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 彼と一緒に暮らすようになって、もうすぐ2年が経とうとしている。  朝はきまって手回しのミルで豆をく。私たちはコーヒーを愛している。濃い風味を出すためしっかりとハンドルを回し、細挽ほそびきにする。ガリガリガリと小気味のいい音が鳴るのを聞きながら、根気強く回す。やがて、コーヒー豆のいい香りがふわりと漂ってきて、まだ眠気がまとわりつく脳を徐々に目覚めさせてくれる。  とくとくお湯を注ぎドリップをはじめると、彼が重たげなまぶたをこすりながら起きてきた。 「いいにおいだね」  彼が、春の海のような穏やかな顔で笑う。私はこの顔を見るために、わざわざ豆から挽いているのかもしれない。  焼きあがったあつあつのパンをちぎり、ふたつの皿に分ける。あちち、と指を振る。彼がまた微笑む。時間がやわらかくなっていくのを感じながら、彼と一緒に朝食を盛りつける。  彼と出会う前の私といえばまだ大学生で、すぐ男にのぼせてはすぐに去られる、というような、まるで空回りばかりの女だった。  ひとりが怖かった。ひとりきりでいると、どこからともなく孤独が忍び込んでくる。孤独は私の体からじわじわと酸素を奪い、血の気を奪い、深い水底に沈んでいくみたいに目の前を真っ暗にする。そのたびに、私は自分が闇と同化し消えてしまうような気がして恐ろしかった。  恋人がいると安心した。誰かに必要とされることは、自分の存在が肯定されているみたいで嬉しかった。だから、もっとずっとそばにいたくて、いてほしくて、私は如何なるときも恋人にぴったり寄り添い離れなかった。今思い返せば、それは愛情にもとづく行為というよりも、ただ孤独から逃れるためにしがみついていたようにも思われる。  すぐに肌を重ねるのが悪いことだなんて思わなかった。男の人からねっとりした欲望の色がにじんでくると、背骨がぞくぞくと震え体が熱くなる。「私を欲しがってくれてるんだ」って喜び。愛されたい。愛が欲しい。それを手にすれば、この底なしの孤独も消えてなくなるはず。  つねにそういう思考であったため、誘われればあっさり体を受け渡した。「それがよくないんだって」と、よく友人たちは言った。でも求められれば嬉しくなってすぐに心を明け渡したくなるし、それに裸に触れることで全てを知った気になれた。つまり、友人のお説教などさっぱり気に留めていなかったのだった。  しかしそうして恋人同士になり、懸命に手を伸ばし愛に触れようとしても、なぜかいつも、彼らはそのうち私を重たい女だと邪険に扱い、気がつくといなくなってしまった。もっとツラかったのは、「好きだ」と言ったくせに、恋人と思っていたのは私だけで、自分が遊び相手のひとりだったと知ったとき。そう絶望の底に落とされたのも、一度や二度ではない。  私はいたって真面目に、愛、たるものを求めながら、あほのように失恋を繰り返していた。 「なぜもっと慎重にならないのか」「なぜちゃんと大切にしてくれる人を見極めないのか」と、友人たちはクチうるさく言った。そのたび、内心「ほっといてくれ」と思いながら頷いていたのだけど、だんだん身に染みてきて、彼女たちの言葉を素通りできなくなってくる。  が、しかし私には慎重になる余裕などなく、まるで目の前にニンジンを下げられた仔馬のように、すぐそこに自分を魅了するものがあれば一目散に駆け出すこの性格は、自分じゃどうすることもできなかった。  しかし、そういうことが何度も何度も積み重なり、「今度こそ」と信じていた人にも驚くほどあっさりと捨てられてしまったあの夜、ついに私の中で何かが爆発した。  それは、ほったらかしにしていた小さな雨漏りが、いよいよ天井を崩壊させるみたいに、今まで見ないふりをしていたみじめさが、体の中で一気に吹き荒れたのだった。  どうしようもない憤りや、悔しさや、哀しみに心と気力をガリガリ削られ、発狂寸前の精神状態で夜の道をふらふら歩いていた。誰かにこの胸のうちを吐き出せたらラクになれるのだろうかと思い、女友だちの顔がいくつか浮かんだけど、お説教が待ち受けていると思うと億劫おっくうになりはばかられた。行くあてもなく、でも家でひとりにもなりたくなくて、私は鉛のような足を引きずり途方を彷徨さまよっていた。  結局、コンビニで袋いっぱい買ったお酒を手に、人気(ひとけ)のない公園の隅でひとり泣いた。じっとり噴き出す汗と涙がまざって、缶チューハイはひどくしょっぱかった。行き交う人たちの不審げな目線を感じながらも、その時ばかりは、そうやってほっといてもらえるのが有り難かった。お店に入らなかったのもそれが理由だった。今優しく声をかけられ、触れられるなどしたら、私はまた拒めずに、この焼け野原をさらに炎上させてしまう。この地獄の連鎖をとめないと。そう虚ろに思いながら、私はがばがばとアルコールを流し込んでいた。  どれくらいそうしていたのか定かではない。お酒のせいで頭がぼうっとして怠かった。けれどお酒のおかげで泣きたいだけおいおいと泣き、ボロボロに荒れていた心が徐々にかたちを取り戻していたのは確かだった。このまま公園で夜を明かす気などないし、そろそろ腰を上げないと、などとぼんやり考えていると、今度は天気が荒れてきて、夏の夜雨に襲われてしまった。  小さな公園には雨をしのげる場所がなく、私はすぐそばのアパートの軒先で膝を丸め、またみじめな気持ちを滲ませながら、雨がやむのを待っていた。 「あの、大丈夫ですか……?」  そう声をかけてくれたのが、彼だった。  彼はアパート2階の住人で、いったんは私をちらりと見るだけで、静かに外階段を上っていった。そのことに関してとくに何も思うことなくただ茫然ぼうぜんとうずくまっていたのだけど、しばらくして、「あの、」と声がしたから驚いた。彼は草食動物みたいにひっそりとした足取りで、私の様子を伺いにきたのだった。 「へいきです」 「傘、良かったらどうぞ」 「へいきです」  彼が困ったような顔をした。その時の私はたいへん投げやりな心模様で、不躾ぶしつけと自覚していながらも、彼の親切を素直に受け取れなかった。それに、ようやくいっちょ前に「慎重」になっていたようにも思う。  視界の隅に映る彼は、飾り気のない顔立ちと体の華奢きゃしゃさが若く見せているが、全体的にどこか疲れたような雰囲気があり、私よりもずっと年上のように見えた。けれど、ずっと丁寧な口調を崩さないのが不思議だった。 「帰れないんですか?」 「へいきです……」 「もしも必要であれば、ついてきて下さい」  お誘いにしては、なんだか回りくどい言い方だなと思った。けれど、「必要」という言葉が、私の頭の中で確かな音を持って響いたのだった。  この人も、誰かに必要とされたがっているのだ、と、私は勝手に同じ気持ちを抱いている気になり、取って付けたような「慎重」はぺらりと剥がれ、まるで見えない孤独の糸に引かれるように、よたよたと彼の背中を追った(しかし、それは私の思い違いだったのだと、後にわかることになるのだけど)。  部屋にはほとんど物がなくシンプルで、けれど一点一点に品があり、地味といえばそうだが、どこか削ぎ落とされた洗練さも感じられた。  男の人の家に上がる、という意味をわきまえた上でついていったのだけど、でも彼は私をいいにおいのする湯船に入れ、私がお風呂から上がると、「落ち着いたらうちに帰ってもいいし、そこのソファで眠っても構いません」そうさらりと言って、とっとと寝室へ消えていった。あれ、と拍子抜けしている間に、私は知らない部屋のリビングでひとりきりになった。  お風呂で温められた体は、奇妙な状況にもかかわらず、厚かましくも入眠の準備をはじめていて、「終電まだあるな」と思いながらも、私はだんだん重たくなる体をソファに沈ませ、目を閉じた。  カーテンの隙間から漏れる光がまぶたに透け、目を覚ました。どこだここ……、と重たい頭で考えていると、ふいにコーヒーのいいにおいが鼻腔びくうを撫で、体が自然と起き上がった。彼が向こうのダイニングテーブルで朝食を摂っている姿が見え、だんだんと昨夜の記憶が蘇ってくる。  日曜、なのにちゃんとしてるんだな。と、ぼうっと眺めていると彼が私に気づき、コーヒーと焼きたてのパンと、それからカリカリのベーコンとスクランブルエッグを、まるでついでのように準備してくれた。 「よければどうぞ」  彼が穏やかな声でそう促す。美味しそうなにおいにつられ、私はぺたぺたと間抜けな足音を立て近づき、彼の向かい側の椅子に座った。  ふわん、と、とびきりいい香りが胃袋を刺激した。昨夜はお酒以外何も口にしておらず猛烈な食欲がこみ上げてきて、私は「いただきます……っ」と手を合わせると、パンに手を伸ばし思いきりかじりついた。  パンはふんわりやわく、口の中でほのかに甘さが広がって、あまりの美味しさに私は初めてパンを口にしたかのごとく感動していると、  気づけば、涙が一粒こぼれていた。  食べ物を口に含むたび、あたたかくて、美味しくて、ぽろぽろ泣いてしまった。昨日散々泣いたのに、まだ出てくるものなのかと思った。でも、昨日のどろどろに腐った気持ちが流させたものとは全く別もので、その涙は、とても優しい温度を宿していたように思う。  彼はとくに気にする様子もなく食事を続け、私はやがてわんわん泣き喚いた。わけを尋ねてくることもなく、だけど、彼は食事が済んでも本に目を落とすなどして、私が食べ終わるまでそこにいてくれた。  朝食を食べ終わるとすぐ、「午後から用がある」という彼と一緒に、部屋を出ることになった。それはあまりに急で、玄関を出、お互い名前すら知らないまま、「では」と去ろうとする彼に、私は、 「あの、どうして、」  最後に引き止め、訊いたのだった。 「どうして、こんなに親切にしてくれたんですか」 「……そうですねぇ」  そう言い、彼がまじまじと私を見つめるから、胸に淡いものが滲んだ。 「実は最初、妹かと思ったんです」 「え?」 「僕には妹がいるのですが、最初見かけたとき、あなたの横顔がはっとするほど妹に似ていて驚きました。すぐに別の方だとわかったのですが、今こうやって見ると、やはり顔立ちというよりも、雰囲気、みたいなものがどことなく近い気がします」 「はぁ」 「昔から繊細なところがあって、よく癇癪かんしゃくを起こす子でした。いつも一人で悩みを抱えようとする子でしたから、僕がしつこく聞くたびに、『うるさい、お兄ちゃんなんか必要ない』と言ってよけい火がついたように泣いたり、時には自分を傷つけたりしていました。もうずっと昔のことなのですが、なんだかあの頃の彼女を見ているようで。おせっかいながらも声をかけました」 「いえ、とてもありがたかったです」  ちなみに今妹さんは、と訊く前に唇が遠慮し、動きを止めた。もし私をゆうれいとでも間違えたのだとしたら、なんとなく気軽に尋ねていいことではない気がした。  それを悟ったみたいに、彼がまた静かに口を開いた。 「今は妹も実家を出て、いい人と結婚し、ずいぶん落ち着いています」  なるほど、と私のちっぽけな頭は、めずらしくすぐにピンときた。 「じゃあ、つまり私を最初に見かけた時、その妹さんがまた何らかの理由で衝突して、家庭を飛び出してきたんじゃないかって思ったということ……?」  そうですねぇ、と彼はゆっくり微笑み、「それでは」そう小さく頭を下げすたすた歩いて行った。  あまりにあっさりとした別れにぽかんとして、私はその場に立ち尽くしてしまった。狐につままれたような気持ちって、多分こういうときに使うんだろうな、と言葉の意味をよく知らないまま茫然と思った。  そんな、無垢むくな親切心だけで見ず知らずの人を泊めることがあるなんて。  私だったら、何かしらの下心がないとそんなことできない。けれど、彼は私の体に触れてくるようなことも、そういった欲情の色すら一切感じなかった。  怪我した鳥を一晩世話して空へ帰すような、そんな感覚なんだろうか。そう思った途端、私は切なくなるでもなく、いっそう胸を熱く打ち震わせていた。そういった純真なものに、100年ぶりに触れたような思いだった。  その翌週、私は思い切って、もう一度彼のアパートを訪ねた。連絡先など知らないから、軒先で何時間も待ち続けた。出先から帰ってきた彼が私を見つけると、目をぱちくりさせて驚いていた。 「すみません、やっぱり何かお礼がしたいと思って……。これ、大したものじゃないんですけど」  私は彼に紙袋を渡した。中身はコーヒー豆で、一週間かけてなにを贈ろうか悩んだすえの品物だ。「わぁ、ありがとうございます」彼は相変わらず穏やかな顔で笑い、私は胸のときめきを再認識した。そして、 「あの、また会えませんか……?」  私は、ほぼ反射的にそう口走っていた。  それから少しずつ彼のことを知っていった。お互いコーヒーが好きで、喫茶店でのおしゃべりを繰り返した。その中でひょんな会話が発展し、私の賭けに近い大胆な申し出により、なんと彼に料理を教えてもらえることになったのだ。  週に一度、日曜日に、彼の家のキッチンを借りて料理教室を行ってもらう。お礼の気持ちを込めて、私は毎回彼が好みそうなささやかな贈り物を持参し、部屋に上がらせてもらった。  これまで食事はだいたい出来合いのもので済ませており、包丁なんてほとんど握ったこともなかったので、自分の未熟さに羞恥を覚えながらも真剣に教わった。教わりながらも、じっと熱い視線を向けてみたり、色仕掛け、とまではいかないけれど様々なアプローチを試みるも、彼はいつどんな時も淡々と教えてくれるだけだった。家の中でふたりきりだというのに、まるで高校の調理実習みたいなやりとりにしかならない清らかさに感動しながらも、しかしやっぱりもどかしくもあった。彼が包丁を握る際にうっすら筋が浮かぶ、意外と男らしい腕に抱き寄せてほしいのに、どんなに願ってもそうならないのが切なかった。  彼は、今や世話を焼くことのなくなった妹さんと私の姿を重ね、しみじみ懐かしんでいたりするのだろうか。その想いは私をやきもきさせ、いっそう恋心に火をつけさせた。  毎週贈り物選びに悩んだけど、その悩む時間すら愛おしく思えた。コーヒー豆のほか、彼はよく花瓶に一輪の花をさしているので、花を贈ることも多かった。甘いものが好きだと知って、デパ地下をうろうろしながら彼の好みに合いそうなチョコレートも探した。彼のことをひとつずつ知っていくたびに暮らしが色づき、付き合っているわけじゃないのに、彼を想うことで気持ちがなめらかになっていくような心地がした。  また彼の穏やかさが移ったみたいに、私の周りの時間もとてものんびり流れるようになった。どうして今まで気づかなかったのだろう、と疑問に思うほど、木々の緑はきらきらと生きているように目に映ったり、宇宙まで染めてしまいそうな夕焼けにうっとりしたり、日常の中にある美しいものの純粋な輝きに、心が熱くなった。  この恋は、時間をかけて大切に実らせたい。私たちはまだ出会ったばかり。焦って想いを伝え、当たって砕けるようなことはしたくない。  そう思いながら数ヶ月が過ぎた頃、例のごとく料理を教わっている最中、なぜか、私はぽろりと口からこぼしてしまうのだった。 「私、ずっと好きなんです……っ」  私というやつは、つくづく忍耐力に欠ける。思いがけず告白などしてしまったのだ。  きりきりととがった切なさが、想いを破裂させてしまった。しん、とした沈黙がごろりと転がる。耐え切れず、終わりの予感に震え私はぎゅっと目をつむっていた。  しかしあまりに返答がないものだから薄目を開くと、彼は熟れたトマトのごとく、頬を赤く染めていた。  いろんな感情を通り越して、驚いた。なんという素朴さ……! という、感動に近い驚きだったように思う。  などとほうけているのも束の間、徐々に鼓動が高鳴りだし、私は、今確かに生まれているいつもと違う甘酸っぱい空気が消えてしまう前に、さらにもうひと押し気持ちを伝えた。 「お、お付き合いしてほしいです……!」  お付き合いしてほしい、なんて生真面目な少女のような告白をしたのはいつぶりだっただろう。返答はもう少し待ってほしい、というようなことを彼に告げられ、私は毎日期待と不安に神経をすり減らしながら、おとなしく彼の答えを待った。  しかし1週間経っても連絡がなく、いつまでも経っても鳴らないスマホを握りつぶしそうになっていたとき彼から着信があった。彼が何度も「僕でいいんですか」と訊いてくるから、私はもう家を飛び出し彼のもとへと疾走した。  そうして、私たちはようやく恋人同士になったのだ。  ――そんなことを思い出しながら朝食を摂っていると、「コーヒー美味しいね」という彼の声が私を現実に戻した。  うん、と微笑み、私もコーヒーを口に運ぶ。豆の香ばしさがよく香り、ほっと気持ちが安らぐ味わいだ。  彼がいる日常には、たくさんの小さな愛おしさが刻まれている。  朝の薄青い光の美しさ。彼の体温。ブランケットのふわふわ。美味しいものを半分こできる幸せ。はちみつのようにまったりした時間。窓から覗くきらきら光る木漏れ日。彼のぼんやりした横顔。その全てを、私は心から愛している。  そうやって、彼と、彼と過ごす毎日を大切に想う気持ちが、今私の輪郭となり、存在をかたどっているように思う。  時にはぶつかることだってある。しかし、以前のように一方的に求めるのではなく、相手を思いやり、ぶつかって軋んだ部分をふたりで丁寧に擦り合わせていくことが、多分、愛というものを育てていくのではないだろうか。  この平凡なふたりの幸福な日常が、いつまでも、いつまでも続きますように。  私はこれからも、毎朝そう祈りをこめながらコーヒー豆を挽きたいと思う。 了

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