深夜のチョコレート
3.五度目の正直

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 彼と再会したのは大学三回生の初夏、アルバイト先でのことだった。  海辺のレストランの繁盛期直前、大量に採用された学生の中に彼はいた。「よーっ溝上」と言って笑った頬には変わらないえくぼが浮かんでいた。  一度は故郷を離れたが、新設されたキャンパスに学部が移動することになって、実家に戻ってきたそうだ。  二日に一度はバイト先で顔を合わせ、私は旧友らしい距離を保ち続けた。毎夜男友達とつるんでいるところを見ると付き合っている女性はいないようだったが、小学生の頃から変わらない人懐っこい笑顔で男女問わずモテる人だった。  そしてついに今年、五度目の正直に賭けることにした。  この私が手作りチョコなど渡すのだ、本命じゃ重すぎる。義理チョコで受け取ってくれれば幸いだ――と考えた末、ダミーのチョコレートも作ることにした。  彼に渡す本命チョコと先輩に渡すダミー。中身は同じだが、個数が倍違う。彼と先輩が同時に開封して数比べをすることを避ければ問題ないと、知恵をふりしぼった。  深夜0時、口から飛び出しそうになる心臓を飲み込んで、彼に小箱を渡した。  目を丸くして私を見つめる彼に、いっぱいあるうちの一つだけどね、なんて素振りでダミーの小箱も見せた。彼は「なあんだ勘違いするだろ」と言ってふざけた様子で私の肩を叩いた。  振れた肩が燃えるように熱かった。  作戦は万事うまくいくはずだった。自分の中で特別感があれば十分なのだ。彼がいるところでダミーの小箱を先輩に渡せばミッションクリアのはずだった。  一緒に仕事を上がるはずの先輩の姿がない、おかしい、と探していると、彼は制服姿のままホールで動き回っていた。  体調不良で欠勤した学生の代わりに、勤務時間の延長を命じられたらしい。  渡すはずだったダミーの小箱は持ち帰るほかなく、彼に渡したチョコレートは正真正銘の本命に格上げされた。  一人勝手に気まずい空気の中、彼と従業員室を出る。立待月の夜空を見上げて彼が白い息を吐く。 「あれ……誰に渡すつもりだったんだ?」  彼の言わんとすることはすぐにわかった。さすがの私もそこまで阿呆ではない。 「あれ……はねー……ええっとー……」 「上条先輩とか?」  眉を下げて言ったその言葉に、思わず首をふってしまった。横にぶんぶんふり回してから、いったい何をやっているのだと後悔した。 「違うの?」 「……違うっていうか女友だちにあげようと思ってたというか……」  思ってもない言葉がつらつらと飛び出す。こういうときに限って口がよく回るから困る。耳たぶが燃えるように熱く、思わず両手で隠した。 「じゃあ男でもらったのって、俺だけ?」 「事実としてはそういうことに……」  彼がどんな顔をしているのか見るのも怖くて、目を反らし続けた。いつもの交差点にたどりついて、彼は「じゃあな」と離れていく。  私は信号を渡るのも忘れて彼の背中を見つめた。黒いジャケットが雑踏の中に消えていく。  ミッションは遂行できなかったが、ともかくも彼に渡すことができた。明日もいつも通りバイト先に行ってキッチンにいる彼から料理を受け取る。  それだけのことだ――  駅に着いた私は電光掲示板を見上げた。最終電車まで二十分以上ある。暖房のついた休憩室に入って腰を下ろす。  ふとトートバックに入った小箱が目に入った。先輩に渡すはずだった例のチョコレートだ。地味なその小箱を見ていると腹の虫がなった。無性に甘いものを口にしたくなってリボンを解く。  中には小さな銀紙におさまったチョコレートが四個入っている。本命の彼の箱には八個入っている。そのことを知っているのは私だけだ。  つまらない意地だが、渡せただけで十分だ。これは自分への褒美として食べてしまおう。  銀紙を外して不細工なチョコレートを口に放りこむ。溶かして固めただけなのだ、味の保証はある。なのに――  ひとつ食べても、ふたつ食べても、チョコレートは涙の味しかしなかった。  高校三年生の冬、友人が彼に渡すはずだった手作りチョコと同じ、わずかな塩味――  鼻の奥から逆流してくる涙をこらえながら、どうしてダミーなんか用意したのだろうと思った。素直に本命チョコだけ作って、ちゃんと告白すれば彼はどんな反応をしてくれただろう。  想像するのも怖いなんて、本当に情けない。  待合室に人がいるのに涙がこぼれ落ちてしまった。恋に真剣だった友人が渡せなくて、ごまかした私が渡せてしまったチョコレート。  あれだけモテる彼なのだから、もっと立派で素敵な本命チョコをもらっているに決まってる――  私はアレルギーで目がかゆいんですと言わんばかりに目じりをこすった。  またひとつチョコを口に入れる。深夜のチョコレートは口腔にしみわたって、胸の痛みを呼び覚ます――  その時、ポケットの中で携帯電話が振動した。涙でみじめに濡れた指をぬぐって画面を見る。  着信:大谷  やっぱりあんなもの受け取れないんだろう、と思いながら震える指で画面を押す。 「……もしもし」 「溝上、今どこ?」 「どこって……終電待ってるんだけど」 「今からそっち行っていい?」  彼の言っていることが理解できず、私は「はあ?」と声を上げる。 「大谷君を待ってたら、終電逃すんだけど」 「そうなったら朝まで付き合ってやるからさー」 「何言ってんのよ!」  思わず声を荒げてしまい、冷たい視線を投げられた。膝の上に乗せていた小箱をトートバックに放りこみ、あわてて待合室の外に出る。 「あ、おまえ今やらしいこと考えてたな。駅前のファミレスに決まってるだろ」 「どっちだって同じことでしょ! どうして待たないといけないのよ」  駅のホームではもうすぐ最終電車が着くというアナウンスが鳴っている。もしかするともう近くまで来ているのかもと、携帯電話を耳に当てたままあたりを見回す。 「電話でもいいかなって思ったんだけど、やっぱり顔見て言いたいからさ」 「……何を?」  膨張した心臓が全身を支配するように鳴り始める。ホームに駆け込んでくる人の波を見つめながら、耳に神経を集中させる。 「おまえにチョコもらったの、嬉しかったから」  その言葉を聞いた瞬間、私の心臓はぎゅっと縮んだ。彼の言葉をどう受け止めればいいのかわからなかった。ただうなずいて、携帯電話のスピーカーから聞こえる街の音に耳を澄ませた。 「すぐ行くから、待ってて」  私が返事をするのも待たず、通話は切れた。熱を帯びた携帯電話を握りしめたまま立ちつくす。  最終電車に乗る人の群れが背中を押し始める。私はあわてて列の外に飛び出した。ホームにいた人たちがみな電車の中に吸い込まれる。笛をくわえた車掌が訝し気な目で私を見つめてくる。  首を横にふった。車掌が笛を吹いて、電車は静かに発車する。  人生で初めて最終電車を逃してしまった――白い息を吐きながら、去っていく電車のライトを見つめた。左手の中には最後のチョコレートが残っている。  地下街を歩きながら深夜のチョコレートをかみ砕く。やっぱりそれは涙の味しかしなくて、古傷にピリピリと染みこんでくる。  そのとき、地上に続く階段の端に黒いジャケットが見えた。またしてもアナウンスが流れる。駆け下りる人たちの流れに彼の姿が隠れる。私は必死なって流れに逆らい、何度も彼の名前を呼ぶ。  届かない、行ってしまう。けれどもうあきらめたりしない。 「大谷君!!」  私は叫んだ。爆発しそうな心臓を押さえて階段を駆け上がる。  彼がふり返った。頬にえくぼを浮かべて手を上げる。  立待月の下、私は涙をぬぐって大きく手をふった。

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