日が傾き始めた頃、新一と秀美は二人で稲毛の床枝家を訪れた。 まつの屋は老舗らしく、歴史を感じさせる造りのお店だった。店の後ろ側に二件の家が並び、家と家の間に境界はなかった。一つの大きな土地に三つの建物が建っているという感じだ。向かって右の家の表札は床枝。左の家は川島とある。 「なんか違和感あるでしょ? あたしは慣れてるけど、川島家とうちは親戚なの」 そう言いながら秀美は床枝家の呼び鈴を鳴らした。 「叔父さん達は今日、出掛けているって言っていたから、今いるのはお婆ちゃんだけ。新ちゃん、緊張しなくていいからね」 秀美ちゃんはそう言ったが、やはり緊張してしまう。 玄関に現れた松子さんは、新一に丁寧にお辞儀をして、二人を招き入れた。その瞬間、ふわっと潮の香りが辺りに漂ってきた。いやそう感じた気がした。 「ここは海に近いのかな」 独り言を言ったつもりだったが、松子さんは新一を見てにっこりと微笑んだ。 通された部屋は昔ながらの和室だった。床の間があり、部屋の中央に長いテーブル、畳の上には大きな座布団が置かれている。 新一は緊張していた。まがりなりにも、大好きな女性のお婆さんだ。しかも元教師。粗相は禁物だ。きっちりと正座をして、背筋をピンと伸ばし手は膝の上に…… 「新ちゃんおかしい。そんなに緊張したら変だよ」 秀美は首を傾げ、新一を仰ぎ見て笑った。 畜生。なんて可愛いんだ。 「新一さん、脚を崩して下さいな。今日はゆっくりご飯も食べて行ってね」 そう言うと松子は一冊の古いアルバムを開いて新一の前に置いた。 左右の頁に一枚ずつ貼られているモノクロの写真は、長い時を経てセピア色に変色していた。右の頁には校舎のような建物をバックにしてモンペ姿の若い女性が大勢並んで写っている写真。左の頁には二人の女性が写っている写真。たぶん女学生だろう。今で言えば高校生くらいだろうか? 皆、服の胸には名前の書かれた布が縫い付けられている。 「これって……」 それは写真でもはっきりと読み取ることが出来た。二人で写っている写真。右の子は渡辺、そして左の子は松野。写真の下には【昭和二十年六月 仲良しの敏子ちゃんと】と記されている。 「そうです。松野美代子。私の母が女学校の時の写真です。若い時のものはこれだけです」 「やっぱり……綺麗な人ですね」 この人があの手紙の主。この写真を撮った一カ月後にあの手紙を書いたのだ。相良君に宛てたあの手紙を見たから、僕は助かった。美代子さん……ありがとう。 「隣の渡辺という子は母の親友ですが、昭和二十年七月の空襲で亡くなったと聞いています」 そう言うと松子はアルバムを閉じて、立ち上がった「お茶でいいかしら? もうすぐお寿司が来るので、脚を伸ばしてくつろいでくださいね」 「七夕空襲ですね。祖父の親兄弟もその空襲で犠牲になったと聞いています」 「そうでしたか。戦争なんてするものじゃないですね」 松子さんの言葉、戦後生まれといえ当事者の言葉は心に響く。 「松子さん。一つ、教えて頂けないでしょうか?」 「何でしょう?」 「秀美さんから、美代子さんは未婚の母だったとお聞きしました。松子さん。貴女の父親は相良少尉ですか?」 「えっ?」 驚いたのは秀美だった。 「はい。新一さん、本当にありがとうございます。貴方がいなかったら私は産まれていません。勿論、春菜も秀美も」 「えっ? お婆ちゃん、今なんて……どういう事?」 松子は驚いている秀美に向かって軽く微笑んでから続けた「相良秀則という海軍少尉が私の父だという事は母から聞いていました。でも空港でそれを、あなたたちに伝える事はできませんでした」 「やはりそうでしたか」 新一の予想は当たっていた。 松子さんが空港でその事を伝えられなかったのにも、理由がある。そうしてしまうと多分、歴史が変わってしまうのだ。 「終戦間際、想いを寄せていた人が逢いに来てくれた。そして、その時に私を授かったのだと母から聞きました。父について私が知っている事はあまりありません。W大学の学生で、学徒出陣で海軍にいった人。回天という特効部隊で命を落とした事。それくらいです。これは後でお見せしようと思っていたのですが」 一旦、立ち上がった松子だったが、そう言うと再び新一の前に腰を下ろし、懐から一通の手紙を取り出した。 「これは父が出撃の当日、母に宛てて書いた手紙です」 新一は震える手でそれを受け取った。
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