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「弥生!」 「昇さん、山根さんは? みんなは?」 「皆無事だ」 「よかった!」  山根さんは、あたしが思っていたよりもずっと川上まで流されていた。  向井さんを背負った阿久津さんのスピードでは追いつけなくて、川岸を走っていった昇さんが救助したようだった。  怖かったけど、不安だったけど、みんな無事で本当に良かった。  だけど、この流れの中を追いかけたことで、特に向井さんが水を大量に飲んでしまったみたいで。  みんなのところに着いたら、山根さんだけじゃなく向井さんまでもが横に寝かされていた。 「米が……すまねえ、すまねえ……」 「お前が生ぎてりゃそれでいいんだって言っでるんだけんども、さっきがらずっとこんなだ」  山根さんは荷を守れなかったことをかなり気にしているみたい。  そうだよね、あたしも湖で襲撃されたときはカニ置いてきちゃって、すごく凹んだもん。  あんな少ししかとれなかったカニでさえそうだったんだから、みんなの分のお米や荷物を手放してしまったときの申し訳なさなんて、想像するだけで辛い。  ホっとしたのと、その気持ちを考えてしまって、涙が止まらない。 「山根さん、よかった。本当によかった」 「俺、ずっと無視してきたのに、そんな顔して」 「こんな得体の知れないのと一緒に行動してくれるだけで、充分だから」 「うう……すまねぇな、女なんか足手まといだと思ってたくせに、俺がとんだ足手まといだったぜ」 「山根さんのせいじゃないよ、あたしが昇さんにおぶさったりしたせいなんだから」 「だけどよぉ……」 「山根、判断を誤ったのは俺だ。すまん」 「誰も悪ぐねえよ、さ、ここは危ねえから、行くぞ」  阿久津さんの言う通りだよ。  誰も悪くない。  強いて言えば、いるはずのないあたしがここにいるのが……悪い。  誰もあたしを責めはしないけど、あたしがいなければ各自が荷を頭に乗せて渡ったんだ。筏に枝が溜まって流されるなんてことにならなかったんだ。そんなこと、考えたって仕方ないけど。  いつまでも見通しの利く場所にいるのは、雨だからって危険だ。阿久津さんの促す声に任せて、あたしたちは重い腰を上げた。  今度は昇さんが向井さんを、阿久津さんが山根さんを背負って、あたしたちは再び深い森に紛れ込む。  付近を探索に行った昇さんが、北側にセンタニ湖があるのを確認して戻ってきた。  目指すゲニムは、ホルランジヤから湖を通り過ぎて西の方角にある。  あたしたちはだいぶ流されて、逆戻りに近いところへ来てしまっているみたい。  地図も何もかも背嚢ごと筏に乗って行ってしまったから、ここからはみんなの頭の中にある地図を頼りに進むことになった。  命からがらのあたしたちに残されたのは、頭に乗せた軍服や刀と、それを包んでいた携帯天幕、ロープ、それから昇さんのカメラ。それにあたしの電波もGPSも使えないスマホ。  地図にもならないし、わかるのは日時と気温くらいだけど、ないよりはマシ。はあ、明日からどうやって生きていけばいいんだろう。  山根さんはだんだん血色を取り戻してきて、良く眠ってる。  だけど……  向井さんが衰弱しきっていた。 「なあ、向井。お前に言わなきゃならないことがある」  向井さんの頭のそばに座った昇さんが、蒼い顔で重苦しく口を開いた。 「わか、ってます……よ。そ、んな顔……しないでくだ……い」 「明朝、一緒に発てなければ、俺たちは先に行く。お前は……体調が戻り次第、後から来い」 「昇さん、そんなの無理でしょ! ひとりじゃ食べるものだってっ」 「弥生ぢゃん」  向井さんを置いて行くなんて、そんなの絶対ダメ! ひとりきりで回復なんて出来っこないよ。  だけど食い下がるあたしを阿久津さんが遮った。その目は、とても悲しそうで、悔しそうで。昇さんの蒼白で悲痛な顔を見て気付くべきだった。  みんな、わかってるんだ。  置いて行ったらどうなるかなんてこと。  ……向井さん本人でさえも。  今のあたしたちは、さながら群れからはぐれた野生動物で。食べなきゃ死ぬ、群れに追いつけなければ死ぬ、そんな状態。だから歩き続けなきゃいけない。  食うか食われるかの世界で、歩けなくなった者はもう、そこでおしまいなんだ……  あたしなんかよりよっぽど付き合いが長くて、この戦争を生き抜いてきた絆で繋がってる昇さんや阿久津さんが、どんな気持ちでこのことを向井さんに告げているのかを思ったら、意見した自分の浅はかさが恥ずかしくて、腹が立った。  なんとかして出発までに歩けるように……  そんなことを考えてはみても、薬どころか体力を回復させる食べ物もない。  どうしたらいいんだろう。本当に他に方法がないの? ああ、頭が上手く回らない。 「ああ、母ちゃん? なんかあったんけ? そんな浮かない顔して」 「え?」  どうしようどうしようと何も思い浮かばない頭をかきまわしていたら、向井さんが、急にハッキリと話しかけてきた。  弱弱しくはあるけど、さっきまでみたいな途切れ途切れじゃない声で。 「頼む。側にいてやってくれないか」 「え? あたし?」 「弥生ぢゃん、おっ母に見えでんだ。頼むな」  ふたりが、天幕を巻いて眠ってしまった。毛布がないから、今夜からあたしたちは天幕を寝袋にして寝るのだ。  先に休んだ山根さんのイビキと虫の鳴き声が大きくて、向井さんの声が聞き取りづらい。  もっと近くに、と、向井さんの背中に手を差し込んで頭を自分の膝に乗せる。  軽い……  男の人って、たぶんもっと重いよね。  やせ細ってげっそりした顔の向井さんが、あたしの膝の上で安心したように笑った。  嫌われていてもいい。  今だけは、こうして安心して休んで欲しい。 ***  昼間の雨が嘘みたいに止んでいる。  だけど森を通る風は長い雨に冷やされていて、弱った向井さんから容赦なく体温を奪う。  ミノムシみたいな向井さんが、膝の上でカタカタと歯を震わせている。 「母ちゃん、今年はカエルが鳴ぐようになっでも随分と寒いんだねえの? 田んぼは大事け?」 「え? あ、ああ。じきに温かくなるよ。だいじだ」  普段より、方言が多く混じった言葉で話す向井さん。本当にお母さんと話しているつもりなんだな。 「ああ、そうだ。俺、ニューギニヤで仲間と敵機をまた何機も撃墜したんだ。天皇陛下の御為に、向井家の男子として。んだから勲章も賜ることになってんだよ」 「そう、なの。それはお手柄だねぇ」 「敵もなかなか手ごわかったけんどな、かわしにかわして空中でクルリと回転してよ、後ろからスババーン! っと! 目の前で俺の活躍を見せらんねかったのが残念だわ、あはは」  返事に困るよ。  お母さん役なんて、難しくて。  それに……  向井さん、話、盛ってる。だって、昇さんが前に言ってた。基本的に昇さんのいる部隊は輸送とかの後方支援だって。  嘘の武勇伝、か。  この時、あたしはどんな顔をして聞いていればいいんだろうって、きっと変な顔をしていたと思う。 「母ちゃん、ああ母ちゃん、ごめんよ。そうだよなぁ。お見通しだよなぁ。俺はいっづもこうやって格好つけては『このでれすけが!』って母ちゃんに叱られてたもんなぁ」 「……」 「母ちゃん、俺は手紙に書いだような飛行機乗りなんかじゃねーんだわ。ずっと倉庫番だ。恰好の良いことばーっし書いてたけんど、最近は畑を耕したりの毎日だ。まったぐ、農家は嫌だと言って志願したのに、これじゃあ家に居るのと同じだんべなぁ。ははは……」  あたしが何か答える必要はもうなかった。  向井さんは小さな声で、決まり悪そうに嘘だと自分で暴露して、あれやこれや思い出を語り続けている。  いつの間にか、あたしは向井さんの頭をまるで子守りでもしてるみたいに撫でていた。  自分が向井さんのお母さんになったつもりでとか、そんなんじゃなくて、なぜだか自分でもよくわからないけど、そうしたいと思った。  しばらくそうしていたら、ふと、向井さんの表情が変わって、『あたし』と目が合った。 「弥生、ちゃん……? 俺、弥生ちゃんのこと、女だから認めたくないと思ってたんす。口もきいてなかったのに、なんでこんなに優しいんすか」 「ううん! あたしが逆の立場だったらこんなヒョロヒョロのお荷物女なんか一緒にいたくないもん、気持ちわかるから!」 「はは……。本当にすまなかったっす。しかも俺、今、おかしなこと言ってたすよね?」 「え、っとぉ……」  言わない方がいいのか、言ってもいいのか、あたしは返事に迷ってしまった。 「夢か幻か……、母親に会ったような気がするんす」 「実家の夢?」 「そうっす。父親が死んで、女手ひとつで兄貴と俺、妹を育ててくれたんす」 「3人? すごい」 「昔っから出来の良い兄貴は学校に行きながら家で米も作って、いつも母親に頼りにされてて……俺は何か役に立ちたいと思っても、どうにも反発しちまって」 「……」 「農家なんか手伝わんと言って志願兵になったのも、本当は……」  向井さんは視線を落として、ポツリポツリと話している。今にも氷になってしまいそうなほど冷たい体で真っ青な唇だけが動く。  元気になってほしい。  このまま、もっとたくさん話をしてほしい。  だけど。  いくら鈍感なあたしにだって、わかる。話せているのが、おかしいくらいの状態なんだ。  きっと本人もわかってるんじゃないかな。目を閉じたら、きっともう開くことはないって…… 「男親のいない家は、長男は残すって話を聞いたんす。だけど戦争が始まった時、俺はまだ兵役の年齢じゃなかったから、兄貴が徴兵されてしまうんじゃないかって、それで先に志願したんす」 「お兄さんのため……」 「なのに啖呵切って家出同然で志願したのに、俺はどうも変わったものに腹がついていかないようで度々下すもんだから、実戦向きじゃないとなってしまったんす」 「そっか。それで本当のことが言えなくて、操縦士になったって」 「俺、そんなことまで言ってたんすか。参ったなぁ、こんなにベラベラ弱音ばっかで、男のくせに情けねぇっすね。女は認めないなんて嫌な態度してたくせに」  笑ったような、泣いたような顔。  この時代の男の人たちは、女の前で泣くなんて恥だと思ってるんだよね。  でも、あたしは令和の女だ。 「情けなくないよ! 普通だよ!」 「弥生ちゃ……」 「あたしのいた令和って時代はね、男だって泣くし弱音吐くし! 男女平等っていってね、仕事も大学も、男女一緒だよ。男だけ強くなきゃいけないなんて時代遅れなんだよ! それに男女っだけじゃなくって、いろんな国の人と一緒に働いたりしてる! そういうのが普通なの!」 「す、ごい時代すね……」 「この戦争が終わったら、そういう時代がやってくるの。男も泣いてよくて、天皇陛下のおんため、なんてもう誰も言わないの! それこそ天皇陛下がもう疲れたから天皇やめるね、って言っちゃうんだよ! それでみんなが陛下お疲れ! ってするの。長男だからとか次男だからもなくて、みんな自分の思ったこと言って良くって、辛かったら辞めてよくて、好きなことしていいんだよ!」  もっとマシなことを言ってあげたかったけど、なんだか上手く励ませた気がしなかった。  だけど向井さんは、カラカラに乾いた頬に一筋の涙を零して。 「そっか……ぁ。未来は、いいなぁ……思ったこと、言っていいのかぁ……」  そう言って、笑ってくれた。 「そうだよ! だから生きよう! 生きて、帰って、戦争が終わった後の日本を見ようよ!」 「あぁ……、そうだなぁ……生きたいなぁ。死にたく、ないなぁ……」 「向井さん……っ」 「生きて、母ちゃんに謝りたいなぁ……本当の事、話したいらぁ……」 「話そう! お母さんも待ってるよ! お兄さんも、妹さんも!」  なのに、向井さんの瞼はどんどん下がってきて。ろれつも、だんだんおかしくなってきている。 「ダメだよ! 明日、一緒に歩くんだよ! 向井さん!」 「なぁ弥生……ちゃん、頼みがあるん、ら……」 「え? 何?」 「未来に戻ったら……俺の家族が生きてたら……ごめんって伝えてほしい……んら」 「何言ってるの? 自分で謝んなよ! それにお母さん、なんでもお見通しなんでしょ? きっとお兄さんの為に志願兵になったことだって、お見通しだよ!」 「そ、っかぁ……そう、らなぁ…………」  向井さんの目は、もうどこも見ていない感じだった。蚊の鳴くようなか細い、枯れた声もそこで途切れた。 「向井さん!? ちょっと、死んじゃだめだよ! 昇さん、みんな、起きて! 向井さんがっ!」  あたしは慌ててみんなを呼び起こした。 「逝かせてやってぐれ、最期が弥生ぢゃんの膝の上なんて、幸せすぎるじゃねえが」 「でも、でも……」 「魚たらふく食って女の膝で死ねるなんて、ここじゃ考えられないもんなぁ」 「上が聞いたら何と言うかな」 「構うこたぁねぇよ。死に方を選べるんなら俺は敵もろとも! それがだめなら腹上死って決めてんだ。マラリアやら飢え死になんて御免だぜ」 「はは、山根らしいな」 「向井ぃ、先行っで待っでろよ……」  勇ましいことを言った山根さんが、こっちをちらりと見て呟いた。 「まあその、なんだ。認めねえなんて言ってよ……悪かった。向井の事、ありがとな」 「い、いえ! あたし、頑張ってついて行くので!」  向井さんの消えそうな命が、あたしと山根さんを繋げてくれたような気がした。  虚ろな向井さんの目は、ただ一点をぼんやりと見つめていた。  死んじゃダメ、だめだよ、と励ましたい自分と、お疲れ、もう安らかに、って思う自分がいる。  過ごした時間は短かったから、悲しいというのはちょっと違う気がする。  この感情は、なんだろう。  向井さんは、なんでこうなってしまっているんだろう。  川で冷えて?  お腹を壊して?  おかしくない?  体が冷えたら、あっためればいいんだよ。暖房付けて毛布たくさんかけて、あったかい飲み物飲んで。  てかお腹壊すってなに?  薬は?  なんであたしたちは湖の得体の知れない魚なんか夢中になって食べてたの? そもそもなんでこんなジャングルの中歩いてんの? 「おかしいよ!」  こんなの、絶対おかしい!  こんなところで戦争なんかやってるから、あたしたちはこんな目に遭ってて、向井さんも死んでしまいそうになってるんだよ。 「こんなの、戦争なんて間違ってるよ! やーめた! ってみんなでボイコットしちゃえばいいのに! もう、やめて病院行こうよ、ねぇ、向井さん、ね?」 「……もう死んでるよ」 「え……」  気付いたら向井さんはもう、硬くなり始めていた。瞼を閉じる力もなく、静かに、いつの間にか。 「なん、で……ねえなんで向井さん死んじゃったの? どうして……っ」 「弥生ぢゃん、落ち着いで」 「だって……、生きたいって、生きたいって言ってた! なのになんで……っ!」 「やめろ弥生」 「だって……こんなの……こんなのって……悔しくないの……っ?」  ああそうか。  この感情は、悔しさだ。  それから、憤り、ってやつだ。  昇さんたちに言ったって、ただの八つ当たりなのはわかってる。でも止まらなかった。  この時代の人はこれが当たり前だと思ってて、あたしの言うことなんかただの甘えだとか言われるのかもしれない。だけど言うのを止められなかった。 「戦争なんて、勝ったって負けたって、何千何万って死んじゃうのに、そうまでしてなんで領土取り合ったりするの? 別にこんななんもない島なんかいらなくない?」 「それは、本土には資源がないからで、それと本土に攻め込まれないためにもこの海域を……」 「資源なんか別にいらないよ! ガソリンがなくったって、電気で車が走って磁石で電車が走るようになるんだよ! アメリカとだって仲良くやってるし、土地がなくったって東京のビルの中で畑やって屋上でハチミツ採ってるよ! だから戦争なんて無駄なん――」  バシンっ! 「それ以上言うな。俺たちは無駄なことなどしていない。この戦争が無駄なら、これまでに流れた血も無駄だったということになる。向井もだ」 「あ…………」 「俺らは……もう後に退げねえんだよ、弥生ぢゃん」  痛いのは、昇さんに叩かれた頬じゃない。  心が、痛くて。  苦しくて。  あたしが叩かれたからじゃない。叩いた昇さんの手の痛み、ううん、心の痛みを感じてしまったから。  みんなの表情が、苦しそうで。彼らが当たり前に戦争してるなんて、どうして思ってたんだろう。 「ご、めんなさ……」  一言、口にするだけで精いっぱいだった。

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