その日、みどりは岡倉の住む「学園」を訪れていた。こうなったのにはわけがある。 今日は学校は早く終わったので、いつもより早い時間に二人で駅で話をしていた。来月は卒業式もあるので在校生は送る歌「贈る言葉」(海援隊)の練習がある。みどりは言う。 「うちは声ん変だけん…。ちゃーがつか…(恥ずかしい…)」 「『ちゃーがつか』?ああ、恥ずかしかってこつか」 岡倉はそうかという感じだ。佐賀と長崎はお隣だが言葉が微妙に違うらしい。 「でも、前にもいったけど、その声は武器になるよ。マジで」 岡倉は標準語に戻って言う。 みどりは、あの時はお世辞とか社交辞令かと思ったが、岡倉とよく話すようになって、この人はバカ正直で空気が読めないと女子に言われているが、その通りだなと思う。 「あいがと…」 少し照れるみどりに岡倉はとび色の目をじっと向けて言う。 「ねえ、もしよかったら歌を歌ってほしんだけど…」 「えっ、ここで?」 「いや違うよ、『学園』で」 「どがんこと?」 岡倉は語る。ここから徒歩10分の岡倉が住む『学園』には音楽室がある。そこで自分と師匠と仰ぐ職員が一緒に演奏するから歌ってみないかと。 みどりは困惑する。まず、『学園』に勝手に行っていいのかということ。『学園』は養護施設。部外者の自分がいいんだろうかと。さらに、なんだか恥ずかしい…。みどりは実は歌うのは嫌いではない。岡倉と同じロックバンドが好きだし、アニメの歌も好きだ。しかし、恥ずかしい。カラオケも行ったことはない…。 「無理ばい…」 つぶやくように言うみどりに岡倉は言う。 「じゃあ、演奏を聞いてよ。おれ、今度職員さんと一緒に児童館の催しでギターを演奏するんだ。初めてでさ、聞いてくれる人がいた方がリハになるんだよ」 岡倉は真剣だ。すごい目力だ…とび色の目でじっと見られるとすくんでしまう。 「そいなら…」 みどりはそう答えたのだった。 みどりは岡倉に連れられてそのまま「学園」にいく。学園はまさに「学園」。学校のような大きな門がある。 岡倉に「こっちだよ」と言われる。大きな玄関に行く。。そこでスリッパに履き替え、岡倉は受付のような場所で話しに行く。みどりは玄関を観察して待つ。靴箱もたくさんあるのでまるで学校みたいだ。そういえば伝之助はここでどんな生活をしてるんだろうとそんなことを思う。 やがて小柄な女性の職員さんらしき人と岡倉がやってくる。その職員さんを見てみどりは少し緊張する。なぜなら女優さんのようなきれいな人だったからだ。 「ようこそ、『学園』へ。あなたが、百武さんね。伝之助からよく聞いてるわ。わたしは時尾慶、ここの指導員です。いつも、伝之助がお世話になっています」 そう言って丁寧に頭を下げる。みどりは、焦りながらマスクを外して「こちらこそです。伝之助君にはいつもお世話になってばかりです」と赤くなって答える。焦りながらも、伝之助くんはわたしのことをこの人に話してるんだ…。変なことじゃないといいけどなと思う。 時尾さんはみどりをまじまじとながめて、「伝之助がこんなかわいい子連れて来るとはねー、あんた電話の子以外に女っけないからねー」と岡倉をからかう。「かわいい子」と言う言葉が社交辞令とはわかっていながらも、みどりは「いえ、うちはそんな…」と照れてしまう。一方で「電話の子」という言葉が自分ではない感じで少し気になっていた。 時尾さんにからかわれる岡倉はそこは冷静で「まあ、その話はどうでもいいです。で、リハはいつからにします?」と無表情で時尾に聞いている。 「わたしさ、あと1時間で上がりだから、そのあとリハをやろうよ。それまで中を案内でもしてなよ。おやつの時間だしさ。みんなもよろこぶよ」 「はい、そうします」 そう言う岡倉に連れられてみどりは施設内を案内される。中は広い。ランチルーム、プレイルーム、バスケットゴールのあるグラウンドのような大きな庭。グランドピアノののある体育館のような屋内施設。たくさんの本がある図書室、そして音楽室。まさに「学園」だ。 「ここで練習してるんだよね。ダビングもここでしてるんだ。いい機材ばかりでさ」 岡倉は音楽室を見せてくれる。大きなアンプに防音室。学校の音楽室の縮小版だ。楽器は弾けないみどりだが、なんだかわくわくする。 「ここでリハ?」 「うんそう」 岡倉は笑顔で答える。無表情が多い岡倉だが、今はなんだか自然な笑顔だ。 そのあとはプレイルームに行く。幼稚園くらいの子や小学校低学年の子が数人いる。みんなみどりのもとに挨拶に来る。みどりも挨拶をする。子どもたちはみどりの声に「アニメの声みたいだーっ」と大喜びで「なんか言ってー」とせがむ。岡倉は「みんなあんまり無理を言わないように」とたしなめるが、みどりは嫌な気はしなかったので「いいよー。なにする?」と答える。「絵本読んでー」とある子が「ぐりとぐら」を持ってくる。ここにはたくさんの絵本がある。「いっぱいあるねー」とみどりが言うと、「うん、でんおにいちゃんがいっぱいくれたんだー」と子どもたちは答える。 「えっそうなんだ」 思わずみどりは岡倉を見る。 「おれ絵本好きでさ、親父も好きで古本屋でやたらと買い集めてたんだよね。親父が亡くなって置くところがなくて、ここに寄贈したんだ。子どもの頃親父によく読んでもらって、大笑いしてたな。友人たちと一緒にね…」 岡倉は照れながらもとてもいい笑顔で言う。 「うちも絵本はすいとうよ(好きだよ)」 みどりの言葉に岡倉は何かを答えようとしたが、子どもたちは聞きなれない言葉に大興奮だ。 「お姉ちゃんはがいこくの人?」 「すいとーって、お水のむやつ?」 みんな興味津々だ。みどりは楽しくなって方言で「好き」って意味だよ。住んでる場所で言葉はちがうんだよーと教えてあげる。そのあと、みどりは「ぐりとぐら」を読む。子どもたちも岡倉も職員さんも真剣に聞いている。みどりが読み終わった後、岡倉も子どもたちも職員さんもスタンディングオベーションで拍手喝采だった。 「お姉ちゃんすっごーい。上手!」 「お歌みたい!きれーな声」 子どもたちは大絶賛。職員さんも「すごいわー。あなた声楽でもやっているの?」と真顔で聞かれる。岡倉のみはさもありなんという感じでうなづいていた。 そのあと子どもたちと楽しくホットケーキをごちそうになる。ぐりとぐらを読んだ後だったのか、みんなその話で盛り上がる。 ひと段落してみどりがトイレに立ったとき、ある小学校低学年らしい女の子が追っかけてきてじっとみどりを見あげながら聞いてくる。 「お姉ちゃんはでんにいちゃんの彼女さんですか?」 みどりは思う。伝之助くんはモテるんだな…小さい子に。学校とは真逆だと。 「違うよ。友達だよ」 「そうなんだー。じゃあ、いいや」 そういってその子はぱーっと明るい顔になる。なにがいいんだかわからないが、まあいいかとみどりは思うのだった。 やがて時尾さんが顔を出す。 「伝之助ーっ、準備OKだよ」 「えっ、セッティングしてくれたんですか?ありがとうございます。じゃあ、いこうか」 みどりは岡倉に先ほどの音楽室に案内される。 ピアノのイスが用意されていて、時尾さんが「こちらへどうぞ、お客様」と笑顔でイスに座らせてくれる。 じゃあ、やろうかと時尾さんはキーボードに向かう。 「今日はシンセサイザーでいくね。リズム隊は打ち込みで。伝之助はギター、いいね」 「はい」 岡倉はゆっくりと漆黒のギターを構える。なんだかかっこいいと純粋に思える。演奏が始まる。すごい音量だ。ヘッドホンとは大違い。岡倉とみどりの大好きなあのバンドの曲だ。目の前の岡倉は無表情で弾いているというか刻み続ける。岡倉はギターソロもこなす。ロボットのように正確な動きだ。 演奏が終わるなり、みどりは立ち上がって拍手していた。 「がばいすごかー!(とってもすごいー!)」 目を輝かせて思わずそういうみどりに時尾さんは「伝之助なんて答えたらいい?」とニコニコして聞く。 「『あいがと』もしくは『どーも』ですね」 「じゃあ、『あいがと』。みどりさん」 「『どーも』みどりさん」 時尾さんと岡倉は頭をペコリと下げる。 「伝之助は初デビューだね」 時尾さんの言葉にみどりは驚く。 「伝之助くんって、これがデビューなの?こんなに上手いのに?」 「そうだね。お客さんに聞いてもらったのははじめてなんだよね…。まだまだおろいかよ(未熟だよ)」 「そげんこつなかよ。がばいすごか」 長崎・佐賀弁で話す二人を見ながら時尾さんは「伝之助、通訳してねー、ってそうだ、あれやろうよ。みどりさん好きなんでしょ。リハに付き合ってくれたお礼にさ」と笑顔で言う。 「えっ、あれですか…そうですね。やってみますか」 時尾さんと岡倉が何か話しているのを不思議そうに見ているみどりに時尾は言う。 「みどりさん、よかったらもう1曲聞いてくれる?」 「えっ、いいんですかー」 みどりはもう1曲と聞いてうれしくなる。先ほどの演奏がなんだかすごく楽しかったのだ。 「じゃあ、伝之助いくよ!」 「はい」 演奏が始まり、イントロですぐにみどりはわかった。その曲はみどりが大好きな曲で、とある特撮ヒーローもののエンディング曲でもあった。岡倉に「卒業生に送る歌はこっちがいいのに」と言ったことを思い出す。みどりは思わず口ずさんでしまう。やがて口ずさむのではなく歌っていた。立ち上がって歌っていた。 やがて演奏が終わる。立ち上がったままぼーっとするみどりに時尾が声をかける。 「みどりさん、あんたすごいね。素晴らしい声の質、声量と音域もすごい!伝之助から聞いていたけどここまでとはねー。たいしたもんだ」 時尾さんは笑顔ではなく真顔でそう言う。 「そんな、うちはアニメ声ですけん…」 顔をふせてそういうみどりに岡倉はきっぱり言う。 「そうだよ。アニメ声さ。でもねそこがいいんだ。いったろ、そこはステキだって」 「いや、うちは人前で一人で歌うの初めてですけん、なんて答えたらよかかもんか…」 そう言って恥ずかしような困るようなみどりに時尾さんは言う。 「そっか、みどりちゃんも今日がデビューだね」 「そうか、そうだよね。みどりさんも人前で初めてって言ってたし」 岡倉も同調する。みどりははっとして一人ごとのように言う。 「そうか…うちもデビューばい」 気づいて驚いているみどりに岡が声をかける。 「そうだよ。どうだった?みどりさん!」 「がばいよか!」 みどりは満面の笑みで答える。すかさず時尾さんが岡倉に聞く。 「伝之助、通訳はー」 「最高と言うことです」 うれしそうに答える岡倉に再び時尾さんは聞く。 「であんたは?」 「いじでよか!」 「通訳ね…」 「最高ということです!」 岡倉は大きな声で答える。 「二人の世界もいいけど、わかる言葉でお願いね!」 そのことばに3人は大笑いしたのだった。 帰りは駅まで岡倉が送ってくれる。道すがらみどりは岡倉に聞いてみる。 「伝之助くんは、ギターがばいうまかね。ノーミスだし、うちひとりやから緊張せんかったん?」 「いや、まだまだだよ。それに緊張はした。でもそれは演奏が始まる前まで」 「そうなの?」 「うん、そんな感じだった」 岡倉は語る。始まってしまえばその瞬間しかない。過去も未来もない。ただ「今」という瞬間がそこにあるだけ。『今は今の自分がなんとかするしかない』って感じだったな」 岡倉の言葉にみどりは自分もそうだったと思う。なんだか自然に歌ってしまい、その瞬間を楽しんだ気がした。 「そうばいね。今は今の自分がなんとかするしかないけんね。伝之助君はよかこつ言うね。何かの名言?」 「いや、ある外国の名言をおれがアレンジしただけなんだ」 「そうなんだ。でも、いい言葉ばい。気に入っちゃった」 そんな話をしながら駅に着く。 「伝之助くん、そいぎー」 「そいぎんた、みどりさん」 そう言って二人は別れる。いつの間にか「みどりさん」「伝之助くん」に呼び名が変わっていることに気づかない二人だった。