或いは、そんな事件(きっかけ)
二章二節 徳村芽衣は虐待を疑う

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 カレンダーを一枚めくり、七月に突入した。  児童館の入り口に設置した大きな笹は、子どもたちが思いおもいに願いをかけた短冊で華やかに彩られている。  平穏な日が続くなぁと思っている時に限って、何かが起こるものだ。  時刻は夕方、十六時をまわった頃。  折り紙で作った星を窓ガラスに張り付けていると、児童館の前に派手なスポーツカーが停まったのが見えた。  音漏れの迷惑も省みず大音量で流されるBGMが不快極まりない。ボン、ボン、という低音が室内にまで響いている。  うちに子どもを通わせる人々の中に、あんな迷惑な保護者はいただろうか、と眉をしかめて見ていると――なんと、矢澤悠馬が館内からひょこっと出てきて、車の方へと走り寄っていくではないか。 (えっ……何? どういうこと……?)  作業を中断し、悠馬を追って外へと向かった。  もろに耳をつんざくカーミュージック。車の助手席の窓が開いていて、そこから悠馬が伸びあがるように車内を覗き込んでいるのが見えた。  助手席には、遠目にもわかるほど派手な化粧をした水商売風の女性が座っている。運転席側には、鋭い目をしたスキンヘッドの男。煙草を咥えながら、女性と悠馬の話が終わるのを待っているようだ。  悠馬が相対している女性は、なにか折りたたまれた紙を広げ、数える動きをしている。はっきりとはわからないが、その仕草はまるで紙幣を数えているように見えた。 「これだけ?」  眉間に皺を寄せた女性が、口を尖らせて悠馬を見た。悠馬が身を引いたところで、わたしは声をかけた。 「あの、何か御用でしょうか」  悠馬がこちらを振り向いて、「先生?」と応える。その後ろから、チッと舌打ちが聞こえたかと思うと、車が急発進した。  ギュギュギュッ――! 「あぶないっ」  慌てて悠馬の肩を引き寄せる。信じられない、子どもが傍に立っているのに車を走らせるなんて!  車が走り去った方を睨みつけるが、相手は先の角を曲がり、すぐに車体は見えなくなってしまった。ただ非常識な爆音だけが尾を引き、遠ざかっていく。 「悠馬くん、今の人、誰?」 「……お母さん」 「え?」 「なんでもないよ。たまに会いにくるんだ」  それだけ言って、悠馬は素早く教室へと戻っていってしまう。  お母さんなら迎えにきたのではないのかとか、先ほどのやりとりは何だったのかとか、確認したいことはたくさんあったのに……。  一度タイミングをはずすと、取り戻すのはなかなか難しい。聞きそびれたまま、時間は流れるように過ぎてしまう。  夕方の接客や業務で忙しくなったこともあるが、悠馬の方も意図的にこちらを避けていたように思う。  その後、十七時半になり矢澤父が迎えにきたのだが、ちょうどその時も、わたしは他の保護者に子どもの習い事のことで相談をされていて、矢澤父と今日の出来事について話をすることはできなかった。  悠馬が「お母さん」と呼んだ女性。その隣に、まるで伴侶のように座っていた男性。偏見かもしれないが、お世辞にも雰囲気がいいとは言えない……。  喉の奥に小骨が引っかかったような気持ちの悪さが残っていたが、もしかしたら矢澤夫婦は離婚されていて、その後、奥さんの方は再婚したのかもしれないし……何か事情があるのだろう。  人様の家庭のことに首をつっこむべきではないと思い直したものの、どうにも粘つくような違和感はぬぐえなかった。    *  *  *  もやもやとした気持ちを引きずったまま数日が経って、抱いていた不安が決定的なものとなった。  悠馬の背中に、痣ができているのを見てしまったのだ。  彼自身は今日も教室で元気に転げまわって遊んでいて、たまたま裾がめくれた際に、それに気が付いた。 「悠馬くん……それ、背中、痣になってるけど、どうしたの?」 「え? あー……転んだ」  いつもはふてぶてしい悠馬が、サッと洋服の裾を引っ張り、痣を隠した。転んでできるようなものではなかったが、それ以上触れられたくないという態度もおかしかった。  虐待、の二文字が浮かんだ。 『うちの子が、また何か』  悠馬の素行を気にしていた矢澤父。 『お母さん』  悠馬の母親だという、男を連れた派手な女性。  父親か母親のどちらかが、暴力を振るったのか。  矢澤父に関しては、最近になって挨拶や会話を交わすようになり、見た目に反して丁寧な人だと感じていたので、子どもに暴力を振るうような人間とは思えない。  けれど、人の内面はわからない。わたしの父も「そう」だったから。  過去に「いた」父は、平時は「普通」なのだが酒が入ると豹変し、人を罵り、物を壊して暴れるのがストレス発散方法という、二面性のある人物だった。  対外的には温厚で真面目な夫・良き父親を演じていたから、母は周囲にも相談できず、一人で苦労していたと思う。  不思議なことに、酒が入らなければ本当に何の問題もない人だった。  母は父に何度もアルコールを止めるように頼んだが聞き入れられず、ついには母や小学五年生だったわたしにまで暴力を振るいはじめたので、それから一年、我慢と準備を経て、両親は離婚することとなった。  離婚の話が出たときには、父も反省の色を見せ、何度も母に「酒は止める」と誓ったが、何度でもその約束を破った。  酒と暴力は止められない。一種の心の病気なのだ。  わたしはそんな父が大嫌いで両親の離婚にも大賛成だったが、後遺症としてこちらの心の奥底に冷たい棘のようなものが生じたと思っている。  今も父とは連絡をとっていないから、今どうしているかも知らないし、知りたくもない。  母にしても、自分だけが苦労してわたしを育てたのだからその恩を返して当然と思っている節があるが、こんなトラウマを植え付けた両親をわたしは許せないと思っているくらいだ。  消せない暴力の記憶。突然の罵声、割れる食器。難癖をつけられ髪を掴まれた時には恐ろしくて息をすることもできなかった。 『なんだ体ばっかり大きくなりやがって』  そう言っていやらしい目で見られたこともある。あの後、わたしはトイレで吐いた。その時に感じた恐怖は今でも生々しく残っている。  自分の過去に重ねてしまうからか、暴力を振るう男、虐待をする親は心の底から憎いし、見て見ぬふりはできない。  もし悠馬が大人から理不尽な暴力を振るわれたのだとしたら、しかるべきところへ通報し、対処してあげなければならない。  ぼんやりと考え込んでいるわたしの横を、同僚の指導員がパタパタとスリッパの音を響かせて通り過ぎていった。  その彼女がふと足をとめて振り返ったので、わたしもつられて目を合わせる。 「あ、徳村さん。来週使いたい模造紙が足りないんだけど、塾長に聞いたら、こないだ買いに行ってくれたはずだって……」 「あっ、ごめんなさい。この間、買い忘れてしまって。月曜には補充しておきますんで、それで間に合いますか? 今日はちょっと手が離せないから、明日買いにいってきます」 「じゅうぶん間に合うけれど……明日って土曜日じゃない。徳村さん、休みでしょ? 勤務時間外にわざわざ行かなくてもいいわよ」 「家、近いんで。自分のミスですし。塾長には内緒でお願いします」 「それならいいけど。よろしくね」  その足でわたしは事務室へ向かい、COCORONに通う子どもたちの入塾申込書が綴られたファイルを手に取った。  申込書の二枚目には家庭状況報告書がついており、家族構成や緊急連絡先の他、子どもについて気を付けてほしいことなども書かれている。  子どものアレルギーに関する報告欄もあり、アルバイトだからという言い訳で、知っておくべき事項をスルーしてこの仕事に就いていたことに、今更ながら反省の気持ちを覚えた。  ページをめくっていくと「矢澤悠馬」の名前が目に入る。角ばったへたくそな字だ。矢澤父が書いたのだろう。  母親の氏名を書く欄には「矢澤佑香」とある。スポーツカーの女性と同一人物だろうか。  上から読み進めていって、視点が止まった。何度も上に戻り、そして見返す。  父親の欄は、空欄になっていた。保護者の欄には「矢澤恭介」。子どもとの関係を示す欄には「伯父」と書かれていた。

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