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自由律俳句 「本気じゃなかったことにする」 *********  バイトが終わるまであと30分という時だった。  会計を済ませた客のテーブルを片付けながらふと通りに面したガラスのほうへ目をやると、小柄な女性がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。  彼女だ、と気づいた瞬間ゆるんだ頬を慌てて引き締める。彼女のほうも僕に気付いたらしく、ブンブン手を振りながら走り出すのが見えた。こらえきれずに少し笑ってしまってから、僕に向かって一直線に駆けてくる彼女に今度は血の気が引く。  ちょっと待て、まさか……と思った瞬間、彼女は勢いよくガラスの壁に衝突した。バーンという派手な音と、ガラス面近くの席で談笑していたカップル客の悲鳴が静かな店内に響き渡る。  慌てて外に出て彼女に駆け寄ると、きょとんとしたまま座り込んでいた彼女が僕の顔を見て 「佐藤! 久しぶり!」  と破顔した。 「久しぶり、じゃないですよ! 大丈夫ですか?」 「大丈夫大丈夫、いやぁ、びっくりしたよー」 「びっくりしたのはこっちですよ! 思いきりぶつかったでしょ、怪我は?」 「大丈夫だよ」  手を取って立ち上がるのを助けながら、本当に怪我が無いか確認する。あれだけ派手にぶつかったのだから痣の一つや二つはできるかもしれないが、幸いにも見た目に分かる傷はなかった。 「もうすぐバイト終わるんで、中で座ってて下さい」 「いいよ、ここで待ってる」 「いやいや、心配なんで。とにかく座って、落ち着いてください」  なおも断ろうとする彼女の背を押して店内に戻る。扉を抜けるやいなや、彼女は勝手にカップル客の隣席に腰を下ろし謝罪をはじめた。  びっくりさせちゃってごめんなさいね、いえいえ大丈夫でしたか、から始まった会話が途切れず広がっていくのを聞きながらため息をつく。  まったく、あの人は。  苦笑しながらカウンターの中へ戻ると、奥で調理をしていたマスターが出てきた。 「さっき、なんかすごい音しなかった?」 「しました。済みません、知り合いが来たんですけど、なんかぶつかっちゃったみたいで」 「え、知り合い? ぶつかったってどこに?」 「あの人です」 カップルと笑いあっている彼女を目で指す。 「ちなみにぶつかったのはそこの壁です。ガラスが見えなかったみたいで」 「え、大丈夫だったの?」 「彼女もガラスも無事でした」 「それは良かった。ほんとに知り合い?」 「知り合いです」 「ふうん。佐藤君のお母さんかと思った」 「お母さん」の言葉に、胸の中がじりっと焦げるような感触を覚える。 「母親じゃないですよ。前の職場の先輩です」 「そうなんだ。佐藤君もう上がる時間だよね、先輩と何か飲んでいったら?」 「ありがとうございます。でもちょっと行くところがあるので」 「ああ、そうなんだ。どっちにしろもう上がっていいよ。お疲れ様」  ひらひら手を振って厨房に戻っていくマスターにお疲れ様です、と返して、相変わらず笑っている彼女に目を向ける。もう一度出そうになったため息は飲み込んだ。  着替えを済ませて店内に戻った僕に気づくと、彼女はこちらに駆け寄ってきた。 「もう走らないでください。危ないから」 「やだなぁ佐藤、さっきのはたまたまだよ、たまたま」  言い合っていると、カップルが微笑ましいものを見る目でこちらを見ているのに気がついた。居たたまれない気持ちになった僕とは裏腹に、彼女はニコニコ嬉しそうにしている。  放っておいたらまた何か話し出しそうだと判断し、カップルに軽く会釈してから彼女の腕を引っ張って店を出た。 ◇  彼女は、アキエさんという。  以前働いていた会社のパート従業員だった彼女とは、親子ほどの年齢差があるにも関わらず不思議と馬が合った。漫画や映画の趣味が似ていて、在職中に始まった漫画の貸し借りが僕の退職後もずっと続いている。  アキエさんは落ち着きが無く、息つく間もなく次々と騒ぎを起こす。しかし不思議と誰からも好かれていて、苗字で呼び合う職場の中で彼女だけは皆に「アキエさん」と呼ばれていた。  入社後間もない頃から「佐藤」と僕を呼び捨てる彼女を初めは苦手だと感じていたのに、気づけばすっかり懐柔されてしまっている。  信じられないほどそそっかしくトラブルメーカーと言っても過言ではないアキエさんは、大学生の息子を持つ母親でもある。子供がどんな風に育っているのか非常に興味深いところだが、残念ながら僕はアキエさんの息子にも、旦那にも会ったことがない。  小柄で細身の彼女は息子のお下がりだというブカブカのTシャツ姿でいることが多く、童顔でショートカットということも相まってかなり幼く見える。  若い女性に見えるのではなく、本当に一見少年のような風貌なのだ。  その細身の身体に似合わず、アキエさんはTシャツの中に豊かな胸を隠している。  なぜ僕がこんなことを知っているのかといえば、前の職場で彼女が着替えているところを偶然見かけてしまったからである。  更衣室が混んでいるという理由で廊下で服を捲り上げているアキエさんの姿を見てしまった僕は、危うく叫びそうになった。そそっかしいの域を超えている。  あまりに危機感の無い、いい加減なアキエさんに呆れつつ、うっかり脳裏に焼きついてしまった真っ白で豊満な胸が僕の理性を苛んだ。  僕の母親とそう変わらない彼女の年齢不相応な言動も、それまでは「天然なおばちゃん」と笑っていられたのに、その姿を見てからは「可愛い」などという気持ちが混ざってしまって参っている。  僕は決して熟女好きなどではない。むしろ、年下の素直で可愛らしい女の子の方が好みだ。それなのに、アキエさんに対して『ヤろうと思えばヤれるな』などと一瞬思ってしまったことは、気の迷いだということにしている。きっかけの下世話さも含めて、これ以上の罪悪感は抱えきれない。  そんな僕の葛藤に、もちろんアキエさんは全く気づいていない。恐らく僕のことを息子のように思ってくれていて、身体を壊して前職を退職した僕を心配して未だに連絡をくれるのだろう。  実家を離れて一人暮らしをしている僕には気軽に会える友人が少ないこともあって、アキエさんの誘いは正直有り難かった。  だからこそなおさら、胸の中に微かに芽生えつつある感情には気づかないふりを決め込んだ。 ◇  アキエさんが以前から行きたいと言っていた甘味処で、僕らは向かい合ってカキ氷を食べている。 「うー、冷たい! キーンとする!」  両のこめかみを押さえながら嬉しそうに笑うアキエさん。  彼女の笑顔には、つられて一緒に笑ってしまうような明るい魅力がある。彼女が周囲の人たちに好かれる理由は、この笑顔にあるのだと思う。  借りていた漫画の感想を話し合ったり新作の映画情報を交換したりしていると、飛ぶように時間が過ぎていく。社会に出てからこんな風に話が出来る人に出会えるとは、想像もしていなかった。 「そういえば、さっきぶつけたところは本当に大丈夫なんですか?」 「大丈夫だよ。いやー、まさかあんなところにガラスがあるとはねぇ」 「いやいや、見ればわかるでしょ。普通に壁ですよ」 「だって佐藤が見えたから、テラスみたいになってるのかと思ったんだよ!」 「そりゃガラスなんだから見えますよ。危ないなぁ、ほんとに。アキエさん、よく今まで無事に生きてこられましたよね」 「またそうやってバカにする。佐藤もそのうちぶつかるよ」 「ぶつかりませんよ! あんなことやらかすのはアキエさんぐらいです」  軽口を叩き合うのが楽しい。  僕はたぶん、他の誰と話すよりアキエさんと話している時が、一番楽しい。  そしていつも、楽しい時間というものはあっという間に過ぎ去る。もっと話していたいと思うのは、きっと僕だけだ。アキエさんには帰宅を待っている家族がいて、家でもやらなきゃいけないことがたくさんある。  そそっかしい彼女は意外にも料理が得意だ。同じ職場にいた頃は、時々タッパーにおかずを詰めて持ってきてくれたりもした。  魚の煮付けが感動するほど美味しくて、もう一度あれが食べたいなぁなんて思っては彼女の旦那が羨ましくなったりもする。 ◇  店を出て駅に向かって歩き出したところで、「あれ!?」とアキエさんが叫んだ。  何事かと振り返ると、目を丸くして僕を見上げるアキエさんの顔がすぐ近くにあって、咄嗟に一歩下がった。 「びっくりした、どうしたんですか大声出して」  内心の動揺を悟られないように、精一杯平静を装う。するとアキエさんはせっかく開けた距離を詰めてきて、片方の手を自分の頭の上、もう片方の手を僕の頭の上に伸ばす仕草をした。 「佐藤って、こんなに背が高かったんだね! 知らなかったよ」 「はぁ? なに言ってんすか?」  想定外の言葉に、間抜けな声が出る。 「私と同じくらいだと思ってたのに、背が高いからびっくりした!」 「は? 誰と誰が同じくらいだって?」 「だから、私と、佐藤だよ!」 「同じなわけないでしょう、二十センチ以上違うじゃないですか。え、ちょっと待って、アキエさん、もしかして今それに気づいたの?」 「うん。知らなかった!」 「いやいやいやいや、おかしいでしょ。本気で言ってます?」 「だってほら、佐藤とはいつも目が合うからさ」 「え、待って、目が合うから身長同じだと思ってたの?」 「うん」  あぁ、もうだめだ。  我慢できなくなった僕は、その場で笑い出した。一人で笑い続ける僕を見ているきょとんとした顔のアキエさんがおかしくて、ますます笑いは止まらなくなる。  酸欠に陥りとうとうしゃがみ込んだ僕の顔を、アキエさんが真っ赤になった顔で覗き込んできた。 「佐藤、笑いすぎだよ! そんなに笑わなくたっていいじゃない!」 「いや、無理です、これは笑いますよ」 「そんなに変なこと言ったかなぁ」  言いながら隣にしゃがみ込んだアキエさんの前髪が、ふわっと揺れるのが見えた。  あー、くそ。  僕は本来、無遠慮にパーソナルスペースに踏み込んでくる類の人間が嫌いなのだ。所謂『天然』とかいう種類の人には、このタイプが多い。だから初めはアキエさんのことも苦手だった。  それなのに、それなのに。  目の前にある彼女の頭に手を伸ばし、ぐしゃぐしゃに髪をかき混ぜる。 「うわっ、なにすんだよ、佐藤!」  止めようとするアキエさんの手を避けながら、僕は笑う。  もしも、もっと早く出会っていれば。  もしも、もう少し歳が近ければ。  もしも、彼女が結婚していなければ。  もしも。  馬鹿だな。「もしも」なんて、存在しない。  だからこの気持ちだって、存在しないのと同じだ。  指先に感じる細くて柔らかな髪。  ずっと触れてみたいと思っていた彼女の髪に触れるのは、これが最初で最後だ。  散々かき回されてぐちゃぐちゃになったアキエさんの頭を見て、もう一度、僕は声を立てて笑った。 ********* 最後までお読み頂きありがとうございました(^^) 〈羽が生えるのまだ待っている〉 小野木のあ(おのぎのあ) 自由律俳句+エッセイ/コラムの自主連載 毎月第1・第3水曜日更新中 Twitter:https://twitter.com/onogi_noa

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