作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

 義母が亡くなって七年。長男も家庭を持って夫婦二人、新たな時間を歩もうと各地へ足を伸ばした。恋人だった時に戻ったかのように気持ちも若返る。ありふれた日常に何の疑問も抱かず、二度目の青春を謳歌していた。  だけど、今日は違う。雨だから日帰り旅行は中止にしようと言った夫と口論になってしまったのだ。 「車なんだから問題ないでしょう?」 「俺も年だ。大雨の中運転をして事故でも起こしたらどうする。明日は晴れるみたいだし、俺たちには幾らでも時間がある。今日はうちでのんびり過ごそうじゃないか。夕食は久しぶりに出前でも頼もう。小雨になったらケーキを買ってくるから。それで我慢してくれ」 「嫌よ。それこそ何時でも出来るじゃない」 「何時でも出来るなら明日でも構わないだろう?」 「趣味のためだったら雨でも運転するのに、どうして今日は頑なに嫌がるのか理解できない」 「お前だって趣味のためなら雨の日でも自転車に乗って公民館に行くじゃないか」 「それとこれとは別よ」 「車を運転しないからわからないんだ。大雨の日に高速を使ってまで出掛けるなんて死にに行くようなものだ。宿を取っている訳でもない。子どもみたいな我が儘を言うな」 「子どもって」 「とにかく今日は中止だ。明日行こう。これで話は終わりだ」 「わかりました。明日はあなた一人で行ってください。私は行きません」  席を立って部屋から出ようとする。 「どこに行くんだ?」 「部屋で休むだけよ」 「好きにしろ」  不毛な言い争いから逃げるように自室までの階段を駆け上った。  雨音しか聞こえない部屋に入ると、雨水に流されたかのように怒りが収まっていった。  もう少し気分が落ち着いたらきちんと謝罪をしよう。今日に拘る理由も話そう。伝えたいことがたくさんある。そうやって思考を整理ながら私は床についた。  しかし、この数時間後に夫は事故で亡くなった。最期に聞いた言葉は「好きにしろ」。長年連れ添った夫婦の最後はあっけなく訪れ、今では当時の声も顔も霞んでいる。突然の訃報。後悔のない人生だと思えるように生きてきたが、あのときの言葉だけは未だに胸に刺さったまま。 「おばあちゃん、おはよう」  聞き覚えのある声に体を揺すられて目が覚めた。 「み、すず?」 「何回呼んでも起きてこないから心配になって来たの。そしたら苦しそうな顔をしてたから思わず起こしちゃった。ごめんね?」 「いいのよ。わざわざ起こしに来てくれたのね。ありがとう」 「ううん。朝ご飯用意してるから行こう?」 「着替えるから先に食べててくれる?」 「わかった」 「ありがとう」  くるりと翻った孫は、軽い足取りで階段を下りていった。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません