鬼燈温泉魑魅魍魎の里
其の一 秘湯マニアの姉従姉

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(これは1980年(昭和55年)の私が中学2年生の時のお話です) かなり本降りの大雨になるとの予報でした。 けれども降るには降るけど小雨で窓の外の曇り空は明るく、6月の気候のジメジメさはあるものの、私にとっては心地の良い雨が降り続いていました。 私は学校から帰ると居間のラジオから流れるその2人の先生のやり取りに耳を傾けていました。 庭先の紫陽花も短いその季節に精一杯咲こうかとばかりの青や紫の鮮やかな花弁がとても綺麗で、何で梅雨って1ヶ月くらいで終わってしまうのかなと一人疑問に思っていたのでした。 「そうだ、このラジオの先生に聞けばいいじゃない?葉書書いて送ろうかな?」 私はそのラジオに出演する2人の大学教授の話を興味深く聴いてました。 「…時間の概念というより時間とはそもそも何なのか?ということなのですが、先生如何でしょう?」 「まあ、簡単に言ってしまえば、それって所謂太陽系の惑星としての地球の運動では?」 「そうですね、時間というのは正にそれで、私たちが住んでいる地球の自転と公転が生み出したものなのです」 「ふうん…そう言われれば確かにそうだ…」 私は当たり前の事実に気がついた。 「一回転自転して1日24時間、太陽の周りを公転して365日1年。それでしかも上手いことに地球の回転軸は23度傾いています。すると公転する軌道上において太陽の光の射す角度が変わり、春夏秋冬といった四季を感じることができます。日本という国は正にその恩恵を受けているわけです」 「そういやそうね…他の国だとどうなのかな?」 私は赤道辺りの国を思い浮かべた。 「その通り、更に都合のいいことに自転の時も月という衛星が地球には偶々存在して、それが夜の闇を仄かに照らしてくれるのです」 「全く出来すぎてますね。そう考えるとこの世の創造主というのは本当にいるのでしょうね?」 「はい、いるかと思います」 NHKラジオ第一で放送されるその教育番組は最初は文化放送の周波数に合わせようとしてラジオのチューナーを調整していたら偶然聞こえてきました。 面白そうな話だったのでそのまま最後まで聴きました。 だから来週からも同じ曜日の同じ時間にまた聴いてみようと思ったのです。 ただ、科学番組のはずなのに最後は神様の存在の話になる。まあ、その番組に出演する教授はそういう脱線をこの後もよくしていたのです。 よく考えたらこの世の森羅万象っていうのも不思議ですよね? 特に人間の身体というのも何だか上手くできています。 例えば、偶々上手い具合に私の両目の上には何故か2本の眉毛が生えてて、それが額から流れる汗を塞き止めてくれます。 頭には髪の毛が生えていて夏の日射しや冬の凍えるような寒さから頭皮を守ってくれるし、更には髪型を好きに変えたりして私みたいな女の子はお洒落を楽しむことができます。 髪型次第で好きな男の子に対して自分を可愛く見せることだってできてしまうのです。 アフリカのサバンナにいるライオンの長い鬣も象の大きな耳もおそらく何かの理由があってああなんで、シマウマの身体の縞もきっとそうなのでしょう。 不思議だらけの世界に生きているとその不思議が当たり前になって何とも思いません。 私が聴いているこのラジオもそう、何でスイッチ捻れば知らないおじさんの声が聴こえてくるの? そんなの機械工学の話だから説明されてもたぶん私の頭ではよく分からないでしょうね。 そうこうしてるうちにそのラジオの番組は終わりました。 「終わったか…テスト近いし勉強しようか?でも夕御飯食べたらでいいよね」 食べたら食べたで、お腹と同じく頭も緩くなるのでやはり机に向かう気はないとは思うのですが…。 なら今日は勉強しなくていいや。明日は土曜日だしね。明日の…夜からやればいいんじゃない? 「お腹減った、今夜は何頼もうかな?」 家族は皆用事で居ません。我が家は父と祖父母と私の3世帯家族、核家族が増える中最近じゃ珍しいようです。 近所にはうちみたいな古い家屋の家は多いのですが、お年寄りしか住んでいない家が多くて、彼らのお子さんは新築のマンションにお孫さんと住んでいたりだそうです。 近くなので孫の顔を見せには来るそうですが、やはり年寄り独り二人で住むのは淋しいと近所の斜め向かいのお婆さんもそう仰っていました。 出前の炒飯と餃子が来たので少し分けてお母さんの所へ持っていこう。 チーン…… 「お母さん、中華飯店の炒飯と餃子だよ。美味しいから後であたしが代わりに食べてあげるね」 仏壇にご飯をお供えして線香を灯し、手を合わせました。 居間のテーブルに戻り炒飯と餃子を食べました。 思った通り頭が緩くなってきたので部屋で寝てようかな…と思ったらこんな時間に同じクラスの女の子が訪ねて来ました。 インターフォンのチャイムに反応した私は小走りで玄関へ、カラカラと引戸を開けると目の前に学校で一番の仲良しの長山莉子ちゃんが可愛らしい赤い傘をさして立ってました。 「入って入って。傘そこに入れといて」 私がそう促すと莉子ちゃんは傘を畳んで傘立ての中に置きました。 話は居間で聞くことにしました。 「だーれも居らん?へえー今夜は紀水香ちゃんの天下やね?」 京都から引っ越してきたばかりの莉子ちゃん。その素敵な京都弁のイントネーションは東京弁を話すようになってもいつまでも聴いていたいな。 「一晩天下ってやつ。それよりどうしたの?明日でいいのに今うちに来たのは何かあるな?」 私は莉子ちゃんに尋ねました。 「そうや。紀水香ちゃんの従姉の翔子ちゃんから電話が来たんや。紀水香ちゃんの処にも来たやろ?」 「えー、来てない。何なの?」 「そっかぁ…夏休みに一緒に3人で温泉行こうかって、電話来ん?」 「そうなの?」 って言ってると居間の電話が鳴りました。 受話器を取るとその翔子ちゃんからでした。 「普通身内の方から先に電話するよね?」 と、電話口の翔子ちゃん向かってあり得ない展開に優しく不満を述べました。 「ゴメンゴメン、うちの住所録だとあいうえお順で莉子ちゃんの名前が先に書いてあったから…たしかにそうね、ご免」 と、苦笑いしながら翔子ちゃんは弁解しました。 たしかにうちの名字は緑川で後ろのほうだけどね。 布袋翔子ちゃんは八王子に住む、亡くなった母の2番目の姉の長女です。 私より2つ上で同じ独りっ子なので親族の行事で顔を合わせると直ぐに姉妹のように仲良しになった間柄です。 背も私より10センチくらい高くて本当にお姉さんって感じながら、その子どもっぽさと天然ぶりでどちらがお姉さんなの?って翔子ちゃんも口に出してしまうくらい一緒に居て楽しい姉従姉なのです。 「しかもこのタイムラグは何?もしかしてあたし忘れてた?莉子ちゃんも来てるよ」 「ゴメンゴメンって、そうなの?なら話は早いな」 と、翔子ちゃんはその温泉旅行の話を始めました。 「鬼燈(ほおずき)温泉?何処なのそれ?聞いたことないな?」 本当に耳にしたことのない温泉地でした。 「まあ、温泉マニアも知らないような秘湯中の秘湯ってやつ?紀水香ちゃんにはまた付き合ってもらうけど…」 「そういうの好きよね?翔子ちゃん。でも今から予約するの?部屋空いてるのかな?」 「さっき旅館に問い合わせしたら都合のいいことに3人部屋が空いてるって女将の人が言ってたからもう予約しちゃったよ」 「そう…なら行きますか。温泉地に辿り着くまでまた大変そうだけど、旅は道連れ世は情けって言ったかしら?」 「言った言った。昔の人はよく言ったね。莉子ちゃんも行くって言うからなら決まりでいいね」 と、その後少し互いの近況を話してそれでバイバイおやすみなさいと言って受話器を置きました。 「だてっさ…」 「みたいやね。うち夏休みは京都へ帰るだけやったさかい追加の予定ができて嬉しいわ」 「でも翔子ちゃんのお供は大変よ。莉子ちゃんは知らないでしょうけど、あたし翔子ちゃんと2人で大分県の温泉地に旅行に行ったことがあったんだけど、行ってびっくりよ!」 「湯布院や別府温泉とかじゃないんや?」 「そうよ!そこじゃなくてそこ行くの?!っていう山奥の更に分け行った所にある周りに何もない絶界の地の小さな天然の温泉だったのよ」 「翔子ちゃん、変わってはるからそうやね。でも景色は良かったん?温泉も気持ち良かった?その後は有名な温泉には入ったんやろ?」 「帰りのついでにちょこっとね。まあ…山奥のはいいお湯だったけど。それよりあの時は熊が出ないか心配で、それと無いと思ったけど盗撮とかね」 「若い女の子が大自然のど真ん中で健康的な裸体を晒してるってホンマにマニア垂涎やな。今回もそんなんかな?」 「今度のは温泉地の旅館だからその宿の湯だろうけど、翔子ちゃんのことだからまた一筋縄ではいかないかもね?」 「ええやん、一寸した冒険みたいなのと思えば。来年の夏は受験やし、3人でいい夏の思い出作れるから楽しみやんか」 「そうね。また楽しくなりそうね」 それから莉子ちゃんは自分の家へと帰り、私は自分の部屋の布団に入って横になってました。 「鬼燈温泉ね…可愛らしい名前の温泉地だから今度はこれまでとは様相が違うかも?」 それから寝落ちしてグウグウと寝てしまい、家族が帰ってきても気づかず寝ていたのですが、真夜中にふと目が覚めて洗面所に歯を磨きに行こうと部屋を出ると風呂場で何やら物音がしているのに気づきました。 「え…明かりついてる?お父さんでも入ってるのかな?」 何とはなく不思議ではありました。私の父は一番風呂に入るのが好きなので、この夜も更けた時間に風呂場にいるのは奇妙と言えば奇妙でした。 でも、眠かったので中を覗くことはせず、そのまま洗面所で歯を磨いて寝ました。 「お父さん昨日夜中にお風呂入ってた?」 翌朝、家族と朝御飯を食べている時に食パンにジャムをつけながら父に聞いてみました。 「入っとらんぞ」 「うちも入らん」 「わしもじゃ」 と、父も祖父母も否定しました。 なら入ってたのは誰だったの? 「幻でも見たんじゃないか?」 と、祖母。 外部の見知らぬ誰かが入ってきたのでしょうか? 「お風呂借りに?何でうちなの?」 お金や物を取られた形跡もなく、私はその祖母の言葉に納得するしかないようでした。