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「車なんだから問題ないでしょう?」  またこの夢。夫と喧嘩別れとなった悪夢の日。私はずっと後悔をしている。  長年連れ添ったのだから言葉にしなくてもわかるだろう。否。わかってほしかった。傲慢で怠惰な愚考だと知ったのは夫の亡骸を前にした時。幾年経過しても褪せるどころか色濃くなっていく悔悟の傷跡。思い出は棘となって傷口を刺し続けている。  宵闇の私。お願いだから同じ過ちを繰り返さないで。せめて今日だけは。  何度も思い出した。何度も見たやり取りが交わされる。  席を立って部屋から出ようとする。 「とにかく今日は中止だ。明日行こう。これで話は終わりだ」 「わかりました。明日はあなた一人で行ってください。私は行きません」  お願い。お願いだから逃げないで! 今伝えないと、後悔するの! 「どこに行くんだ?」 「部屋で休むだけよ」 「好きにしろ」  待って!  ブン。という音が鳴って視界が揺らぐ。目眩のような。体ごと回転しているような浮遊感のあと。目を開けると廊下を歩く私が居た。  これは、私?  目の前に私がいる。  どういうことなの?  周囲を見渡すと、窓の外では大粒の雨が地面を叩いている。  背後を振り返ると、そこには亡くなる直前の夫がいて。  あなた?  声をかけようにも音は振動にならず唇が動いた感覚もない。  夢の続きだと思った私は、黙って痛い過去を傍観し続けるしかなかった。 「約束、忘れちまったのか?」  え?  目の前にいる私は胸元をギュッと握りしめている。一瞬見えた辛そうな夫の横顔。私ではない私の感情が、脳を通じてダイレクトに流れ込んでくる。 「約束?」  夫のいる部屋に引き返す。現実にはなかった出来事だ。 「なんでもない」 「もしかして、今日が記念日だって覚えてたの? だからケーキでもって言ったの?」  頬杖をついて面倒くさそうにしている態度は夫なりの照れ隠し。ぶっきらぼうで無口。肝心なことは何一つ相談もなく決めてしまう勝手な性格。だけど、約束を忘れたことは一度もなかった。不器用だから全ての想いを形にしようとしてくれたのだろう。  気づいた瞬間。空間がグニャリと歪んだ。  さようなら幻の私。さようなら愛した人。  始終背中しか見ることができなかった。顔を覗くくらいはできたかもしれないが、あまりにも辛すぎるからやめた。過去は変えられない。先ほどの光景は私の願望が夢に反映されたもの。そう納得させた刹那。  ブン。二度目の空間移動が始まった。最初のときに感じた浮遊感にも慣れてゆっくりと回転しながら新たな夢へと移る。  また、目の前に私がいる。  後ろ姿に触れようと手を伸ばすも手が動いた感覚はない。廊下で佇む私。本来ならば自室へ逃げ込んで、夫とは二度と会えなくなるのに。 「約束、忘れちまったのか?」  まただ。非情な現実を突き付ける為に、幻の光を見せ続ける残酷な夢。 「約束?」 「なんでもない」 「もしかして、今日が記念日だって覚えてたの? だからケーキでもって言ったの?」  ここまでは移動前と同じだ。 「俺が一度だって約束を違えたことがあったか?」  どうやら先刻の続きらしい。  背中から漂う哀愁。何年傍にいようとも、直接伝える以外に相手に知ってもらうことも、私が知ることもできないのに。いつしか〝何でもわかる〟と思い違いをしていた。  実際にはなかった会話がもう一人の私と夫との距離を縮めていく。二十八年前に起きたかもしれない可能性の一つ。やはり夢は夢。夫が本当は何を考えていたのかなんて、あの世に逝っても知る術はない。絶対に知ることはできないのだ。  やっと区切りをつけることができたと思った瞬間。  箪笥の前に座っていた。既視感を覚えた私は額に手を押し当て、深い息を天井に吐き出した。今度は就寝前の時間軸らしい。 「あら?」  一、二回目の私と大きく違う点を発見して驚愕した。ずっと己を眺めていたはずなのに、私の眼前には例の箪笥だけ。もう一人の私は何処にもいない。 「さっきまでは自分を見ていたはずなのにどうして」  詮索しても無駄だとわかっていたから、私は見えない力に従うことにした。  寝る前同様。私の視線は最下部の抽斗に釘付けになっている。昨晩は理由がわからなかったけれど、今ならわかる気がする。 「立ち止まって、振り返って、あなたの顔を見るべきだったのね……」  足下に転がる大きな後悔。箪笥に収納されたモノは此処に眠っているのだろう。  気がつけば引手に触れていて。 「あ――――」  ブツン。電源が落ちたみたいに景色が暗転した。

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