作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

自由律俳句 「独身と知り少し嬉しい」 *********  同僚の友人の先輩、というかなり薄い繋がりのH氏と、何故だか二人で飲みに行くことになった。  事の発端はこうだ。  まず同僚というのが、とにかく飲み会の好きな人であった。そして私は、とにかく酒が好きなのである。飲みの誘いをほとんど断ることのない私は、その日も同僚が主催する飲み会に参加していた。  普段は仕事終わりに職場の何人かで飲むことが多い。しかし、若手が揃い砕けた空気で始まったその飲み会は途中で同僚の友人たちも合流し、気付けば随分な大所帯になっていた。  私はといえば、酒を飲んでしまえばあとのことはどうでも良くなる質であった。男女入り混じり合コン状態になっている集団を横目にひたすらハイボールを流し込む。  その日同僚が選んだ店は、ハイボール限定の時間無制限飲み放題を売りにしていた。時間無制限とは、なんと甘美な響きか。至福である。  全員ハイボール縛りの飲み会は、急速に泥酔状態者を排出する。早々に酔っ払った同僚の友人が「面白い先輩がいる」と言い出し、やってきたのがH氏であった。 ◇  H氏は背の高い細身の男性だった。素材のよくわからないベレー帽を被り、主張の強いフレームの眼鏡をかけている。年齢は30代後半くらいだろうか。  仕事帰りに酔っ払った後輩に呼び出され絡まれても飄々とした態度で、しかし何故か全員に敬語を使っている。たしかに面白そうな人だと思いしばらく会話に耳を傾けていると、H氏と同僚の友人は同じレコード店で働いているらしいことが分かった。  聞いたことのないバンドの話で盛り上がっているH氏への興味はすぐに薄れ、私は再び麗しのハイボールへと意識を戻した。同じく会話からあぶれたらしい女性数名と適当な世間話を交わしながら、とにかく飲む。なにしろ時間無制限だ。今宵はもう、いけるところまでいってやる所存である。  黙々とハイボールのジョッキを空にしていると、トイレから戻ってきたらしいH氏が私の向かいの空席に腰をおろした。 「いやぁ、君、いい飲みっぷりですねぇ」 「はぁ、どうも。はじめまして」  同席しているとはいえ相手は初対面の中年男性だ。突然声をかけられて間抜けな返事をしてしまう。  H氏はにこにこと嬉しそうである。ちょうど空になった私のジョッキを見て「ハイボールを2杯」と注文しているところを見ると、どうやらこのまま居座るつもりらしい。 「お酒、強いんだね」 「はぁ、まぁ弱くはないですね」 「ハイボール好きなの?」 「好きです」 「即答かぁ、いいね」  敬語が外れているな、と思う。酒が入ったからか、私が若い女だからか。後者の場合この後の会話が面倒だ。警戒しながらH氏を観察しているところへ、ハイボールがやってきた。ジョッキを掲げられたので、仕方なく乾杯する。 「僕も好きなんだ、ハイボール」 「そうなんですか」 「でも君ほどは飲めないかな。もう年だし」 「おいくつなんですか?」 「今年で40だよ、やばいよねぇ」  思ったより上だったなと思いながら、なにがやばいのかよくわからなかったので曖昧に笑っておく。 「君はいくつなの?」 「23です」 「23! 若いねぇ。じゃあ僕とは、17歳違うのか」 「はぁ、そうですね」 「17歳っていったら、高校生か。すごいなぁ」  なにがすごいのかもわからないので、生返事をしてハイボールを煽る。やはり美味い。  再び合コンの様相を取り戻したテーブルの中央からは、同僚その他による大学時代のバカ話が聞こえてくる。酔っ払うと耳が遠くなる種類の人間が揃っているのか、かなり煩い。  ハイボールをちびちび飲むH氏の喉仏が動くのをなんとなく見ながら、そろそろ帰ろうかと考える。H氏に席を移動する気配はない。 「君は、大学は出てるの?」 「大学は中退しました」 「へぇ、そうなんだ」  私の背後の壁に視線を据えたH氏の目は、ぼんやりとして焦点が定まっていないように見える。やはり酔っているのだろう。かく言う私も、流石に酔いが回ってきて頭がぼうっとし始めている。 「僕の最終学歴はねぇ、カルチャースクールの話し方講座なんだよね」  ほとんど一人言のような口調だが、恐らく私に話しかけているのだろう。顔を上げると、うっすら微笑んでいるH氏と目が合った。 「人と上手く話せなくて通い始めたんだけど2回くらいでやめちゃったから、僕も中退だな。最終学歴、話し方講座中退」  そう言ってくつくつ笑うH氏に、先刻まで抱いていた警戒心が消えていくのを感じた。  この人は、たぶん信用してもいい人だ。それに、なんか面白そう。そう思った。 「なんかいいですね、それ」  それだけ言って再びジョッキを煽る私を、H氏はやはりにこにこと嬉しそうな顔で眺めていた。 ◇  翌日は、近年稀に見る酷い二日酔いに見舞われた。頭の中で両手に金槌を握った小人が踊り狂いながら脳みそを叩き続けているかのような頭痛である。  頭を抱えてうめきながら吐いて水を飲んでを繰り返し、ベッドと便器を往復していたら日が暮れた。時間無制限飲み放題の対価を一日かけて支払ったわけである。  悔いは無い。が、いささか飲みすぎた。そして、不覚にも帰路の記憶が無いことに気がついた。  放置していたスマートフォンを確認すると、いくつかの新着メッセージの通知の中に見覚えの無いアイコンがある。開いてみるとそれはH氏のものであった。どうやら私はH氏に送られて帰宅したらしい。  迷惑をかけた謝罪とお礼を短い文章で送ると、すぐに返信がきた。  体調を心配するメッセージのあとに送られてきた『今度は二人で飲みに行きませんか』の文字列を、しばし眺めて考える。二人で、ときたか。  しかし金槌小人の残響漂う脳内では思考がまとまらない。面倒になって『是非』とだけ返信すると、私は再びベッドに倒れこんだ。 ◇  二人で飲むという話に意外な積極性を見せたH氏に誘われるまま、ハイボール飲み放題の翌週には会う約束をしていた。  下北沢に、H氏の馴染みの美味い店があるというのである。当然飲み屋だ。  二日酔いで休日が丸々潰れた直後であっても、美味い店があるのならば行かない手はない。私はとにかく酒が好きなのである。そして話し方講座の件を聞いたことで、私は俄然H氏に興味を抱いていた。  そんなわけで美味い店への期待で占められた思考のまま待ち合わせ場所に向かっていた私の脳裏に、ふと『彼は独身なのだろうか』という疑問が浮かんだ。  年齢からすると、結婚している可能性が高いように思える。既婚者と二人で飲みに行くというのは、不貞行為に該当するのだろうか。面倒ごとには巻き込まれたくない。かといって私とH氏がどうこうなるとは到底思えないし、知り合いと食事ついでに酒を飲むことはままある事だろう。しかし念のため、既婚者かどうかの確認はした方が良いかもしれない。  考えているうちに待ち合わせの駅に到着する。改札を出ると、すぐにH氏のひょろっとした立ち姿が目に入った。 「お待たせしました」 「やぁ、どうも」 「先週は済みません、送ってもらってありがとうございました」 「いやいや、二日酔いは大丈夫でしたか?」 「一日寝込みました」  私の返答を聞いてからから笑うH氏を見ながら、敬語に戻っているな、と思う。素面だと誰にでも敬語なのだろうか。やはり面白い人だ。 「じゃあ行きましょうか」  そう言って歩き出すH氏は、この前とは違うべっ甲フレームの眼鏡をかけている。ゆったりした歩調のH氏の半歩後ろから、これも先週とは違う素材のベレー帽を被った後頭部を眺めて、こういうお洒落の仕方は好きだな、などと考え歩く。  到着したのは、昭和の大衆居酒屋といった雰囲気の店だった。私好みの種類の店である。早い時間に待ち合わせたので、客の姿はまばらだ。  味のある木製のテーブル席に陣取ると、馴染みというだけあってH氏がメニューを解説してくれた。  とりあえずで頼んだ瓶ビールが、殊の外美味だった。居酒屋でビールといったら生ビール一択だったこれまでの認識を改める必要がある。美味い美味いと繰り返す私を、H氏は先週と同じ嬉しそうな顔で眺めていた。  全く素晴らしく美味い店だった。魚介類に力を入れているらしく、刺身が美味い、酒蒸しが美味い、出汁のきいた料理に外れなし。そして看板メニューだという、蟹の身がこれでもかと詰まった蟹クリームコロッケがまさに絶品だった。あまりの衝撃に目を見開いた私を見て、H氏はまたからからと笑った。 「君、目玉がこぼれ落ちそうですよ」 「美味しいです。衝撃的に美味しいです。これは私の知っている蟹クリームコロッケではありません」 「なんだかカタコトになってますね」 「あまりの美味しさについ。感動的な美味さですねこれは」  二人とも手酌で瓶ビールをぐいぐい飲む。腹が膨れほどよく酔ったところで、音楽の趣味の話になった。  流石にレコード店に勤めているだけあって、H氏は私の好きなマイナーなバンドを全部知っていた。 「Hさんはどんな音楽が一番好きなんですか?」 「僕はパンクが好きですね。ハードコアパンク」 「へぇ、なんか意外ですね」 「そう? あ、パンクって言ってもセックス・ピストルズじゃない方のパンクね」 「へぇ、いろいろあるんですね。とくに好きなバンドはいますか?」 「Lip Creamかな。昔のバンドだけど」 「リップクリーム……」  全く知らないし聞いたことも無い。よくわからないが深い世界なのだろう。私の趣味はかなり偏っているので、自分の好きなバンド以外の知識は皆無と言っていい。良くも悪くも、興味の無いものは視界に入らない性格なのだ。  しかし、H氏の音楽に対する造詣は広い上に深く興味深い。リップクリームというバンド名を覚えていられたら、後で検索してみようと脳内にメモする。  何本目か分からないビールの瓶を逆さにしながら、H氏が思いついたようにこう言った。 「じつは今日、知り合いのバンドのライブがあるんだけど、君も一緒に来ますか?」 「今日これからですか?」 「そう。君と解散したら一人で行こうと思ってたんだけど、興味ある?」 「うーん。Hさんはそのバンドが好きなんですか?」 「好きだよ。めちゃくちゃ格好いい。僕は彼らのファンです」 「そうなんですね。パンクバンドですか?」 「うん、ハードコアパンク。あ、うるさい音楽が苦手だったらやめた方が良いかもしれない」 「うるさいのはわりと好きです。時々メタルとか聴きます」 「それなら大丈夫かな。どうする?」  普段なら、好きかどうか分からないバンドのライブには行かない。興味のない音楽を爆音で聴き続けるのは苦痛にしかならないからだ。しかしリスクよりもH氏への興味が勝ってしまった私は、ゆっくり頷いた。 「行ってみたいです」 ◇  ライブハウスは、何の建物なのかよくわからないビルの地下にあった。H氏の後について防音扉を抜けると、すでに中にいた中年の男性客が次々H氏に声をかけてくる。まさか、客も全員知り合いなのだろうか。  久しぶり、どうもどうも、などと交わされる挨拶をぼんやり眺めていると、私の存在に気付いた中年男性の一人がH氏の肩を小突いた。 「なに、Hさん、彼女と来たの?」 「いやいや、違いますよ」 「なんだ、違うのか」  私は彼女に見えるのか、と複雑な気持ちになりながら、はじめましてと頭を下げる。  フロアに進んでもH氏の挨拶合戦は続き、手持ち無沙汰になった私は会場内にいる客を観察して時間を潰すことにした。  開始直前の時間のはずだが、フロアの人口密度はかなり低い。数えてみると、客は全部で十五名ほどだった。年代は三十代後半から五十代くらいに見える。女性は私を入れて三人。私以外の二人は金髪に近い髪色で、服装もいかにもパンクですね、という印象である。  奥の方にドリンクカウンターがあるのに気付いて酒を買いに行こうか迷っているところへ、H氏が戻ってきた。両手にビールのコップを持っている。 「ごめんね、知り合いに捕まっちゃって」  はい、と渡されたコップを受け取り、なんとなく乾杯してから喉に流し込む。冷たい。美味い。感嘆のため息をついていると、フロアの照明が落ちた。ビールに気をとられている間にステージ上ではチューニングが始まっている。 「始まるね」  そう言い置いてH氏は客の間をすいすい歩き、最前列まで進んで行った。前に出すぎて、バンドメンバーに注意されている。笑いを噛み殺しながらH氏の後ろ姿を眺めていると、唐突に演奏が始まった。  音が、振動が、全身にぶつかってくる。身体全部の毛穴がぶわっと開いて、その全てから粒になった音がねじ込まれてくるような感覚だった。  ボーカルの叫ぶ歌詞は一言も聞き取れないが、その声も演奏の一部として交じり合い放出され音の渦になって私を飲み込む。  気持ちいい。頭がビリビリする。  ほとんど放心状態で音に溺れる。一曲ずつが短く、曲間も短い。MCは無し。あっという間に終わってしまい、ステージから去っていくバンドメンバーを名残惜しく見送った。  再びフロアが明るくなり、我に返ると同時にH氏の存在を思い出す。姿を探すと、顔をほころばせたH氏がこちらに向かってすいすい歩いてくるのが見えた。 「いやあ、いいね。最高」  楽しくて仕方が無いといった笑顔に、こちらもつられて笑ってしまう。 「はい、めちゃくちゃ格好良かったです」 「でしょ! 今日はあともう一組出るんだけど、次のバンドもすごく良いよ」 「そうなんですね。楽しみです」  私のコップが空になっているのを見たH氏は、すぐに二杯目を買ってきてくれた。もう一度乾杯をして、次のバンドを待つ。  この前はハイボールしか飲まなかったけど、今日はビールしか飲んでいないな、と考えながら冷えたビールを喉に流し込んだ瞬間、待ち合わせ前に抱いていた疑問を思い出した。 「Hさんって、奥さんはいるんですか」  考えるより先に、疑問そのままを口にしていた。自分で思うより酔っているのかもしれない。  BGMに合わせて揺れながらビールを飲んでいたH氏が、私の言葉に勢いよく振り返った。 「奥さん! 妻ってこと?」  酷く驚いた表情で、想定外の確認をしてくる。やっぱりこの人は面白い。 「はいそうです。ご結婚はされてるんですか?」 「いや、してません。独身です」  今度は何故だか申し訳なさそうな表情である。聞かれたくなかったのかもしれないと、こちらも少し申し訳ない気持ちになった。  ステージ上では、二組目のバンドが準備を始めている。 「そうなんですね。済みません、ちょっと気になって聞いちゃいました」 「いやいや、こちらこそ、ちゃんと言って無かったね。僕には奥さんも、恋人もいません」 「あ、そうなんですね」  演奏が始まり、フロアに爆音が降り注ぐ。続けてなにか言っているH氏の声が、隣にいるのに聞き取れない。聞こえないという意味で首を振ると、H氏は屈んで私の耳に顔を寄せ声を張り上げた。 「僕は今日のこれ、デートってことにしたいんですけど、君はどうですか?」  驚いてH氏を見上げると、相変わらずにこにこ笑っている。先程とは違う意味で放心状態に陥った私は、音の振動に包まれて心拍数が上がっていくのを感じていた。アルコールによって火照った身体がさらに熱くなってきて焦りを覚える一方、頭の中では『これじゃまるで吊橋効果そのものではないか』と呆れた声がする。  H氏は私の返事を待たず、一組目のときと同じようにフロア前方へ移動して行った。  最前列にたどり着いたH氏がゆらゆら、くにゃくにゃ踊っているのを見ているうちに、なにもかもがどうでも良いような気持ちになってくる。  別にいいですよ、デートってことにしても。  ゆらゆら、くにゃくにゃを続けるH氏の後ろ姿に向かって呟いてみる。爆音にかき消された自分の言葉を噛み締めながら、コップに残っていたビールを飲み干した。  やはり酒は美味いし、H氏は非常に興味深い。今はもうそれで充分だ。  私は目を閉じて、降り注ぐ音の粒に全身を明け渡した。 ********* 最後までお読み頂きありがとうございました(^^) 〈羽が生えるのまだ待っている〉 小野木のあ(おのぎのあ) 自由律俳句+エッセイ/コラムの自主連載 毎月第1・第3水曜日更新中 Twitter:https://twitter.com/onogi_noa

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません