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 いつもだったらお腹を満たした直後の授業は眠い。でも今日は目が冴えている。彩音は教科書を立て、手元を隠しながらスマホを開いた。五時間目は数学で、担当は前に和食グランプリの相談をしたときに取り合ってくれなかった寺沢先生だ。この先生なら生徒が授業に集中していようがいまいが気にしなさそうだから、心置きなくスマホを見ていられる。    彩音は潤が送ってきたラインに目を落とした。さっきもちらっと見たけど、あいさつ文などなく、いきなり材料が描かれている。かなりの長文でスクロールしてもずっと文字が続いている。その文字数に圧倒されて、読む気が失せた。でも、そうも言っていられず、なんとか頑張って目を通した。    和食グランプリのテーマが「出汁を使った和食」だけに、どの料理にも出汁が使われている。メニューはカブの煮物、鯛の甘酢あんかけ、鶏とゴボウの炊き込みご飯、海老真丈のお吸い物。どれも作ったことのない料理ばかり。しかも海老真丈が何かもわからない。    レシピを見る限り、材料も多いし工程も多い。いつも家で料理を作るときはネット上に大量に転がっているレシピの中から、簡単で材料の少ない料理を選ぶ。そんなズボラ女子がこんな難しそうな料理を作れるのだろうか。  自分の実力と相談もせず、その場の勢いで出場を決めた。それでいてグランプリを目指すとまで宣言してしまった。そんな自分の無計画さを今頃になって反省してしまう。思わず彩音は突っ伏すと手が教科書に当たって床に落ちた。 「パンっ」という音で周りの視線を感じる。「すみません」と呟くように言いながら教科書を拾って椅子に座りなおした。    でも、よくよく思い返してみたら東京少女のオーディションの時も何も考えずに応募した。ダンスや歌の経験がなく、ただ小さいときからテレビでアイドルを見るのが好き。それだけでわざわざ東京までオーディションを受けに行ってしまったのだった。  だから、オーディション会場で、都会的な雰囲気の大学生や、中学生なのに茶髪の子、それからプロみたいに踊る参加者を見て、とんでもなく場違いなところに来てしまったと恥ずかしくなったのだった。  今回の挑戦もそれと似ているかもしれない。あの時は未経験ながらも最終選考まで残ることができた。今回もそうなれればな。都合の良いことを考えながら再びレシピを開いた。  放課後、家庭科室に向かった。廊下を歩きながら外を見ると、朝からチラついていた雪の降りが激しくなっていた。今年は幸い雪が少なく、深く積もることがなくて助かっていた。長野県民としては大雪を歓迎しない。あまり積もりすぎると雪掻きが大変だからだ。雪はゲレンデだけに振ればいい。これが長野県民の冬の口癖だ。    家庭科室の扉を開けると潤の姿があった。どの隙に書いたのか、黒板にはびっしりとレシピが書かれている。  作業台の上には食材がたくさん置かれていて、潤はメモ用紙を見ながら人差し指で食材を指さしている。後ろ姿でわかったが潤はプロが着るような白衣を着ている。 「ああ、瀬野さん」  彩音の気配に気づいた潤は振り返った。  潤の格好を見て、彩音は焦った。 「櫻井君、わたしエプロン忘れちゃって」 「ああ、そうなんだ。ところで今日ラインで送ったメニューは、一応、本番用に考えたやつ。といっても決定じゃなくてたたき台みたいな感じかな。これから瀬野さんの意見も聞きながら、これからどんどん変えていくと思う」  彩音がエプロンを忘れたことなどかまわず潤は言った。 「うん」と答えながらも後ろめたくて、心ここにあらずだった。 「で、今日はさっきも言ったようにまず出汁をとってみようと思うんだ。テーマが出汁を使った和食だから、まず美味しい出汁を取らなきゃならないなと思って。とりあえず俺がやってみせるから見ていてよ」  潤はそう言うと、花かつおと書かれた袋とタッパーを手に取った。 「じゃあ、やってみるから見ていてね。ちなみにこれは昨日から水に昆布を浸しておいたんだ。ゆっくり火をかけてもいいんだけど、それじゃ時間がかかるからね」    潤はタッパーの中身を彩音に見せた。水の中に昆布が浸かっていた。それを鍋に移して、火をつけた。    ただ、火をつけた。それだけのことだけど、白衣を着ていると高校生と言うより本物の料理人に見える。そんな姿を見ていると、なおさら制服姿の自分が恥ずかしくなった。  彩音は買い出しのことも頭になかった上にエプロンすら持参しなかった。それに潤の話す内容を記したくてもメモ帳も用意していない。仕方がないので数学のノートに「水一リットルに対して昆布15グラム、鰹節25グラムと記した。    彩音がシュんとしていることなど、微塵も感じていないようで、潤は彩音にポイントを説明することに集中している。彩音もその熱意にこたえるように真剣に話を聞いた。    沸いた昆布出汁に鰹節を入れると、鍋の中で鰹節が踊る。鰹節が鍋に沈むと、良い香りが立ち上った。もっと鼻を近づけたいほど良い香りだった。日本人ならみんな好きな匂いだと思う。しばらくそのまま置くと、潤はザルと布を使ってボウルに出汁を濾した。 「ほら、これが出汁」  彩音が覗き込むとボウルの中には黄金色の液体が光っていた。 「これに塩をちょっと入れただけで美味いよ」  潤はお玉で出汁を茶碗に移し、塩をパラっと加えて彩音に差し出した。 「飲んでみて」と言うので、彩音は茶碗を受け取り口をつけた。 「あっ、美味しい」  自然に顔をほころんだ。ハンバーガーみたいな派手な美味しさではないけど、しみじみと美味しい味だ。 「この出汁をベースに色んな料理を作るんだ」  潤はどこか誇らしげに言った。  すべてのベースになる出汁が出来上がると、土鍋で鶏肉とゴボウの炊き込みご飯を作った。彩音も米を研いだり、野菜を切ったりとサポート役をしたのだが、潤の前で作業をするのは緊張する。包丁を持つ手が震えるほどだったが、潤は彩音の仕事を見て「うまいね」とほめてくれた。  でも、ほめられてもあまり良い気分にはならなかった。それは潤と彩音では何から何まで違うからだ。家庭科室の包丁を借りた彩音と違い、潤は自宅からプロが使っていそうなマイ包丁を持ってきていて、その包丁でゴボウをささがきにしたのだけど、手つきが鮮やかだった。 「ねえ、櫻井君ていつから料理やっているの?」  包丁さばきや佇まいから、昔から料理に触れているように見えた。 「いつからって、手伝い程度は小さいときからだけど、本格的に始めたのは半年前かな」 「えっ、半年?」  まったくの予想外だった。半年で人ってここまでできるようになるのだろうか。やっぱりこの人は天才なんだ。規格外なんだ。 「じゃあ、これから土鍋で炊きこむよ。本番はもしかしたら炊飯ジャーで作るかも。ほらっ、コンロだって何個使えるかわからないからさ」  驚いている彩音をよそに潤は土鍋をコンロの上に置いた。  よくよく考えると、土鍋でごはんを炊くところも初めて見る。家で米を炊くときは炊飯ジャーを使う。ただスイッチを押して待っているだけとは違い難しそうに見えた。それでも潤はいとも慣れた様子で炊き込みご飯を炊き上げる。味見をすると、米の固さもちょうどよく味も鶏とゴボウのうま味が米に溶け出して絶品だった。    初めての練習が終わり、片づけをしてから学校の外に出た。五時半でも、外は薄暗いを通り越して真っ暗になっている。雪はまだ降り続いているし案の定、雪が積もっている。少なくとも10センチほどはありそうだ。ここまで積もったのは今シーズン初なので憂鬱になる。 「うわー雪だ」  靴を履いて外を出た瞬間、潤は声をあげたと同時に雪の中を駆け出していた。 「えっ」  自分の目を疑った。さっきまで大人の料理人に見えた潤が、雪を前に小学生みたいにはしゃいでいる。ついには雪を丸めだした。まさか雪合戦をやろうなんて言わないよね、そう思いながら、外套の明かりの下ではしゃぐ様子をしばらく見ていると、気が済んだのか潤は手をパンパンと叩きながら彩音のもとに近寄ってきた。 「長野の雪はいいね」  潤はとびっきりの笑顔を彩音に向けた。 「あのさあ、もしかして櫻井君て長野育ちじゃないの?」  長野育ちなら雪なんて飽き飽きするほど見ている。このはしゃぎ方はどう考えても長野県民じゃない。 「あれ、知らなかったっけ。俺、高校からこっちに来たんだよ。それまではずっと東京」 「全然知らなかった。そうなんだ」  そう言われた途端に都会的な男子に見えてくるから不思議だ。 「そうだよ。だからここら辺のこともまだそんなには知らないんだ。だから瀬野さん色々教えてよ」  自転車置き場へと歩きながら潤は言った。雪道を歩くたびにギュッギュッと音が鳴る。この音も潤にとっては新鮮なのだろうか。 「教えるって程の面白いものなんてないよ。特に東京から来た人が面白いと思うような場所なんて」  イオンくらいかな。と思ったけど潤の求めているものとはなんか違う気がした。特におすすめできるスポットが思い浮かばないまま二人は自転車に跨って走り始めた。 「うわっ運転むずっ」  雪道に慣れていない潤はハンドル操作に苦戦しているようでクネクネと前に進んでいる。 「そういえば、櫻井君のうちってどこなの? 私の家と同じ方向みたいだけど」  潤の隣まで追いつき彩音は尋ねた。潤の艶のある髪に白いt雪がついていた。 「宮崎っていうタバコ屋の向かいだけどわかる?」  そのタバコ屋ならすぐ近所だ。おばあちゃんが一人でやっていて、小窓から客にタバコを渡しているのを見たことがある。 「そこ、うちのすぐ近くだよ」 「そうなんだ。じゃあこれからも何かと楽だね」  楽って何が? と聞こうと思ったけど、前から車が走ってきたので潤の後ろに移動した。そのまま縦一列になって帰路を走った。  

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