「あっ、もしもし彩音。俺俺」 キャリーバッグを引きずりながら彩音に電話をかけた。人混みの中で電話をするのは躊躇われたが、このタイミングしかなかった。 「俺、俺なんて言わなくてもわかってるよ。で、何?」」 彩音がキレ気味に答えた。 「何じゃねーよ。オーディションの結果そろそろだろ? こっちはどうなったか心配してるのに。それに俺が今どこにいるか分かってるだろ」 怒気を強めてそう言うと、ちょうど場内に英語のアナウンスが流れた。 「あーそうか。空港かあ。ごめんごめん忘れてた」 忘れてたって…… 潤は足を止めた。すると、後ろにいた宗太の「おい、急に止まるなよ」という声が飛んできた。 ごめん、と潤は宗太に手でジェスチャーした。 偶然、ニューヨーク研修の出発の日と彩音のオーディションの日が重なった。 「で、今、彩音は何やってるの?」 再び歩き始めながら尋ねた。 「参加者の控室で結果待ってるよ。みんなピリピリしていて早く結果聞いて帰りたい」 そうか。その雰囲気はなんとなく想像できる。それに彩音の不機嫌な理由もわかった。 「おい、潤。俺にも電話変わってくれよ」 コートを着込み、着ぶくれした宗太が横から手を出したが、潤は空気を察して首を横に振った。 「もうすぐ結果出ると思うからまたラインするよ」 彩音がはすぐにでも電話を切りたそうに言った。 「ああ、わかった。じゃあね」 潤は電話を切った。 出国前だというのに素っ気ない会話だった。せめて「いってらっしゃい」くらい言ってほしかった。 「おいおい、なんで代わらないんだよ」 宗太が膨れっ面を向けてきた。 「もうすぐ結果発表でピリピリしててさあ」 「あーそうか。じゃあ、しょうがないな。あらためてお礼を言いたかったんだけどな」 宗太は事情を察するとあっさり引いた。 全日本高校生WASHOKUグランプリの閉会式後、短い時間だったけど久しぶりに家族四人で会話をした。父と母の間にわだかまりはなく、穏やかで幸せな時間だった。そんな中、彩音が突然割り込んできた。 「あの、私、ニューヨーク辞退します。上村さん代わりに行ってください」 彩音が宗太に提案してきた。 「えっ、なんで」 潤は聞いた。当初は目指せニューヨークという目標を掲げていた。せっかく勝ち取った権利なのにどうして? という気持ちだった。 「私が行くよりも料理のプロになる上村さんが行った方がいいです」 その意見には納得できた。 もちろん最初は宗太も遠慮したが、彩音の意思があまりに固かったので、最終的には快諾した。 それに審査員長の父も、「瀬野さん本当にいいのかい?」と何度も確認したが、彩音は力強く頷いた。 宗太と待合の椅子に腰を下した。潤はあたりを見回した。空港にはいろんな人がいる。スーツ姿のビジネスマン、母国に帰ろうとしている陽気な外国人、海外旅行に行くのだろうか、楽しそうに会話をする4人家族。同じ場所なのにそれぞれ違った目的や気持ちを抱えた人が集まっている。当たり前のことだけど不思議に思う。 様々な言語のアナウンスが流れ、潤たちが乗る飛行機の出港時間が迫ってきたことがわかった。 「本当は、彩音ちゃんと行きたかったよなあ」 宗太は何となく気まずそうに言った。 「そんなことないよ」 言い返したが、そんなことはある、おおいにある。潤はうつむきながら彩音のことを思った。 全日本高校生WASHOKUグランプリ決勝大会の二日後、夏休みだというのに潤と彩音は校長室に足を運んだ。 「二人ともおめでとう。他の生徒たちにとっても大きな刺激になると思う」 校長は賞状を眺めながら称えてくれた。 校長室に入るのは初めてだった。ガラス戸の棚には色んな部活のトロフィーや、写真が飾られている。 潤と彩音は椅子に座り、校長の話を大人しく聞いていた。ソファーは想像通りフカフカだった。 おそらく校長からしてみれば、生徒が料理の大会に出場していたことすら知らなかったはずだ。それでも突然降ってきた栄誉を素直に喜んでくれた。 校長にとっても馴染みのない大会だろが、潤と彩音にとっても校長自体に馴染みも思い入れもない。その影響か、あまり会話が広がらず、数分で校長室をあとにした。 「じゃあ、やるか」 校長室を出ると潤は彩音に声を掛けた。 「うん。早くやっちゃおう」 彩音の顔に気合いの色が見える。その勢いのまま、二人で家庭科室に向かった。 大会の翌日に、寺沢先生から「校長に報告に行くように」と連絡をもらったとき、正直面倒だなと思った。まだ疲れは抜け切れていないし、もうすぐ夏休みも終わるのになんで? と疑問を抱いたのだった。ラインで彩音にその思いを伝えると、了承はしたものの、やはり同じ気持ちだったらしい。しかし、数分後彩音からラインが届いた。 「校長先生に報告したら家庭科室の大掃除しようよ」 家庭科室に向かいながら、彩音のアイデアは名案だと思った。家庭科室での練習がグランプリと言う結果に繋がったのは間違いない。感謝を込めて掃除したい。その気持ちは潤にも当然あった。 二人で手分けして、普段は手をつけないような場所まで掃除をした。ステンレスの戸が錆びていれば、ボンスターで磨き、油でベトついていた換気扇のフィルターはマジックリンで綺麗に洗い流した。 普段使っていると気づかないが、よく見ると棚に埃がたまっていた。目についた汚れと言う汚れはすべて綺麗に拭いた。 雑巾で拭きながら、毎日使っていた家庭科室とこれでお別れだと思うと寂しくなった。雑巾を持つ手にも力が入る。 掃除を終えて、家庭科室を出るとき、彩音は出入り口で一礼した。 「何やってるの」 ピシッと頭を下げる彩音に聞いた。 「私、小学校のとき少しだけ剣道やっていたんだけど、道場を出るときにはそうするんだよ。急に思い出した」 「へえ、剣道やってたんだ」 これだけ一緒にいても知らないことはあるものだ。潤も彩音の真似をして一礼した。なるほど、なんだか気持ちがいいかもしれない。 そのまま玄関に向かい下駄箱で靴を掴んだ時だった、「あっ」と彩音が声を上げた。 「第二理科室。鯉にも挨拶しなきゃ」 そういうと、彩音は第二理科室に走り出した。 潤も走って追いかけた。 第二理科室に足を踏み入れると、彩音は電気も点けずに、水槽におでこを当てて鯉を眺めていた。 潤は電気のスイッチを入れた。不揃いに灯がつく。前よりも切れている蛍光灯が増えている気がした。 「ありがとうございました」 彩音は鯉に向かって目を瞑り手を合わせた。 その姿を見ていたら何故だかため息が出そうになった。 ここで彩音に声をかけた日。あの日から全てが始まったと彩音は思っているはず。でも違う。潤の中ではもっと前から始まっていた。 弁当も、あの日が初めてじゃなくて実は十日間連続で二人分の弁当を学校に持ってきていた。 彩音の好みを調べて何度も試作を重ねて納得のいく弁当になった。でも、そこからが長かった。 お昼に彩音が決まって第二理科室に駆け込むことは知っていた。でも、いざ声をかけようとすると、自分の中の常識人がブレーキをかけた。 アーティストを目指すべき女子を誘うなんてどうかしている。根本的な部分を疑うようになっていたのだ。 でも、一緒に和食グランプリに出るなら彩音しか考えられなかった。彩音とだったらどんなミラクルでも起こせる気がした。 不思議だったのは、十日間も声を掛けるのに躊躇っていたのに、声を掛けた途端、饒舌になった。多分、彩音が突然踊りだしたことと、弁当を床に落としたことで何かが弾けたのだと思う。 「ここからすべてが始まったんだね」 潤があの日のことを思い出していると、彩音が鯉を眺めながら感慨深げに言った。 「うん……」 自分にとっては違うけど。と心の中でボヤいた。 「鯉見ながら思い出しちゃったよ。あの日のこと」 彩音は振り返り潤の顔を見た。 「うん……」 「あの時はびっくりしたな。突然声かけられて、私驚いて弁当落としちゃって。そしたら潤が自分の弁当差し出してきてさ。どうかしてるよね」 彩音は笑った。その顔を見ても潤は笑い返すことができない。 「でも、楽しかったなあ」 彩音は微笑んだ。懐かしそうに話すその顔は清々しくて、潤は泣きそうになった。 彩音はもう次への一歩を踏み出そうとしている。 おそらく始まった場所で、これまでの挑戦を締めくくろうとしているんだ。彩音の中では今が閉会式なんだ。そう思うと胸がきゅーっと痛んだ。それに比べて自分はまだ気持ちが前に進まない。それどころかあの日に戻りたいとすら思っている。 「ねえ、どうしたの? さっきから何も言わないけど」 沈黙していた潤に彩音は心配そうな顔を向けた。 「いや、別になんでも」 力なく答えた。 「ふーん。そう。じゃあ、鯉にも挨拶したし、そろそろ帰ろうか」 そう言うと、彩音は出口に歩き始めた。彩音の背中が遠ざかっていく。今までは同じ目標に向かっていた同士だったけど、あの扉を開けたら、その瞬間ただのクラスメイトになる。 彩音が扉の取っ手に手を掛けた。その時、自然に声が漏れた。 「彩音、俺たち付き合おうよ」 ぽちゃん。 鯉が二匹、水槽の中で跳ねた。
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