父親は東京の料亭「一縷」の店主で、和食グランプリの審査員長だよ」 「えっ、そうなの」  またもや驚いた。サイトは見たけど審査員長までは確認していなかった。そうか、潤は有名料亭の息子だったんだ。だから才能があるんだ。潤の料理の腕前に納得しながらも、兄と父親との関係の悪さがなんだか気になる。そんなことを思っていると、潤の家の前に着いてしまった。潤がブレーキを踏んだので、いつもならここでお別れだけど、聞きたいことは山ほどある。  彩音もブレーキを踏んだ。このままバイバイする気にはなれなかった。そう思っていると、 「気になるよね?」  彩音の心を見透かしているかのように潤は聞いた。 「うん……」 「今ここで言う話は聞いたらすぐに忘れてくれる? だったら事情を話すけど。バッテリーは洗いざらい話さなきゃいけないからな」  潤は俯きながらそう言った。今ここで聞いたことを忘れるなんて無理に決まっている。それにこんなところで立ち話をするのは寒すぎる。彩音は路肩にたまっている汚れた雪を見て、より寒さを感じた。それでも事情は聞きたい。 「わかった。忘れるように努力する」  彩音はそう答えた。 「じゃあ、順を追って話すよ」と前置きし潤はふーと息を吹いた。 「小さいころから、俺の記憶の中では父親と母親は仲が良くてさ、でも、数年前からなんとなく家庭の空気みたいのが悪くなっていくのは感じてはいた。で、結局離婚したんだ。理由はわかっていてさ、母親も父親と結婚してからは料亭の女将をやっていたんだけど、どうやら母親には女将の仕事が向いてなかったみたいなんだ。というか母さんは母さんでやりたいことが見つかっちゃったんだよね。だから今はここから大学に通って勉強してるよ」  そうか潤の母親は大学生なのか。そのことも気になったけどそれ以上に気になることがあった。 「ねえ、それが離婚の原因になるの? だって仲良かったんでしょ?」  彩音にはいまいち理解できなかった。女将をやめたとしても離婚までする必要はないと思う。 「一般の家庭なら、もしかしたら離婚はないかもしれない。でもさ、家みたいに老舗の料亭だとそうもいかないんだよ。家族全員で店と向かい合わなくちゃダメなんだ。だから離婚は両親のどちらが悪いということじゃない。まあ、母親が女将をしてくれていれば、こんなことにはならなかったと思うけどね」  話を聞いていて、実は彩音も思った。母親がわがままなんじゃないかって。家族のためにがんばれないのかって。  疑問が顔に出ていたのか、潤が話し始めた。 「でもね、母親を責められないのは、やっぱり自分に合わない仕事をしているのは辛いんだよ。それで体の調子も崩しちゃったしね。女将って楽な仕事じゃなくてさ、誰にでもできるものでもないんだよ。それで、だったら離れた方がいいってことになったんじゃないかな。ただついでに俺まで離されちゃったんだけどね」 「離された? どういうこと?」  彩音は首を傾げた。 「それは、父親が俺よりも兄をとったってことだよ……」  潤が辛そうな声を出したので彩音はなんと返していいかわからなかった。 「うちの兄はさ、長男だから幼いころから店を継ぐことは決まっていて、いわゆる暗黙の了解みたいなね。だから早い段階から高校は調理科に進むことは決まっていたし、よく店も手伝っていたよ。でも俺は次男だし、絶対料理人になるって感じではなかったんだ。自分で言うのもなんだけど勉強が得意だったから、望めばなんにだってなれると思ってたし。料理はたくさんある選択肢の一つくらいに思っていた。でも、実は一番大きな選択肢の一つだったんだと思う。なのに、父親は俺からその選択肢を奪ったんだ」  潤は唇をかんだ。 「離婚することが決まってから、こっちに引っ越すって決まった時、父さんは俺に向かってこう言ったんだ『お前は文系が強いから一流の大学に行って弁護士を目指したらどうだ』ってさ。これ聞いた時に、ああ俺は料理人になれないんだなって思った。オーディションで言えば、兄貴が合格で俺は落選だよ」    落選。彩音も落選組だからか、その言葉を聞くと条件反射で心が疼く。 「だから和食グランプリでは兄貴に勝って父親を見返したい。俺を選ばなかったことを後悔させてやる。そう思ってる」    潤の言葉に怒りがこもっていた。でも表情は違った。  外套の明かりに照らされた潤の顔があまりに悲しそうで、直視できなかった。   「じゃあ、また」  潤の別れの挨拶に彩音は返事をしそびれてしまった。  夜、ベッドに入っても潤の言葉が何度も頭の中で再生された。   まさか、そんな過去があるなんて思いもしなかった。  上村宗太は今年高校三年だから、潤と和食グランプリで対戦できる最初で最後の機会だ。今、思い返してみると、和食グランプリにかける意気込みも、職員室で寺沢先生に訴えた「今年じゃなきゃダメなんです」という言葉がすべてつながる。    そうか潤にとって和食グランプリは復讐の場だったのか。そう思うと複雑な気持ちになる。  どうも復讐というドロドロとした響きが好きになれない。青臭いけど「夢」とか「志」とか「希望」とか前向きな言葉が好きだ。  だから余計なことかもしれないけど、潤にももっと前向きな気持ちで努力してもらいたい。  だけど、潤の気持ちもわからないでもない。はっきりと言葉にはしなかったが、潤はきっと幼いころから父親にあこがれていたんだ。父親のもとで料理をすることが夢だったんだ。それなのに突然夢を奪われたらショックを受けるのもわかる。それに父親に捨てられた悲しみは夢を奪われた以上に心に傷ができただろう。そう考えるとやはり同情してしまう。  何気なくスマホで全日本和食グランプリのサイトを開いた。そして審査員長の欄に目を通した。  日本料理「一縷」の主人上村光弘。この人が潤の父親。まじまじと顔を見ると潤とはまったく似ていない。いかつい強面で完全に兄の宗太との方が似ている。  上村審査員長の挨拶文に目を通した。そこには大会を催すことへのお祝いの言葉から始まり、参加者への激励が書かれている。そして最後の一文を目が捉えたとき、彩音は思わず「あっ」と声を上げた。  彩音はその一文を何度も読み返した。上村審査員長の挨拶文の最後はこう締め括られていた。 「みなさんの魂を込めた料理をいただいた時、自分の店にスカウトしたい。そう思わせてくれる学生さんがいたら幸いです」      

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