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 壁に掛けられたネルソンクロックの針は、午後九時を回っている。デモソングの音源を聴いたのは、もう何回目だろうか。いまだに、解決の糸口は見えて来ない。  僕は、キッチンへ向かうと、コーヒーメーカーからカップへコーヒーを注ぐ。そして、カップ片手に窓を開け、ベランダへ出る。  僕の部屋のベランダからは、東京の都心部の夜景が一望できる。大学入学のタイミングで、故郷である四国から上京してきて、大学卒業からしばらく経っても、下井草の家賃六万円のワンルームアパートに住んでいた。それはそれで住み心地がよかったが、四国に住んでいた頃に抱いていた、「華やかな東京ライフ」のイメージとはギャップがあって、いつか東京の夜景が綺麗に見える高層マンションに住みたいというベタな願望をモチベーションにしてきた部分も大きい。  「夜景は残業でできている」と、誰かが言っていた。僕のような地方出身者は、都会の夜景の表面的な綺麗さには憧れを抱くものの、夜景が何によって構成されているのかということには、あまり思いを巡らすことはない。僕が生まれ育った四国の港町と同じように、東京の街にも生活があるのだ。ここにも、当然のようにそれぞれの仕事があり、それそれの家庭があり、恋だってするだろう。目の前にひろがる灯りの向こうに、そんなことを想像する。  煮詰まっていた頭が冷えてきたところで、もう一度、今、歌詞を書いている楽曲のメロディを思い出してみる。そのとき、バラバラだった音と言葉のかたちが、ふいに噛み合ったような感触があった。  僕は、オペラという言葉のイメージに縛られすぎていたかもしれない。オペラの持つ、クラシックやヨーロッパというイメージに。  依頼者は、「オペラ風」と言っているだけで、数世紀前のヨーロッパを舞台にしてほしいとは、ひとことも言っていない。オペラ作品のなかで描かれるドラマのように、現代の東京の街にもドラマがある。  そう、僕は、現代の東京の街を舞台にしたオペラを描けばいいのだ。  僕は、すぐに机に戻ると、パソコンのスリープを解除する。  現代の東京の街を舞台にしたオペラ。  本来のオペラとは別物と言えど、依頼の内容に沿って、ある程度はオペラの要素を残したほうがいいだろう。オペラには、恋愛がテーマになっているものが多い。今回の歌詞でも、恋愛をテーマにしてみるのがよさそうだ。  たとえば、こんなのはどうだろう。主人公は、東京都心にある会社で働く若い女性。仕事に追われる忙しい毎日だが、ある日、彼女は恋に落ちる。恋の始まりには、オペラのように歌い出したいような気分になることもあるだろう。しかし、恋は悲しい結末を迎える。それなら、バラード調の曲調にも、ぴったりだ。  オペラの持つイメージに縛られて立ちすくんでいた、さっきまでのことが嘘のように、歌詞の世界がひろがってきた。ここまで来れば、あとはいつものように、楽曲のそれぞれの部分のメロディに最もよく合いそうな言葉を探していくだけだ。  これは、いける。

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