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***  川沿いの森に潜んで進むこと2日、とうとうゲニムを目前にした河まで着くことができた。だけど天気はあいにくの雨。  晴れでもバケツをひっくり返したみたいに降るこの島の雨だけど、今日は空も薄暗い。  雷鳴も激しく轟いて、ドラムとか太鼓とかって悠長なレベルじゃない。知らない人に窓をドンドンと叩かれてるみたいな差し迫った恐怖を感じる。  雨が川面を砕くように打つ様子も滝壷みたいで恐ろしさしかない。 「さすがにこれでは止したほうがいいだろうな」 「雷、すごいね……」 「お前が来てからはここまで鳴ったのは初めてかもな」  割れるような轟音は、頭上を掠める爆撃機を思い起こさせる。こんな天気の時はそれも来ないから、ある意味じゃ一番平和で、安全ともいえる日。それだけが救い。  向井さんと山根さんの携帯天幕で、寝袋を3つ覆える屋根を作った。雨でもこれのおかげで凌ぎやすさが全然違う。  激しい雨で垢を落として、不格好なざんばら坊主頭を洗う。昇さんと阿久津さんは天幕の向こう側で。  だからって完全に脱げるわけじゃないけど、できるだけ丁寧に服の中を擦り流した。  こんなにサッパリしたの、何日ぶりかな。4月の25日にここへ来て、もうGWも終わるって頃なのに、軍服に着替えた日以来な気がする。  というか、そのあとの毎日は、いつ、何をしたかなんて憶えてないんだ。  歩いて、食糧を獲って、食べて、寝る。ただそれだけを必死に繰り返してきた。  その間に、仲間を亡くした。  憶えてるのは、それだけ。 「さぁー! 腹いっぱい雨水食うぞぉ」  阿久津さんが、褌一丁で妙な雄叫びを上げる。  昇さんがそれを見て笑った。  よかった。  あたし、ずっと川が怖かった。  渡るのが怖いとかじゃなくて、渡るのももちろん怖いけど。  川で山根さんが危ない目にあって、向井さんが死んじゃったこと、昇さんがずっと自分のせいだって抱えてるんじゃないかって思って。  もちろん、忘れてなんかいないだろうけど、それでも。渡河を前にして笑えるんなら、それで充分。  この河を渡るときは、今度こそ無事に向こう岸へ行くんだ。 ***  雨は強まったり弱まったりを繰り返して、時には天幕に穴が開きそうな勢いで朝まで降り続いた。  その音が銃声みたいで、なかなか眠れなかったし何度も目が覚めた。  昇さんと阿久津さんも同じだったみたいで、時々うーん、と唸っているのが聞こえた。  何度目かの目覚めで、阿久津さんが天幕から出ていくのが見えた。まだ夜明け前には少し早いのに、どこ行くんだろ。  はじめはおトイレかな、くらいに思っていたけどなかなか戻ってこないから、だんだん心配になってきた。  暗いから迷っちゃった? それともぬかるみにはまって動けなくなった? あたしはいてもたってもいられなくなって、昇さんに声を掛けた。 「昇さん、昇さん! 起きて。阿久津さんが戻ってこない」 「ん……、ああ? 阿久津が?」 「うん、だいぶ前に出ていって、そろそろ明るくなってきたのにまだ戻らないの」 「ほんとか!?」 「俺が、どうしだって?」 「阿久津さん!」  あたしが慌てているところに、夢のような甘い香りと共に阿久津さんが戻ってきた。  手には、大きな房ごとの……バナナ。クリスマスツリーみたいな大きさだ。 「阿久津! バナナじゃないか! よく見つけたな」 「河を見だ時によ、向ごうのほうに葉が見えだから、朝んなっだら見にいぐべと思ってだんだけど、何度も目ぇ覚めで腹へっぢまっで」 「すごい……バナナってこんなにたくさん実がなるんだ」  雨のせいか少し潰れて傷んでるけど、バナナだ。こっちに来て初めて見た。南国ならバナナくらい普通にあると思ってたのにぜんぜんなかったんだよ。  腕ぐらいの太い茎にぐるりと房がついて、それが4段くらい。らせん? ううん、互い違いになって重なってるのかも。  とにかく、3人でも食べきれるかわからないくらいの量がある。天幕の中が、あっという間にバナナの香りでいっぱいになった。 「しっかり食っで、河を渡っだらゲニムだ」 「うん」  阿久津さんが一つもいでくれたバナナを持ったら、朝食バナナダイエットなんてやってたな、と元の時代を思い出した。  毎日毎日、あたしはこのバナナを食べてた。テレビをぼーっと見ながら、牛乳で流し込むだけのダイエット。  あの頃はなかなか痩せなくて微妙だなとか思ってたウエスト、今は2週間たらずで緩々だよ。ふふ、っと、ちょっと前の自分を馬鹿にするみたいな笑いがこみ上げてきた。  手の中のずっしりした重みに、ゴクリと喉が鳴る。  皮を剥いて、かじりつく。  ……。  なんて甘い。  喜びが体の底から胸に押し寄せて、身体じゅうがぞわぞわ騒ぐ。甘みが口の中に広がって、耳の下がぎゅーっと痛くなる。食べてる! 食べてます! っていう確かな噛み応えも幸せすぎる。 「弥生ぢゃん?」  美味しくて、嬉しくて。逆に今ままであたしがどんな食べ方をしていたかを思い出して、腹が立った。  ヒモが渋いとか、黒いとこ邪魔とかいいながらそれを避けてちまちま食べて、挙句の果てにぜんぜん食べないで捨ててたことも日常で。 「未来ではね、バナナって、基本的に地味でぜんぜん主役じゃない果物なんだよ。イチゴとかメロン、ぶどうに桃って、オシャレで美味しいのがいっぱいで。南国系でもマンゴーとかパパイヤみたいに高級感もインスタ映えもしないから子供は好きだけど大人で大好き! とかいう人あんまりいなくて」 「そうなのか」 「うん。あたしも毎朝食べてはいたけど、ちょっと黒いとこあるとポイって捨ててたりしたの」 「それは罰当たりなごとを」 「うん……もしかしたらあたし、バチが当たってここに飛ばされたのかも……」 「あ、いやぁ冗談だ、冗談」 「神様がいるなら、謝りたい。あたし、他にもたくさん食べ物粗末にしてたの。ここに来て、雑草に虫まで食べるようになって、ああ、なんて幸せだったんだろうって」  前なら、バナナをありがたがるなんて絶対に考えられなかった。だけど今、あたしの体はバナナひとつでこんなにも幸せに満ちてる。  幸せ過ぎて震えるなんて、よくわからない例えだなとか思ってた。でも例えなんかじゃなくって、本当に震えるんだ。  たかがバナナで、鳥肌が立って、震えてるの。 「まあ、その、なんだ。気付いたんなら、それでいいじゃねえが! ほれ、もっど食え、ウマイだろ?」 「ん。おいしい……」 「うん、旨いな」 「最高だ」  それ以降、あたしたちは無言でバナナを頬張った。夢中で、剥いては食べ、剥いては食べた。  虫が食ったような穴も、熟れて割けた傷が黒くなってるのも気にしないで、全部、残さず、泣きながらむさぼった。  雨音は相変わらずだったけど、最高の朝だった。魚の日以来の満腹に、あたしたちは満ち足りていた。  雨はまだ降り続いていて、河は渦を巻くようにうねり、唸っていた。  それでも今までにない勇気が湧いてくる。食べ物の力は偉大だ。そう、思った。 「頑張ろうね!」 「おう!」 「……」 「何だ松田、腹でも壊したが?」  ただひとり、昇さんだけは違った。 「もう1日、待たないか」  ああ、大丈夫かと思ったけど、やっぱり前のことを引きずってるんだな、と思った。  確かに天気は悪いけど、昨日よりは明るいし、雷もない。何より今はたくさん食べたから体力がある。  明日また昨日みたいにゴロゴロ来たら、ゲニムでの合流の機会を逃してしまうかもしれない。  そうしたらまた物資の補給がないまま、今度は200㎞以上も歩き続けなきゃならない。この3人のまま。  3人じゃ、助け合うにも限界がある。やっぱりここは今だ、そう思った。 「松田、俺らは死なねえよ? 行ぐべ」 「うん、流れは速いけど浅そうだし」 「……わかった。注意していこう」  阿久津さんも同じく思ってたみたい。岩がゴツゴツしているから、そこを掴みながら進めば行ける、そんな強い気持ちで水に足を浸した。  思った通り、水深は浅かった。  あたしでも腰までないくらい。  だけど、思ったよりも流れを体に受けて、体を支えるのがやっとだった。 「弥生、進めるか?」 「う、ん、頑張る」 「慎重になぁ!」  なんとか中ほどまで進んだあたりに中州みたいなところがあった。 「そこで一旦休もう」  昇さんの指示で中州に上がったあたしたちは、激流の中でしばしの休息をとることにした。  体がガチガチにこわばって、すごい筋肉痛の前触れみたいになってる。だけど前の渡河でも同じ感じで、筋肉痛にはならなかった。栄養が足らなくて、痛む筋肉もないのかも。 「あど5mってとこが」 「そうだな」 「あんまり休むと却って疲労が溜まる。そろそろ行くぞ」 「うん」  そこから先は、頭が真っ白ではっきりとは憶えていない……  あたしの目の前で立ち上がった阿久津さんが、一瞬で視界から消えたのは憶えている。  え、と思って下を向いたら、頭から血を流して川に身を沈めた阿久津さんがいた。昇さんが叫びながら手を出していたような気がする。  その全部がスローモーションみたいな景色の中で、赤いリボンみたいな血の帯を引きながら、阿久津さんがあっという間に遠ざかる。  モノトーンの中に鮮血だけが赤くて、あたしはゆらゆら揺蕩うその帯を見つめてた。  だけど赤い帯は見る見るうちに流れに消されて、すぐに見えなくなった。 「阿久津さん!!」  叫んだときは、もう阿久津さんの姿は見えなくなっていた。  コントロールが利かない岩だらけの流れの中を下って追いかけることは、昇さんでも無理だった。  どうやって渡り切ったかわからないけど、あたしたちはとにかく夢中で岸に上がって、川下に向かって走った。  阿久津さんは、すぐに見つかった。  どれほど流されてしまったかと思ったのに、しばらく走ったところで、大きめの岩にもたれかかっていた。  だけど、もたれかかっているわけじゃなくて。たまたま、そこにひっかかっているだけだと、すぐにわかってしまった。  腕に力はなく、波にまかせて揺れていて、身体じゅうあちこちが切れて皮がめくれているような所もあって、日焼けしていない背中の血の気は消え失せていた。  蝋人形みたいだった。  これは阿久津さんで、まだ生きているかもしれない、そう思いたいのに、なんだか得体の知れない気味の悪いものを見てしまったような気持ちでいっぱいだった。  昇さんがまた河に飛び込んで、阿久津さんの元へと向かった。だけど阿久津さんの顔を見た途端、足を止めて引き返してきた。その様子を、あたしは他人事みたいに眺めていた気がする。 「行こう。風邪をひくぞ」  昇さんが、そんなようなことを言って、あたしの肩を重く叩いた。  その後、あたしたちは何事もなかったみたいに歩いた。何も考えたくなくて歩いた、が正しいかもしれない。  何も言わない昇さんのあとをただ黙々とついて行った。  雨の日は暗くなるのが早くて、あと少しのはずのゲニムには着かないまま日没になった。  あたしは唯一の出来ること、天幕張りをいつものように済ませて、渡河で使い果たしたカロリーをもうこれ以上使わないようにと、天幕製の寝袋を準備する。 「阿久津の形見だ」 「え?」  そう言って、昇さんがくたくたのバナナを差し出してきた。 「渡ったらみんなで食おうと思って、3本だけ軍服に挟んでおいたんだ」 「昇さん……」 「阿久津のぶんは半分に分けよう」  それは、潰れて、灰色みがかった中身が飛び出した、どうみてもゴミみたいな姿のバナナ。だけど、朝食べたのと同じ味がした。  最高の朝だった、あの時の空気が蘇る。 『しっかり食っで、河を渡っだらゲニムだ』 『松田、俺らは死なねえよ? 行ぐべ』  …………っ。 「死なないって、言ったのに……っ。阿久津さんの嘘つき……っ!」  ゲニムはすぐそこなのに、あたしたちはまた大切な仲間を失った。  阿久津さんの大きな笑い声も朗らかな歌も、もう聞こえることはない。バナナの甘い香りが天幕の中に空しく漂っているだけだった。  次の日、あたしたちは朝日を浴びて目覚めた。  晴れた朝は久しぶりだ。 「阿久津は……太陽みたいなやつだったな」 「そうだね」  本当に、太陽みたいだった。  太陽が後ろから照りつける。西に向かうあたしたちの背中を押すみたいに。阿久津さんがもう少しだ、頑張れって言ってくれてるのかも。  くよくよしていられない。  足に力を込めて、一歩ずつ。  ゲニムは、すぐそこだ。 ***  盆地のような少し開けた場所が見えた時、昇さんが立ち止まった。 「昇さん、もしかしてここ……」 「ああ、おそらくな」 「着いたんだ! やったぁ」 「まだだ。このまま森で少し待機だ」 「どうして? すぐそこなのに」  ここへきて慎重な昇さんに、あたしは尋ねた。  いますぐにでも走っていきたいのに。 「あそこには将校はじめ他の兵たちも多くいるだろう。お前が女だとバレたら俺も終わりだ。いっそ軍服は捨てて正直に理由を話すか」 「頭の固そうなオジサンたちがタイムスリップなんて信じると思う? なんとかどさくさに紛れて出発まで過ごせればいいんでしょ? そのあとは少し離れて行動すればいいよ」 「うーむ」  昇さんが決めかねて、腕を組む。  仕方がないのであたしもその場で座って、休憩だと思うことにした。 「おい、貴様ら」  ビクン!  腕組みしてぶつぶつ言っている横顔を何気なく眺めていたら、後ろから声を掛けられた。 「はっ、報告いたします! 第18軍所属、輜重第41連隊、町田昇、以下2名。ホルランジヤより転進、只今ゲニムに到着いたしました!」 「よし。報告は本部前だ。よく生きてここまで来たな、向こうまで行けば粥もあるぞ」 「はっ! ありがとうございます!」  昇さんが即座に声を張って機敏に答えたおかげで、あたしのことはチラっと見られただけで済んだ。 「今の、偉い人なの?」 「階級章は伍長だったな。俺より上だ」 「そうなんだ」 「お前が座ったままで肝が冷えたよ、まあ、この状況下だから立つこともままならないと思ってもらえたようだ」 「あはは、ごめんなさい」  あのチラ見はそういう意味だったんだ……危なかった。 「さあ、粥を食いに行こう」 「うん。あ、そういえばさっき町……」  昇さんがさっき自分のことを「町田」と言った気がして、訊こうとした時だった。  話しかけながら立ち上がった途端、ぐらりと視界が揺れた。  あ!  この感じ、ダメ!  今はダメ! 昇さんにまだ何にも言ってな…………――

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