昼過ぎから急に、殴りつけるような強い雨が降り始めた。 庭のしだれ桜の枝は、まるで怒り狂ったかのように右へ左へと揺らいでいる。台風でも来ているのか? まだ梅雨が明けていないから雨は仕方ないが、この風はひどい。 ニートの新一にとって、日々のお天気などどうでもいいことであったが、先日借りたDVDの返却が今日までだ。 新一は母親に電話を掛ける為にスマホを手に取ったが、すぐに考え直してアクアの鍵を探した。DVDを返しに行くだけだ。母親との約束(スコットを買ってもらった時の条件)で、再就職するまでは、私用で車を使う事を禁じられている。だが今日は緊急事態だ。 バス停は家から歩いて一分の距離だし、朝は渋滞が激しいという理由から、母親は普段、公共の交通機関を利用して通勤している。父親も自分の車、クラウンを持っているが、車で通勤しているので、家にクラウンがある事はほとんどない。念のためガレージを確認すると、やはりブルーのアクアのみが停まっている。 ダメだ、何処を探しても鍵が見つからない。母さんが持ち歩いているのか?「クソッ」少し毒づいてから新一は今日三本目の缶珈琲を開けた。その時、テーブルの上に置いたスマホが振動した。見ると母からのラインである。 【凄い雨と風(泣)蘇我着18:48 迎えに来て頂戴。アクアの鍵は冷蔵庫の横】 なんだよ、鍵あるのかよ……新一はDVDをバックに入れてアクアに乗り込んだ。 蘇我駅のロータリーは予想通り、駐車車両で埋まっていた。この駅は乗降客数に対して駅もロータリーも小さすぎるのだ。案の定グルグルと数回ロータリーを廻る羽目になったが、四週目でなんとか母親の姿を見つけ、急いでハザードランプを点滅させて停まった。 えっ、床枝さん? 何で彼女が一緒なんだ? 「床枝さんと一緒なの?」 「今、偶然ここで会ったのよ。いいから、後ろつかえてるから早く出して」 母親は助手席、床枝さんは後部座席に乗り込んだ。 「ありがとうございます。あの……ほんとに送って頂かなくても……」 バックミラー越しに頭を下げる床枝さんが目に入った。雨に濡れた髪が艶めかしい。 「いいのよ。あんなところでバス待っていたら、ずぶ濡れになっちゃうわよ。いつもお爺さんがお世話になってるし、遠慮しないで」 そう言うと、幸恵はダッシュボードからタオルを取り出して床枝さんに渡した。 「秀美ちゃん、これから夜勤だって。偉いわねえ、ニートの誰かさんとは大違いね」 「なんだよ。迎えに来させておいて嫌味かよ。ニートじゃなくて就活中だよ」 「何でもいいから、早く働いて私に楽、させてよね」 ホームに着くまで、ずっと母親と床枝さんは仕事の話で盛り上がり、新一が口をはさむ余地は無かった。 床枝さんをホームに送った後、母と二人で県道沿いのラーメン屋に入った。 ホームの面会時間は過ぎていたので爺ちゃんに会っていく事はしなかった。床枝さんは大丈夫だと言ってくれたが、母は丁寧に断っていた。同じ看護師としてルールを破る事に抵抗があるのだろう。 そこは初めて入るラーメン屋だった。夕食時にもかかわらず先客が一組しかいないので心配したが、思った以上に旨い。昔ながらという感じの味だが、行列のできるラーメン屋にも引けをとらないだろう。 小さな間口に色褪せた赤いのれん。店は昭和の作りそのもので、ビニールのテーブルクロスがレトロ感を醸し出している。 店のオヤジはかなり年配で、禿げ上がった頭に、ねじり鉢巻きをしている。同年代の女性と二人でこの店をやっているようだ。たぶん夫婦だろう。 百メートル程先には、いつも混んでいる大大丸麺というチェーン店のラーメン屋がある。それでこの店は空いているのか。明らかにこの店の方が大大丸麺より旨いが、こういう事があるから自営業というのは恐い。でも、こうして母親に連れてこられなかったら、新一も一生この店に入る事は無かっただろう。 「ここ旨いね」 「でしょ。昔よくお父さんと来たけど、変わってないわね」 「へえ、どの位前?」 「初めてきたのは二十年以上前ね。あんたが産まれる前」 「マジか……」 その当時のままなのだろう。レトロ感満載だ。壁にはプレミアがついているのではないかと思うほど年期の入ったポスターが貼ってある。浜辺でビキニの女性がビールを持ってポーズをとっている宣伝ポスターだが、新一はその女性を見たことが無かった。いったい、いつの時代のポスターだ? 「そう言えばお爺さん、ラーメン好きだったから、まだ医院をやっていた頃はこの店にも来ていたと思う。お爺さんの医院はこの近くだったのよ。奥さんは私がお父さんと結婚する前に亡くなっていたしね」 そういえば爺ちゃん、家にいた時よくラーメンを食べていたかも。 「爺ちゃん、もうそんなに長くないよね……」 「そうね。この前、高松先生と話したんだけど、お爺さんBUNとCREの数値が高いの。貧血もあるし腎臓ね。透析って手もあるけど、お爺さん拒否したわ。自分も医者だからよく分かっているのよ。あなたお爺ちゃん子だから、辛いだろうけど覚悟はしておきなさい」 「だよな。爺ちゃん九十七だし、もっといろいろ話しておけばよかったよ」 取りあえず早急に大津島に行っておこう。そして、爺ちゃんに戦争の時の話をもっと聞いてみよう。 「親父には言ったんだけど、俺、大津島の回天記念館に行ってみようと思ってる」 「お父さんから聞いた。お前も大人になったね。泣くよ~」 「親父もそう言ってた。母さんも行った事あるの?」 「あるわよ。お父さんと結婚したばかりの頃だから、まだお爺さんが医院をやっていた頃ね。お父さんは二回目って言ってたわね」 俺だけ爺ちゃんの事は何も知らなかったんだ。俺が戦争なんて馬鹿みたいだって言ってたから爺ちゃん、気を使って俺には何も話さなかったんだ…… ふと思った。ホームでもラーメンってでるのかな? 出たとしてもそんなに旨くないだろう…… 「なあ母さん。爺ちゃんをここに連れてきて、ラーメン食べさせてやる事ってできないかな?」 「そうね。考えた事無かったけど、食べさせてあげたいわね。お爺さん医者だし、高松先生は許可してくれると思うけど車椅子ごと乗せられる車、借りられるかしら。お店にも聞いてみないと」 難しいか…… 「それにしても、久々に旨いラーメンだったよ」 気が付くと、先客はいつの間にかいなくなり、店の客は新一達だけになっていた。 今日はいい店を見つけた。今度、床枝さんを誘ってみようかな。お世辞にもお洒落な店とは言えないが、ここなら気を張らずに誘えるかもしれない。 「あんた、秀美ちゃんを誘ったりしちゃダメよ。彼女からみたら、あんたは患者の家族なんだからね。私ともお友達だし、嫌でも断れないでしょ」 エスパーか! 大津島の件、床枝さんから聞いたのかな…… 「彼女、なんだかあんたの事かっているみたいだけど、あんたニートなんだからね。もし、誘いたいなら、ちゃんと就職してからにしなさい」 「わかってるよ。床枝さんに何か言われたの?」 頭の中でまた警報が鳴り始めた。そうだ、彼女はホームの看護師だ。母さんとも仲がいいみたいだし、俺に対しての態度は社交辞令って考えたほうがいい。でも、待てよ……大津島に一緒に行きたいって言ったのは床枝さんだ。 「あんたいい人だって」 「いい人ね……それは昔から良く言われたよ」 「あの子絶対モテるわよ。あんなに美人なのに性格もいいし」 「ああ、そうだろうね」 「新一、あんた秀美ちゃん好きでしょ」 「なんだよ、急に」 「あの缶珈琲の秘密知っているんだからね」 「えっ?」 「まあ、それはいいけど、頑張りなさい。彼女もまんざらじゃないみたいだけど、ニートなんて誰が聞いたって興ざめよ」 「床枝さんが興ざめだって言ったの?」 「あの子は優しいからそんな事言わないけど、当たり前でしょ!」 「ああ、わかってるよ」 会計を済まして店を出ようとした時、店のオヤジに呼び止められた。 「あの、間違っていたらすみません。おたく、昔その先で病院をやっていらした柳原先生のお身内の方ですか?」 「えっ?」 「あっ、すみません、先程のお二方の会話を女房がちょっと耳にしたみたいで」 「あっ、はい。柳原は義父で、この子は孫ですが……」 「やっぱりそうでしたか。もしよかったら、お手間は取らせませんので、少しだけ話をさせて頂けませんか」 店のオヤジは鉢巻きをとって丁寧に頭を下げた。 佐藤と名乗ったその老夫婦は、まだ八時だというのに早々と、のれんを外して二人を先程と同じテーブルに案内した。 佐藤さんは爺ちゃんを良く覚えていたのだ。先程の新一達の話を聞いて、是非、柳原先生にラーメンを食べさせてやりたいから、協力させてくれという。 佐藤さんが脱サラしてこの店を始めたのは三十年程前で、最初の数年は客足も鈍く赤字続きだったようだ。爺ちゃんはその頃、たびたびこの店を訪れていたという。当時、佐藤さんの子供達はまだ中学生で、生活は決して楽ではなかったようである。 その頃、奥さんが鍋の熱湯を被り、左腕に大やけどを負ってしまうという出来事があった。その時、近くだからと言って毎日往診して治療をしたのが爺ちゃんだった。爺ちゃんは、出世払いで構わないと言ってほとんど治療費を取らなかったのだそうだ。 一年後、佐藤さんはなんとかお金を作って治療費を支払いに行ったが、爺ちゃんは受け取らなかった。何回もタダでラーメン食わせて貰ったから、もう充分だと言ったそうだ。 その後、店も軌道に乗ってきたので、ちゃんとお礼をしたいと思っていたのだが、いつの間にか爺ちゃんは病院を閉めて引っ越してしまい、それっきりだという。 ずっと頷きながら佐藤さんの話しを聞いていた母親が口を開いた。 「その頃、義理の父は腰を痛めてしまい、私達夫婦と同居することにしたのです。それを機会に病院を閉めたんです。元々、一人で無理してやっていた病院だったので、私達からもお願いしました」 「そうだったのですね。柳原先生、今はどちらに?」 「この先のさくらホームです」 「分かりました。許可さえ頂ければ、後の段取りは私達にお任せ頂けませんか」 佐藤さん夫婦は揃って頭を下げた。 「いや、でもそんなに大袈裟にしなくても、出前してもらえばいいのでは?」 そうだよ、なんで気が付かなかったんだ。新一は自分で言って自分で気がついた。 「そういう事は禁止されているのよ。病院に入院している患者さんは出前とれないでしょ。それと一緒よ」 「なんだ、ダメか」 「それに、出来る事なら、このお店で食べさてあげたいわよね」 佐藤さんと相談し、近いうちに段取りをつける方向で一致した。 家に帰ってすぐシャワーを浴びた。風呂から出て冷蔵庫を開けると缶酎ハイが入っている。 「母さん。缶酎ハイなんか飲むの?」 親父は昔からビールしか飲まないし、母親はほとんどアルコールを口にしない。 「それ、貰ったのよ。誰も飲まないから、あんた飲んでいいわよ」 「じゃあ貰うね」 風呂上りだと缶酎ハイもうまいな。まてよ……何か忘れている気がする…… あっ、DVD……畜生、延滞だ。
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