知可が無言で構えた。やっぱりキックボクシングの構えだ。頬骨の高さにガードをあげている。 (まだ、この程度か……) 里美は軽い失望と落胆を覚えた。 郷原美咲とかいう看護師に習ってからまだ日が浅いことがわかる。 構えはなんとかサマになっているが、肩や肘、腰のあたりに無駄な力みがある。これでは威力のあるパンチやキックはだせない。 (『羽衣』で充分かわせる) 里美が修めた空手――常念流空手の運足法『羽衣』を遣えば、相手の攻撃を触れずして流すことができる。 里美は自然な歩調でこちらから知可との距離を詰めた。町中で知人に逢ったかのような淀みのない動作だ。 スッシャーーッ!! 案の定、知可が歩み寄ってくる里美に右ストレートを放ってきた。 里美は踏み出した右足を軸にして鮮やかにターンした。 コットンリネンのスカートがふわりと舞う。まさしく羽衣のような身のこなしだ。 知可はたたらを踏んで小石にけつまずき、派手にすっ転んだ。 乾いた地面に頭から突っ込み砂埃が舞う。 純白の服を汚さないよう軽く跳んで里美は知可に振り向いた。 渾身の一撃をかわされ、しかもみじめに地を這わされて、さぞや悔しげに顔を歪めているかと思いきや―― 「ッ?!」 知可はこちらを向いて嗤っていた。してやったりといわんばかりの小面憎い顔だ。 「ふん!」 きっと、ただの強がりに違いない。 里美はスカートの裾を払って背を向けた。出迎えの教官たちに軽くあいさつして柵門の外にでる。 後方で門がぴしゃりとしまった。 もう振り向いてはいけない。 自分は新たな人生の一歩をこれから踏み出すのだ。 その決意を胸に桟橋の方に足を向けた、そのとき―― がくん、と腰が崩れ落ちた。 アスファルトに膝を突き、口を手で覆う。 口中に生暖かいものがあふれ、鉄さび臭い味がする。 里美はがはっとそれを吐き出した。 大量の血に混じって白い粒が地面に転がった。 折れた右の奥歯だ。 「あ…あのとき……!」 『羽衣』でかわしたと思ったあのとき、知可は肘を里美に叩き込んでいたのだ。 「あのガキ!!」 すべてはフェイクだったのだ。わざと構えに隙をつくり、相手の実力を低く見積もらせる。 その上で軌道のみえるテレフォンパンチを仕掛け、かわさせる。里美は出所しようとしているところだから、そこから攻撃に転じようとはしない。 かわした時点で一瞬の隙が生じる。そこへすかさず本命の肘を見舞ったのだ。 相手の描いた画にまんまとはまってしまった。おかげで白のブラウスやスカートは血まみれだ。提げていた白のバックにも血が飛び散り、まだら模様の染みになっている。 「くそったれがッ!!!」 朱に染まった歯をむき出しにして柵門の方にもどりかける。 だが―― 足がとまった。やっと、仮釈放を得られたのだ。もどって殴りつけたところで無駄に刑期が伸びるだけだろう。 ……もう、関係ない。なんの関係もないんだ。 そう自分にきつく言い聞かせると、里美は桟橋に向かった。 血まみれの白のスカートを颯爽と翻して……。 第16話につづく
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