えっ! 倒れる? 次の瞬間、新一の頭は、何か柔らかいものに当たり、そのまま倒れこんでしまった。 どうしたんだ。何があった? 女の子? 新一は女の子を抱えていた。 「美緒!」 数メートル先を歩いていた両親が慌てて駆け寄ってくる。 「大丈夫、大丈夫ですよ。お子さんにお怪我はありません」 秀美のその言葉に両親は安堵の表情を見せた。 状況が、見えてきた…… 新一の後頭部は秀美ちゃんの身体によって守られたのだ。二人共、尻もちをついていたが少し腕を擦りむいただけで大した事は無い。美緒と呼ばれた幼女は泣きながら母親に抱きついている。 「本当にありがとうございます。お怪我ありませんか?」 父親だろう。 「その傷……大丈夫ですか?」 女の子の父親は新一の腕についた擦り傷に目をやった。 「こんなの何でもありません」 そう言って新一は秀美ちゃんの手を取って立ち上がった。 「本当にすみません。何かありましたら、ここにご連絡ください」 そう言うと彼は新一に名刺を渡した。そして夫婦は深々と頭を下げ、その場を立ち去った。 貰った名刺には幸洋自動車、係長、高野潤一と印刷されていた。 「秀美ちゃん。どうして……何があったの? 戻れたんだ。それとも……すべてが夢? まさか夢オチ?……」 ほんとに?……あれは終戦間際の大津島……夢だったのか? 「新ちゃん! 新ちゃん! よかった! ほんとだった。お婆ちゃん。ほんとだったよ」 秀美は泣きながら新一を抱きしめた。 「秀美ちゃん、何があったの? 僕はここで、あの子を助けようとして頭を打った。そして意識が……もしかしたら死んだのかもしれない。でも、こうして今ここにいる。あれは夢じゃなかったのかな」 「新ちゃん、わたし今朝、空港でお婆ちゃんから手紙をもらったの」 「手紙?」 「うん……それがとっても不思議なの。その手紙、お婆ちゃんから受け取った後、直ぐ忘れちゃって。さっき、記念館でトイレに行ったでしょ。その時、急に思い出して読んだの」 「えっ? 秀美ちゃん、記念館でトイレには行ってないよ」 「えっ?」 「あ、うん続けて」 「それで、そんな事あり得ないって思って、でも……記念館を出たら、また手紙の事もその内容の事も忘れちゃって」 秀美の目から大粒の涙が流れだして頬を伝った。 「うん、いいから、ゆっくりでいいから」 「うん、ありがとう。それでね、今、新ちゃんとお話してたでしょ。話をしてる途中でさっきの女の子が見えて……それでまた急に手紙の内容を思い出して……」 秀美は声を出して泣いた。 何だ? 何かが違う。秀美ちゃんは記念館でトイレに行ってない。それに、女の子が転びそうになった時は話の途中じゃなかった気がする。 「秀美ちゃん、変な事聞くけど、記念館を出た後、僕達は何を話した?」 「え? うん、お爺さんの事とか……その話の途中で……」 「爺ちゃんの話の途中で?」 「うん」 「爺ちゃんの話はしたと思うけど、その先は? 矢野川さんの事は?」 「え? 新ちゃん矢野川さんの事知ってるの? まだ話してないよ。これから話そうと思ってて」 「ねえ、秀美ちゃん、その手紙って見せてもらえる?」 「えっ? あ、そうだよね、なんでだろう。わたし、テンパッちゃってて……お婆ちゃんから、絶対にこの手紙の事は口外しちゃいけないって。でも新ちゃんは当事者だから、いいはずだよね」 秀美は新一にその手紙を渡した。 それは経年変化を経て茶色く変色していた。乗り物の中で書かれたのだろうか? 達筆だが、ところどころ文字が躍っている。 新一の手が震えた。これって相良君……相良君だ。 ありがとう……この手紙を、今、この時の為だけに、新一を助ける為だけに、松野家が受け継いできたのだ。 マツコ様 ヒデミ様 この手紙を手にしている貴女はさぞかし驚かれている事でしょう。 今現在、この世にまだ生を受けていない貴女方に、こうして手紙をしたためている自分が不思議です。 貴女方は必ず受け取ることが出来ると信じ、この手紙を美代子に託します。 如何なる対価も無く、ただ、ただ唐突なお願いのみを申し上げる私をお許しください。 マツコ様。どうか、どうかこの手紙を将来、貴女のお孫さんであるヒデミ様にお渡し下さい。 令和五年七月十日。ヒデミ様は新一という人物と共にハネダ空港に現れます。山口県の大津島に行く為です。 新一は大津島にて事故に遭います。信じ難い事ですが、その事故によって、彼の意識が私の意識の中に入り込みました。その事により今、歴史が変わろうとしています。柳原賢一一飛層とその末裔がこの世から消滅してしまいます。また、不確定要素ではありますが、貴女方にもその被害が及ぶ可能性があります。 歴史を変えない為、柳原賢一の末裔を救う為、どうか、どうかその事故を回避する手立てをこうじていただきたくお願いします。 新一とは柳原一飛層の孫であり、私の友人であります。 何卒、何卒よろしくお願い致します。 ヒデミ様。貴方と新一は令和五年七月十日、十四時前後、回天記念館を見学した後、地獄の階段付近にて、黄色い風船を飛ばしてしまった幼女を助けようとして、事故に遭われます。事故と言っても、新一が幼女を抱えて倒れてしまうというものです。幼女はつまずいて転倒しそうになったようですが、その時の新一の転倒を阻止していただきたい。それだけで、歴史は修正されると推測します。重ね重ね、お願い致します。 最後に、日本、そして貴女方の未来が平和で幸ある事をお祈り申し上げます。 昭和二十年七月十二日 零式輸送機内にて。 大日本帝国海軍 少尉 相良秀則 マジか……相良君。行ったんだ。美代子さんのところに行ってくれたんだね。 自分が元の世界に戻れたことがそれを証明している。あの仮説に間違いは無いはずだ。相良君……本当にありがとう。 新一の涙が頬を伝わり手紙の上に落ちていった。 「秀美ちゃん。ありがとう。何て言ったら……命の恩人だよ。お婆さんにもお礼を言わないと」 「本当なんだ、本当の事なんだね。ねえ、新ちゃん。この人、この相良って人はどうなったの?」 「そうだ、相良君。ねえ秀美ちゃん。まだフェリーの時間大丈夫かな?」 「あと二十分位なら大丈夫」 「もう一回、記念館に行きたいんだけど、いいかな? 相良君の事も手紙の事も、後で全部話すから」 「うん」 秀美は新一の腕にしっかりと自分の腕を回した。 やっぱり……相良君は出撃したんだ。 新一にとっては昨日見た写真、その時と同様、相良少尉の写真が同じ場所に掲げられている。 回天隊として命を落とした者達の写真。ついさっきまで同じ時間を共有していた人物が、七十八年前の写真としてここに飾られている。 「相良君は、この手紙の二日後、ここ大津島から回天隊として出撃したんだよ。爺ちゃんと一緒に。やっぱり、やっぱり出撃したんだ」 相良君。いろいろ……ほんとにありがとう。君の死は、君たちの死は無駄にしない。戦争の悲惨さはちゃんと後世に受け継ぐ。だから、ゆっくり休んで……
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