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 夢を見てから一ヶ月。毎日あの日を見続けている。 「好きにしろ」  夫から逃げだす私。 「――――」  彼が何を言っているのか私には聞こえない。 「あの時何か言おうとしていた?」  何度記憶を手繰り寄せても、私を突き放した声しか浮かばない。夫を拒絶した私と、私を拒絶した夫。夫婦の会話は分断されたまま。後悔が積もった結果の願望なのだろうか。聞く人のいない虚しさが、刺さったままの棘を揺する。 「まただわ……」  死に別れの夢から続く胸痛。誰もいない居間で「ふう……」と息を吐く。息子家族から病院へ行くようにと言われていたことを思い出し、曜日を確認するためにカレンダーを見て息を吞んだ。  八月一日。明日は夫の月命日。穏やかな余生を過ごす己への戒めだと思った。愛した人でさえ忘却してしまう時間という呪い。胸の痛みが去るまで瞼を閉じて世界を消した。  このまま死ぬかもしれない。暗闇に根ざした帰結が走馬燈を見せたのかもしれない。胸元を押さえながら目を開けた。  義母が旅立った朝。箪笥の扉は開いていた。目撃したのは私だけ。誰も知らない出来事。 「死の直前にのみ触れることのできる箪笥」  現在の所有者は私だ。今だ。今日。今晩。実鈴に話をしなければ。全身を駆けめぐる衝動。いつの間にか胸の痛みは引いていた。  時刻は午後十一時。息子夫婦は床に就いている。 「おばあちゃん、入ってもいい?」  控えめなノックのあと「どうぞ」と答えると、ゆっくりと扉が開いた。 「疲れているのにごめんなさいね。そこに座ってちょうだい」  用意していた座布団に行儀良く座る孫に「崩していいのよ」と一声かけると「うん」と言って足を崩した。 「何か大事な話?」  実鈴の前に座り、用意していた急須からお茶を注ぐ。小さな丸テーブルに湯飲みを置くと「ありがとう」と手前に引き寄せた。自身の湯飲みにも煎茶を注ぐ。開け放した窓から入る夜風が穏やかな沈黙を攫っていった。 「先月かしら。あなた私に聞いたわよね? 居間の箪笥には何が入っているのって」  テーブル脇に用意していたお茶請けを差し出しながら実鈴に問うた。 「うん」 「今から話すことは他言無用。お父さんやお母さん。友人は勿論、恋人にも、親戚にも。誰にも話してはいけない」  一口サイズの羊羹で膨らんだ頬と、疑問に満ちて大きく開いた瞳。お菓子をお茶で流し込むような粗雑なところも全部愛おしい。目に入れても痛くないとはよく言ったものだ。 「そ、それで、誰にも話さないことと箪笥がどう繋がるの?」 「今から話すから慌てないの。お茶もお菓子も私も逃げないから」  ふふ。っと零れ出た笑いを手で押さえる。 「いつまでも子ども扱いして」  拗ねてそっぽを向いてはいるが、左手はお茶請けに向かっている。感情に素直な子だ。 「箪笥の噂で覚えていることはある?」 「絶対に触れてはいけないこと。開いているところを目撃した人がいないこと。抽斗が開いたときは必ず人が死ぬこと。くらいかな?」  よほど疲れていたのか。四個目のお菓子を手に取った実鈴が、丁寧な手つきで包装を解いていく。 「そう。あの箪笥はね、何千年にも渡って受け継がれてきた大切な物なの。ただの箪笥じゃない。あなたが聞いた噂を一つ一つ説明していくわね。そして、しっかりと覚えてちょうだい。あなたが後悔しないためにも。そして、あなたが選ぶ人のためにも」  手にしていた饅頭をティッシュの上に置いて居住まいを正した孫に、義母から引き継いだ伝承を話し始めた。  どれほどの時間が経ったのか。壁掛け時計を確認すると、日付が変わる五分前だった。 「ねえ、訊いてもいい?」 「その前にお水を足してくるわね」 「私が行くよ」 「あなたはゆっくりしてなさい。忘れられたら困るわ」  台所で一人。水道から流れ落ちる音を聞きながら、孫が訊きたい内容に思いを馳せる。それは、私が義母に質問した内容と同じだろう。 『死ぬ時がわかる。ということですか?』 『そう解釈してもらえばいいわ。病死だけじゃない。事故や事件。死因はどうであれ語り継いだのち。一ヶ月以内に必ず死ぬ。何故かはわからない。でも、所有者は必ず一人だけ』  当時は信じられなかった。義母が二日後に急逝しても実感は湧かなかった。しかし、私はどうしても今日中に伝えなければならないと、何かに駆り立てられるように実鈴を呼び出した。頻繁に感じていた心臓の痛みは治まっている。溜まっていく水面に合わせて、心の棘が浮いてくる気配がした。 「おまたせ。眠くない?」 「ん。大丈夫。今度は私が淹れるね」 「ありがとう」  湯が沸くまで実鈴の質問に答え続けた。彼女の気がかりは、やはり寿命のことだったけれど、私の予想とは少し違っていた。 「おばあちゃん、もうすぐ、いなく、なるの?」  黒曜石のような双眸が濡れている。目は口ほどにものを言うとはこのような状態を指すのだな。と場違いなことを考えてしまった。黙っている私の姿が〝死を恐れている〟ように映ったのか。膝立ちでいそいそと傍に来た実鈴が、私の右手を優しく包み込んだ。 「怖くないわ」 「でも……」  俯いていて感情を読み取ることはできないが、声と小さな手が震えている。泣くまいと堪えているのか、細い両肩までもが小刻みに震えだした。 「おばあちゃんなら大丈夫。大丈夫だから。ほら。見て? 今だってぴんぴんしてるでしょう? だから顔を上げて?」  右肩にそっと触れる。顔を上げた実鈴に笑ってみせた。 「ほら。ね? それに、ここだけの話」  距離を詰めて声量を下げる。 「私が初めて長生きする人間になるかもしれないでしょう?」  大きな目をぱちぱちと瞬かせる実鈴。 「ね?」  口角に精一杯力を入れた。 「おばあちゃん、悪戯が成功した子どもみたいだよ?」 「そうかしら? おばあちゃん、美味しいお茶が飲みたいわ。それから」 「それから?」 「大好きな笑顔が見たいわね」 「もう。恥ずかしいな!」  鼻を啜りながら懸命に笑顔を作ってくれる優しい孫。大好きな笑顔を見せてくれた愛しい孫。私のために淹れてくれたお茶を飲みながら、訪れる別れを受け入れた。  日付が変わってから三十分。美鈴を部屋まで送ると忍び足で階段を下りた。  電気をつけて仏壇の前に座る。小さな位牌に手を合わせ「無事に終わりました」と報告をしてから、居間の隅にある和箪笥前に座った。  最初で最後。その時を受け入れるまで決して触れてはいけない物。義母が亡くなった日に扉を閉めようとした時以来。三十五年ぶりの邂逅とも言えようか。私が閉じる前にパタンと音を立てて閉じてしまった不思議な箪笥。他者を拒むように何者かの手によって閉ざされた扉。 『私は何処から〝それ〟を取り出すのかしら。楽しみだけど、少し怖いわ……』  わからない。怖い。そうか。私は怖かったのか。  ストンと想い出が落ちた刹那。  無意識にその引手に触れていた。  居間から自室へ戻ると、文机の上にある写真立てを手に取った。大切な家族写真。一枚は息子家族と私。もう一枚は夫と二人だけのもの。 「もうすぐ会えますね」    あの日叶わなかったこと。 「ようやく遂げることができそうよ」  鍵もついていない古い和箪笥。  きんは六文だが、彼岸には閉じこめていたままの言葉が必要なのかも、持って行けるのかも定かではない。あれば助かる、なければ困る箪笥貯金とは異なる我が家の箪笥の中身。  国や愛する者を守る為であったり、己の為であったり、墓場まで持っていくには重すぎるから箪笥の肥やしにしたモノもあるだろう。  いつかは使ってみたい、いつかは伝えてみたい、けれども傷つけてはならない無数の言葉が大切に仕舞われている普通の箪笥。  幾人の記憶と感情が詰まった、明るく仄暗い人生を共にしてきた灰色の箪笥。  スッと開けては新たな言葉を入れて眠らせて、最期の瞬間「使い切った」と穏やかに笑いたいと願う薄暮の夜。  枕元に写真立てを置いてベッドに潜り込む。瞼を閉じるとやけに大きな鼓動が聞こえてきた。気持ちが高ぶっているのだろう。心地良い拍動を感じながら、微睡みの世界に身を委ねた。

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