クロネコノダンザイ
<第十六話>

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 それは、私が今まで見たことのない類の猫だった。  というのも、私は野良猫として生きた期間があまりにも短い。産まれた直後のことはあまり覚えていないし、野良猫として母と兄弟達と一緒に活動できていたのはたったの一年にも満たない年月である。  それからは、ずっとあのデブ男のところで飼い殺しにされている日々。兄弟達と暮らしていた頃に、他の猫達のことを見なかったわけではないが――それでも、保守的だった母の狭い行動範囲で、出会うことになった猫の数はさほど多くはないのである。  だから、三毛猫なんてものを見たのも初めてであるし――同時に、こんなに鮮やかで綺麗な毛並みの猫も見たことがなかったのだ。イケメン、というには少々顔立ちはまるかったし、目もくりくりしすぎていて可愛すぎる気はしたけれど。初めて見る、とても“美しい”猫の姿に、私は一瞬見惚れてしまったのだ。 『……泣いてなんか、ない』  そう、だからこそ、なのだろう。  最初に思ったのは。この猫が誰であったとしても、そんな相手を――自分の地獄に巻き込んでしまうわけにはいかないという、その感情一つだったのである。 『お願いだから、消えてくれる?目障りなんだけど』  なるべく、精一杯の冷たい声で告げた。ガラス越しでもお互いの姿は見えるし声も聞こえる。その時幸運にも、あの男は部屋にいなかった。矢吹は一応は大学生という身分である。一定以上大学に行かないと卒業することができないらしい、というのは矢吹と両親の会話でなんとなくわかっていることだ。あの男が大学に行っている時間だけは、私も虐められる心配をせずに済んだのである。  あの男は私自身への折檻は少なかったものの、それでも腹が立つと檻ごと蹴り飛ばすくらいのことはしたし、私に水をぶっかけるくらいの行為はする時があったからだ。出来る限り、あの男から酷いことをされないように、事を荒立てないように、家にいる時はひたすら息を潜めていること。それは、もはや私の骨身に刻まれた本能と言っても過言ではなかった。  今だって。あの男がいつ頃大学に行っているのかは大体分かっているものの、それでも急に“休講”があったり“サボりたくなった”時などは予定外の帰宅をすることもある。いつ帰ってくるか、また地獄が始まるのか、正直気が気ではないのだ。  そう、万に一つでも。彼と話している今の姿を、あの男に見られるようなことがあれば――。 『……えっと、ごめんね。初対面なのに、ちょっと馴れ馴れしかったッスよね……』  そして、私の言葉をそのまま受け取ったらしい彼は、しょんぼりと耳を下げて謝ってきた。あまりにも素直な反応に、こっちの胸がズキリと痛くなってくる。  彼は何も、悪いことなどしていない。ただ、窓際で汚い姿でぐったりしている自分を心配して、声をかけてくれただけではないか。完全に善意でしかない。その善意を、自分はこうして足蹴にすることしかできないのである。  本当は。そのとても鮮やかな茶色と黒と白のふかふかの毛を、もっとゆっくり見させて欲しい。その丸くて可愛い眼をもっと覗き込んでみたい。――そんな下心を持ってしまうほど、彼は魅力的であったというのに。 『じゃあ、すぐいなくなるから。その代わり質問に答えてよ、ね?』  そして彼は、明らかに私の言葉にショックを受けていたというのに――すぐにその場を立ち去らず、そんな訳の分からないことを言い出したのである。 『それでいいんッスか、キミは』  とっさに。何を問われたか、わからなかった。固まる私に、図々しくてお節介なのはわかってるんスよ、と彼は続けた。 『一番辛いのは、心のままに生きられないってこと。生きてることも、嫌になっちゃって、どうにかしてそこから逃げ出したくなっちゃうこと。……妥協して、我慢しても、今よりいい未来なんてきっと来ないんスよ。このままで、それでいいわけじゃないなら。自分の意思で、勇気振り絞って、運命に立ち向かうしかないんッス』  それは、どういう意味なのだろう。私は困惑する。確かに、檻に閉じ込められて、トイレも交換されなくて、ガリガリにやせ細っている私の姿を見ればワケありなのは明白だろうけど。それでも、彼とはここで初対面だ。彼は何も知らない、それは間違いのない事実であるはずなのである。  それなのに、どうして。まるで何もかも、見てきたようなことを言うのか。初めて会った私の心を、こんなに掻き乱そうとするのか。 『……なんてさ。俺の、憧れのヒーローの言葉の受け売りなんッスけどね』 『ヒーロー……?』 『隣の、三丁目のボスッス。そんで、俺達のヒーロー!あの人がいてくれたから、俺達は今安全に飯が食えるし、仲間と一緒に笑ってられるんス。でも、あの人は自分が何か特別なことをしたなんてちっとも思ってないんだ。いろんな猫を助けて回って感謝されても、“自分がムカついたから嫌なやつをぶっとばしただけ”とかしか言わないんスよ。それがもう、超かっこよくて。人に恩着せがましくしないし、めっちゃ喧嘩は強いし!……誰かを助けるのに、わざわざ理由とか大義名分とか、そういうものを全然考えたりしない。俺の、最高のヒーローなんッス。……俺も、いつかあの人みたいな猫になりたいって、心底思ってるんスよ』  ヒーローに、なりたい。それは、私が一度も考えたことのない発想だった。ヒーローというのがどういうものなのかは知っている。というか、腹の立つことに部屋で矢吹がやたらとドラマやらアニメやらニュースやら特撮やらを見るので、無駄知識ばかりが蓄積されていったというべきだろうか。そういうものをつけて熱中している間は、私も他の猫も何もされないで済むのである。勿論、煩く騒いだりしたら即座に良くて私刑、基本は死刑が待っているのだけれど。  ヒーロー。それは、困っている人達を助けに来てくれる存在。助けて、と可愛い女の子が叫ぶと、どこからともなく現れて華麗にヒロインを助けてくれる存在なんだそうだ。――あの、悪意の塊みたいな男が、そんなものに熱中しているというのは実に滑稽な気がしないでもなかったけれど。もしかしたら矢吹も、妄想の中では“超絶チートで十人いれば十人振り向くくらいの美男子”になっている夢でも見ているのだろうか。 『……ヒーローなんて。そんなもの、いるわけないよ』  私は、俯いて言った。 『だって、私達のことは、誰も助けに来てなんてくれなかったもの……』  本当は、わかっている。――誰かをアテにして、助けて貰うことばかり期待している者は。人間だろうと猫だろうと、そうそう誰かに救って貰えるはずなんてないということを。此処はご都合主義のゲームの世界でもなければ、特撮の世界でもない。奇跡なんて起きない、都合よく助けに来てくれる救世主なんて現れるはずのない現実なのだ。私は、とっくの昔にそれがわかっていた。否、野良の頃にはもう、そういうものが現実だと薄々気づいていたはずではなかったか。  それなのに、私は気づけば、誰かの助けばかりぼんやり期待して、期待しても与えられないそれを勝手に諦めていたのである。自分自身が、総ての引き金を引いておきながら――私自身が、ヒーローになればいいなんて思いもしなかったのだ。  私を助けようとした猫達が、私のせいで死ぬのを何度も見てきたというのに。 ――最低だ、私。  ヒーローなんて、いない。  いるはずがなかった。自分が、ヒーローになるんだという気概さえ持たない私の世界になど。  目の前の彼と自分はあまりにも違いすぎる。助けを期待するばかりの私と彼は違う。彼は、見知らぬ誰かのことも助けられる、誰かのためのヒーローになりたいと言う。私がけして、考えもしなかったことを真剣に望んでいる。  眩しい。そして――けして、私なんかに関わっていい存在では、ない。 『じゃあ、俺がキミを助ける』  何を、言われたかわからなかった。私ははっとして顔を上げる。  そこには、綺麗な毛並みの三毛猫が、にっこり微笑んで座っていた。 『俺を、キミのヒーローにしてよ。……キミを、ヒーローの俺が助けるヒロイン一号にさせてよ』  なんで、そんなこと言うんだろう。私と彼は、ここで初めて出会ったばかりなのに。私は彼を巻き込まない為という名目で、冷たい言葉で突き放そうとしたのに。 『……馬鹿だね。私みたいに汚くてボロボロの猫をなんでそんなに助けたいの』  彼もきっと野良なんだろう。でも立ち回りが上手いのか、はたまた三丁目の治安がいいのか、さほど他の猫と喧嘩した様子もなく本当に綺麗な毛並みをしている。  反面、私ときたら。ストレスで毛が抜けまくって、あちこち禿げてシマ模様がまだらのピンクになってしまっている。そのピンクの肌もシミだらけだ。そして、アバラが浮いてガリガリで、無理やりあの男に去勢させられたせいでもう赤ちゃんを産むこともできない。  何より、トイレがほぼ交換されないものだから、あちこち排泄物に塗れてもはや腐ったような匂いがする始末である。勿論、この部屋に閉じ込められてからまともに身体を洗ったこともない。たまに水をぶっかけられてもそのままである。彼に触ったら、間違いなく彼のその綺麗な毛並みを汚してしまうことだろう。 『私、助けて貰っても、何もできないよ』  窓際でぐったりしている私に、声をかけてくれた猫は他にもいた。  助けてくれようとした猫だって、いなかったわけじゃない。  でも――何か行動を起こそうとすればみんな見つかって捕まって、結局あの男に滅茶苦茶にされてしまった。この間の猫など、生きたまま足を切り落とされてしまったのである。彼は最期まで血だらけで、痛い痛いと泣きながら死んでいった。全部全部、私が弱かったせいで起きたこと。そしてもし成功したところで、私は相手の子供を産んであげることもできない身体である。 『言ったでしょ。俺は、ヒーローになりたいんだって!』  ピン、と尻尾を立ててアピールする彼は、戦士の顔をしていた。 『ヒーローは、誰かを助けるのに……理由なんて、考えたいしないものッスよ!……俺、ミッキー。ねえ、キミの名前も教えてよ』  土砂降りの雨の中で、軒下に入れてくれた誰かを。毛布を被せて温めてくれた誰かを。人も、猫も、きっと拒むことはできないものだろう。  それがたとえ悪魔や詐欺師であっても、縋らずにはいられないものだろう。  だから私も――彼に、縋ってしまったのだ。この後に起こる悲劇を、想像できなかったわけでもないというのに。

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