「時がすべてを解決する」とは、よくいったものだ。 何か大きなショックがあっても、一カ月もすればいつもの日常が戻ってくる。 生活のため、戻らざるをえないということもある。歯車ですらないただの部品くらいの存在でも、働かないで生きることが許されるほど社会は甘くない。 ――あの事件のあと、当面の間は仕事を休ませてもらうことにして、わたしは自宅で静養を続けていた。 「もう大丈夫……」 口では、そう言える。笑顔も作れる。けれど、いざ家から出ようとすると体が震えだし、足が竦んで、どうしてか一歩も外に出られなくなってしまったのだ。 PTSD……心的ダメージを受けたことをきっかけに、その後の体調に深刻な後遺症を残してしまう「トラウマ」状態。それは「気の持ちよう」なんて甘い言葉で片付けられるものではなく――。 繰り返す悪夢に不眠、常に誰かから狙われているような不安感、手の震え、過呼吸など……。 「心」は強いほうだと思っていたわたしが、身をもってそれら症状を受けとめるはめになり、しばらくの間、人知れず苦しんだのは、本当のこと。 籠っていても、最初のうちは何をするにも集中力が続かず、やる気も起きなくて――。 本も読めない。テレビをつけていても、目にも耳にも、情報が入ってこない。 脳裏のザワザワをごまかすために音楽だけは垂れ流しにして、ちくわぶと部屋でゴロゴロする日が続いたのだが――。 「キャンキャン!」(餌くれ) (……わたし、何やってるんだろう……) 「ヴー、アウゥー……キャンキャンキャンッ!」(腹減った餌よこせ) (……そうだよね。このままじゃ、ダメだよね……) 愛犬に励まされ、気持ちがある程度落ち着いてくると、自分が何か大切なことから逃げているような気がして……。 世界からはじきだされている疎外感のようなものを感じ、急にいたたまれなくなってくる。 すると今度は、早く社会と関わらねばならないと強迫観念にも似た焦燥感に駆り立てられて、ある日から突然、社会復帰する方向へと心がシフトした。 「明日から仕事に行けるの? そ、そう。体のほうは、もう大丈夫なの? それなら、頑張りなさい」 母に告げると、とまどったような彼女の顔に、ほっとした笑みが浮かんだ。 事件直後の頃は、ひどく心配してくれていた母。 それも最近になって、だんだんと残念な目つきに変わりつつあるのを感じていたので……本当にちょうどいい頃合いだったかもしれない。 親をガッカリさせるのは本意ではない。 甘えたまま、落ちていけたら楽だろうな~、なんて気持ちもあるけれど。 いつまでも折れたままではいられない。浮上するには、今しかない。 (わたしは弱い人間にはなれないし、なりたくない) こんな泥まみれのプライドでもしぶとく消えないのだから、それに従うしかないだろう。 * * * ――どわっ!!! 場に効果音をつけるなら、まさにこんなイメージだったろうと思う。 出勤した途端、好奇心旺盛で、おしゃべり好きの子どもたちに囲まれて……。 教室は、井戸端会議と化していた。明るく迎えてくれたのは、ありがたかったけれども。 みんなの輪の先頭にいるのは、もちろん悠馬だ。 「センセーセンセー、攫われたんだって? 怖かった? 恭……オレの父ちゃん、かっこよかったっしょ!? そこんとこ、ちょっと詳しく!」 「悠馬の父ちゃん、先生のこと助けにいったんだって? 悪者ぶっとばして先生を助けたってホント?」 正直、この話題がでると色々と思い出してしまい、肝が冷えて鳥肌が立つのだが……。 子どもにデリカシーを求めるのは難しい。けれどその気遣いのなさも、嫌いではなかった。 「オレの父ちゃん、元刑事だかんな。ゲンエキジダイには、オニグモのキョーって呼ばれてたんだぜ」 悠馬がその小さな肩をえっへんと反らせ、得意げに語っているのは、自らの保護者・矢澤氏のヒーロー譚だ。難しい単語に回らぬ口を、一生懸命に動かしている。(どうやら今までは子どもたちの間でも「あの人はヤのつく職業の人だ」と恐れられていて、その誤解もようやく解けたとかなんとか……) 「鬼蜘蛛の恭」というのは、現役時代の矢澤氏のあだ名で――。 矢澤氏が刑事をしていた頃、彼は待機のときに頭を整理するためか、よく毛糸で「あや取り」をしていたことから、そんな風に呼ばれるようになったらしい。(ちなみに、つけたのはヤスさんで、つけられた本人は「あのパンチ野郎……」と忌々しげに吐き捨てていた) 「いいなー。親が刑事って、かっこいいなー」 「でも、怖い人が、この街にいるってことでしょ。ハナ、怖いよ……」 「うちのママも、遅い時間になったら、絶対に一人にはなるなって言ってた」 私が巻き込まれた結婚詐欺および誘拐事件は、軽傷でほぼ未遂で済んだこともあり、地域新聞に小さく記事になった程度で、全国ネットなどの大きなニュースには取り上げられなかった。 だが、それでもこの田舎の街に、いっときの警戒心をもたらすことにはなったようで。 地域の安全に少しでも繋がればいいと、思いを巡らせていると――。 「何かあったら、うちの父ちゃんに言えば大丈夫! な、センセー?」 と、キラキラ輝く瞳に見上げられて。 「うん。そうだね!」 悠馬の父ちゃんはそれはもう格好よかったよ、と付け加えると、子どもたちの間にわぁっと歓声が上がった。 嬉しそうに鼻をかいている悠馬の顔が、おかしくて微笑ましい。これから彼は、父と呼べるようになった矢澤氏と、良い関係を築いていけるはずだ。 区切りを知らせるチャイムが鳴り、自由時間から勉強タイムへと切り替わる。 「さぁ、勉強もしっかりやりましょう。学校の宿題がある子は、それをやっちゃってね」 「えー、もうそんな時間? ……はーい」 子どもたちによる井戸端会議は、そこで解散となった。 * * * 流し場で、蛇口を握った手が少しだけ震えていた。 有川は収監され、裁判の手続きが進んでいるようだが、それで何もかもが丸く収まったわけではない。 張り巡らされた悪根を根絶するのは難しい。いつどこから芽を出すのか、ほかに仲間がいて復讐にくるのではないかと、ふとしたときに不安はぶり返す。 そして、有川の愛人であった朋美……。 結婚した相手とは破局状態で、マッチングアプリで知り合った有川に引っかけられ、妄信的に入れ込んでしまったらしい。 詐欺行為を手伝い、更には、わたしを手にかけることも厭わないようだった、あのときの様子……。 その家族も人知れず引っ越していったと、近所のおばさま方から母経由で耳にした。 (一体どうして、そんな道に迷いこんでしまったの……?) 朋美の電話番号は携帯電話に登録したままになっていたが、もうかかってくることはないと思うし、顔を合わせて笑い合うことも、金輪際ないだろう。 心にあいた穴がさらに大きくなった気がするけれど、これを教訓に今後の人生にいかしていくしかない。テレビのニュースで毎日、事件の話題に事欠かないのは、そういうことだ。 * * * 「……お先に失礼します」 「徳村さん、お疲れ様。気を付けて帰ってね」 同僚に見送られ、明るいうちに児童館を出た。 仕事に復帰してからしばらく経っても、やはり日が陰ったあとでの職場からの帰り道は恐ろしく、ガード下に差し掛かると足が震えてしまう。 塾長と同僚にお願いして、今でも基本は早上がりのシフトを選択させてもらっているのだが――。 「先生!」 角を曲がったところで、聞き覚えのある声に呼びかけられた。 先ほど迎えにきた矢澤氏に連れられて、児童館から出ていくのを見送ったばかりの悠馬だ。 電信柱の横で矢澤氏と手を繋ぎ、空いている方の小さな手をこちらに向けて振っている。 「先生、一緒に帰ろう」 「悠馬くん……矢澤さん、すみません。まだ明るいし、本当にもう大丈夫なんで……」 「いえ。散歩のついでですから」 曇り空で暗くなるのが早い日には、こんな感じで矢澤氏が家まで送り届けてくれることもあった。 こう頻繁では申し訳ないと、何度も伝えているのだが……。 悠馬もSP気取りを楽しんでいるからと言われて、押し切られている。 夕暮れどきの街並みを、母が買ってくれた新しい自転車を引きながら、頼もしい大小の影と、並んで歩く。 悠馬はひとりで喋っているが、矢澤氏はやっぱり口数少なく、会話が盛り上がるわけでもないのだが……彼の隣は緊張もしないし、不思議と安心を覚えた。 「……犯罪に巻き込まれた被害者の恐怖感は、一生消えるもんじゃありません。いつでも頼ってください。力になりますんで……」 お言葉に甘えてお世話になるうちに、彼はすっかりうちの母とも懇意になっていて――。 「あらあら、矢澤さん! いつもありがとうございますね!」 玄関外まで現れた母は、妙に彼を気に入っているようで、今では雑貨店に遊びにいったりもしているらしい。 どうしてか今日は化粧までしている。それに家に作りかけの編み物が増えているのはどういうことか。 「何か趣味があると楽しくなるわねぇ。あんたもやらない? 矢澤さん、教えるのうまいのよ。優しいし男らしくてねぇ……」 「いえそんな……自分は、素人ですから」 矢澤氏から編み物を教わり、嬉しそうにしている母を見て、わたしも嬉しくなる。こんなことは、以前にはなかったことだ。 「そうね……わたしも、やってみようかな!」 いつもと同じで、どこかが違ってしまった日常。大切にしたいと思えるようになった場所は、今日も賑やかで脆く、眩しい。 〈追伸〉 ――二年後。 徳村芽衣は、矢澤芽衣になりました。 〈完〉
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