「使いたくないんだけどね、これ」 コンパウンドボウと握った左手を見つめ、私は声を漏らした。 すぐに使えるよう、ストリングは新品に交換済み。チューニングも完璧にした状態で持ち歩いてはいるが、念のためカムの向きをはじめ、細部に異常はないかをチェックする。 再び弓をしまうと、次は矢の準備。一撃必殺が暗殺の基本なので、多くの本数を持ち歩いているわけではない。四本の矢で、果たして足りるかどうか。そしてすべての矢に仕込んである神経毒を、丁寧に抜いてゆく。 「絃英さん、ごめん。私、もう一回だけ、ストリングを引かないといけなくなった」 私はボウケースに付けられた、小さな熊のぬいぐるみを右手で触る。 「相手を殺すことはしないから……もう一度、引いてもいいと……私の心も命も、賭けてみていいかなって。だって見護るしかできない私にできる、数少ないこと」 立ち上がった私は、パンプスからブーツに履き替え、ボウケースを手に取り、自室のドアノブに手を掛けた。 「よし。最後の仕事」 もう一度、左手に持ったボウケースの端を一瞥し、私はドアノブを回した。 「逃げずに来たわね」 「貴女こそ」 雲ひとつない、星粒の天幕が一面を覆った展望デッキ。私とダークスーツは、一〇メートル程度の距離を開けて対峙していた。 「おとなしく、那岼さんに婚姻の意思はないと、貴方のマスターに伝えるなら、怪我させずに船から降ろしてあげるわ」 「そうはいかない。那岼様の意志は分かりますが、僕には僕の使命が、主人には主人の想いがあります。邪魔立てするなら容赦はしない」 私の誰何に即答するダークスーツ。ええい、可愛い顔して可愛げのない。 「あらそう。聞き分けのないこと。なら仕方ないわね」 賭け倍率もつかないほど予想通りすぎる展開に、私はボウケースからコンパウンドボウを取り出し、リリーサーを右手に握って弓をセットする。 「命さえも賭けるか……たったひとりの聴衆に過ぎない貴女が、那岼様のために」 「そうよ。那岼さんは今、夢の五線譜の上を力いっぱい駆けているわ。那岼さんが夢の道を駆けてゆく姿を見護り、そして最後まで聴き届けるのが、私の望み」 ――叶わないでしょうけどね。きっと。それが私の運命でしょうから。 心の中でそっと付け加えながら、ストリングを引き絞り、ダークスーツへ矢先を向ける。 「那岼さんのヴィオラの音を、いまも、これからも。この夜空に広がる、星の数を超える人々が、きっと待っている。 ときに人々の、疲れ傷ついた心を癒し。ときに人々の、豊かな明日への希望を紡ぎ出し……私は彼女の人生の片隅にいる、ひとりの聴衆に過ぎないけど、那岼さんの音には、その力があると信じているわ」 展望デッキを駆け抜ける、海の夜風に身をさらし、矢先の狙いを慎重に定める。普通ならフィンガーリリースでも外す距離ではないのだが、いかんせん船上の海風は、矢を射るには強すぎる。 「与えた愛情は残らなくても、受けた愛情を心に刻み、私は彼女のために倒れてみせる……でも、ただでは倒れないわよ。覚悟なさい」 ィゥンッ! 私は、矢をコンパウンドボウから解き放つ。急所には当てない。狙うは右の肩口。 「くっ」 風向きと強さも計算に入れ、正確無比に狙ったその軌道は、真っ直ぐにダークスーツの右肩へ向かい、夜風を鋭く切り裂くが……とっさにダークスーツは身を屈め、紙一重で矢をかわす! 「!?」 ちょっと、アクション映画じゃあるまいし! この至近距離から、コンパウンドボウを回避されたのは初めてだった。 「そっちこそ、覚悟!」 屈むと同時にダークスーツは、上着の内側に右手を伸ばし、抜き放つようにこちらへ右腕を振り抜く。 「あぶなっ」 私は、斜め右へと左足をクロスステップ、半歩体勢をずらす。刹那、後ろ髪を鋭い棒のようなものが掠めていった。おそらくラウンジで見た、鉄串みたいな凶器だろう……っていきなり頭狙うか。なかなか容赦のない奴である。 「主人への強き想いなら、貴女の那岼様への想いに負けない!」 ダークスーツはすぐに立ち上がると、こちらへ向かい間合いを詰め、スラリと長い右脚を、鋭く上段へと繰り出してくる。頭を狙った次は顔を蹴ろうとか、よっぽど私の首から上を愛しているらしい。 ――これは。 「せいッ」 負けじと私も右脚を鋭く振り上げ、ダークスーツのハイキックを、ハイキックで迎え撃つ。 バチィンッ! スーツの黒い脛と、ナマ脚同然の白い脛が、激しく宙でぶつかり合う。 やはり、ね。 生半可な蹴りなら、相手の脛を逆に打撲させて返り討ち……といったころなのだが、相手の蹴りはスポーツの蹴りではなく、紛うことなき――私と同じ――コマンドの蹴りだった。うーん、こっちも脛がじんじん痛い。 遠望デッキの上は、相変わらず夜風が吹いている。そして容赦なく捲れるワンピーススカート。中が丸見えだけど、そんなこと気にしてる場合では……? 「えっ」 私はダークスーツの脚から視線を移すと、ちょっとした……否、寒気がするほどの違和感に気づいてしまった。 ……ダークスーツの股間……とっても平べったん…… いくらなんでも、股間がきれいに扁平ハート型の男なんて普通いない。去勢してても、あそこまでキュッとならない……と思う。たぶん。 「ちょっと貴方、まさか女……?」 「ちょっと貴女、まさか男……?」 お互いの股間を凝視しながら、私とダークスーツは驚愕の声を隠さない。そりゃそうだろう。股間が平べったんな形の男もいないが、股間がごちゃごちゃと膨らんだ女も普通いないわな。 交錯した右脚同士を引きながら、お互いに少し間合いを取る……というか、ドン引く。相手の表情もドン引きなのが分かる。きっと私もドン引きの表情をしているのだろうな、と少し思う。 「えっ……なに女装男子の暗殺屋? 意味わかんない人ね」 「貴方、いえ貴女も男装女子ね。人生ワケありそうなのは、お互い様みたいね」 私はそう言うと、足許のボウケースを一挙動で背負い、くるりと背を向けて、展望デッキを猛ダッシュ。死角となる方へと曲がる。 「あ、こら逃げるな!」 ダークスーツは、懐に手を突っ込んで、例の鉄串を右手に持ちながら追いかけてくる。 バスッ 背中から、ボウケースに硬い物が鋭く当たる音と、わずかな振動。どうやら鉄串をまた投げつけてきたらしい。あの鉄串みたいな得物は、針形手裏剣と見て間違いなさそうだった。 「うそっ、手裏剣が止められた……ッ!?」 動揺するダークスーツの声を背中で聞きながら、私は展望デッキ最上階への階段を上がろうとする。おあいにくさま、このボウケースはザイロン生地を縫製し、カーボンプレートを仕込んだ特別製。拳銃弾なら、近距離でも止められるだけの防弾性能があるのだ。背中を無防備にしたまま敵に背中を向けるほど、私は不用心ではない。 「もらったわ」 私は階段を駆け上がると、振り向きざまにコンパウンドボウを構える。逃げるように猛ダッシュした理由は単純明快。あの間合いでは、コンパウンドボウの矢をセットする余裕がなかったからである。 ィウンッ! 矢を引き絞り滑車が擦れる音に続いて、ストリングと矢が空気を引き裂く音が、小さく静かに響く。 ダークスーツは階段をちょうど上がろうとするところ。階段の幅は狭く、横に逃げ場なし。今度は肩ではなく太股を狙う一矢で、しゃがんで回避できるものではない。勝負あった――と私が思った刹那。 「はぁっ!」 ダークスーツは階段両側の手摺りを両手で掴むと、勢いよく脚を振り上げ、そのまま手摺りの上で倒立しようとする! がすんっ 振り上がるスラックスを掠るも紙一重。矢は展望デッキの床を、深く凹ませるだけに終わる。さすがに船材の鋼板に穴を開けることは無理か。 この距離なら鉄板にも穴を穿つ威力と、目で捉えることは不可能に近い初速を誇るコンパウンドボウ。しかしこうも紙一重で当たらないのは、偶然にしては出来すぎている気もするのだが。 ええい、ここで考えても時間の無駄。もう一矢! 倒立姿勢から降りて戻るまで、わずかに隙がある。私は急いで矢をセットするが。 「お見通し!」 ダークスーツは倒立から戻りながら、空いた右手を一閃させ、再び針型手裏剣をこちらに放つ。 「うっ!」 手投げの針型手裏剣は、速度は大して速くない。今度はこちらが慌ててしゃがみ、針形手裏剣を紙一重で回避する。その隙に、ダークスーツは階段へと降り立った。 私は矢をセットしたまま、再び距離を取るべく展望デッキを走り回る。 展望デッキを縦横無尽に駆け回りつつも、残り二本の矢を無駄遣いするわけにもいかず、私は攻撃の手を止めている。その間、ダークスーツは散発的に針型手裏剣を投げてくる。仕込んでいる数は向こうの方が多いらしい。 「はあっ……はあっ……」 さすがに走り回って息が上がり、展望デッキ入り口の扉付近に背中をつけて、ひと休み。幸い、一時的にだろうが相手はこちらを見失ったようだった。 ぎぎぃ…… 「……空良さん?」 「……ちょっと! 扉それ以上開けちゃダメよ、危ないから」 展望デッキの入り口の扉が、ほんの少しだけ開く。顔を覗かせているのは、おそるおそるという表情が相応しすぎる那岼だった。 いかんせん、自分のことで他人同士が揉めている手前、心配で様子を見に来たのだろう。 「隠れても無駄ですよ。そして、狙撃しようとしても無駄です」 展望デッキの奥の方から、ダークスーツの余裕の声が聞こえてくる。 「コンパウンドボウは発射音がしない暗器、なんて言いますが、あれは嘘ですね。滑車の音、弦の音……僕にはそれで十分なんですよ。いつ貴女の矢が放たれるのか、手に取るようにわかりますから」 そうか。滑車の音で射出のタイミングを測れるから、紙一重で回避することができたのか。私はそれを聞いて歯ぎしりする。 「どんだけ聴力がいいのよ。絶対音感も相対音感も鈍そうなのに。お互い様だけど」 私も聴力には絶対的な自信がある。しかし針型手裏剣は、服の摩擦音ぐらいしか音がない。波の音が絶えず響く、船上で聞き取るのは難しい。 こんな地味なピンチでも軽口を叩いてはいるが、かなり不利なことには変わりがなかった。いっそ、至近距離から格闘で……と思い始めていたのだが。 「ええっと空良さんのそれ、音が相手に聞こえるから不利ってことですか?」 「そうみたいね。コンパウンドボウの滑車音を聞き取るなんて、そんな相手は初めてよ」 「うーん、ということは、その滑車音ですか? それを消しちゃえばいいんですよね?」 理屈ではそうだけど。 「できもしないこと言わないで。腹立たしい」 私は那岼岼に苛立ちを隠そうともしない。そもそも、飛び道具同士の攻防なので、流れ手裏剣とかが飛んでこないうちに、さっさと避難して欲しいのだけど。 「滑車音を、別の音でマスキングしてしまえば、聞こえないんじゃありません? なら、私が滑車音をマスキングして差し上げます」 「えっ……?」 入り口扉の方を見ると、なにやら陰で那岼がごそごそしているのが見える。まさか。 「危ないから! こんなところで演奏しちゃダメ!」 「扉の陰になっていますから。楽譜も要りません。なくても弾けるぐらい弾き込んだ、わたしの得意曲です……お願い空良さん、わたしを救って……!」 一瞬の間を置いて、扉の間から、ヴィオラの音が聞こえてきた。ホントに弾き始めちゃったわよ、この娘。 ――単調なハイテンポではない、力強くも妖艶さを秘めた、絶妙な緩急のリズム。伸びやかで大胆なストリングの旋律は、心にスッと入り込み、魂の蝋燭に炎を灯す―― 「ヴィオレンタンゴ……!」 繊細かつ力強さに溢れるピアソラの名曲は、確かに那岼の得意曲と呼ぶに相応しい。その軽快なリズムに勇気づけられるようにして、私は展望デッキの最上階へと向かう階段を、ヴィオレンタンゴのマスキングを活かすべく、気配と足音を極力消して再び駆け上がる。 ――見つけた! 駆け上がったその先に向けて、私は一気に弓を引き絞る。夜風が一瞬だけ強く吹き、短い髪とスカートが、ヴィオラの旋律を乗せた風になびく。 風に気を取られて、ダークスーツが後ろを向こうかという刹那。私はダークスーツをめがけて、矢を解き放った。 「……えっ!?」 展望デッキを、ほのかに流れるヴィオレンタンゴ……優しくも華やかなストリングの音と、死を運ぶ無機質なストリングの音とが交錯する。そして命の音は死の音を消し去り、完全にダークスーツの不意を突いた! 「うわっ」 矢は、ダークスーツの振り向いた上着の襟を貫くように掠めると、ダークスーツはバランスを崩して、甲板に転倒する。 再び矢をセットしながら、私はダッシュして一気に間合いを詰め―― 「勝負あったわね。観念なさい」 尻餅をついた姿勢のダークスーツの、凝視すれば若干膨らんでいる気もする胸元に、私はコンパウンドボウの矢先を突きつけたのだった。 「射殺すの? 僕を」 「そこまでする気はないわ。ただ、まだ抵抗するなら」 ダークスーツの誰何に、私は胸元にポイントした矢先を、少し下……両脚の根本の中心に向ける。 「金輪際、恋愛もできず母親にもなれない身体にしてあげる」 「フン……それなら別に構わない、ほら、やるがいいよ!」 ダークスーツは、尻もち姿勢のままコンパウンドボウを掴もうとする。私は目を怒らせながら、再び胸元に矢先を強く突きつけると、さすがにダークスーツはその手を引いた。 「あなたねぇ……なんて強情な。そもそも、トランスジェンダーでもなさそうなのに、なんで男装女子なんてやってるわけ? どうせ聞き返されるから先に言っておくけど、私は男として生きることに希望を失ったから、よ」 自分が女装男子の理由を、先手を打ってさらりと言ってのける。ダークスーツは、私の目から視線を逸らさず、しばらく黙っていたが。 「……僕は、女らしく生きたくても、人生みんな賭けても好きな人と、男女としては結ばれないと悟り、なら男としてでも生涯寄り添おうと思ったから……よ」 意外と素直にしゃべった。そういうことなら、そりゃご主人様のために命を張ろうというものなのだろう、と少し納得がいく。 「なるほど。でも那岼さんとの婚約がご破算になったら、ちゃんと貴女のマスターに男女として向き合えば、それなりに目があるんじゃないの?」 私はずいっ、とダークスーツに顔を近づける。顎から鎖骨にかけてのライン、ナチュラルメイクをきちんとしているあたり、所詮は作り物の男という感じは拭えない。 「……フツーに女の子に戻れば、貴女じつはモデル級の美人そうじゃない。男なんて間抜けで単細胞な生き物なんだから、その気になれば籠絡できちゃうわよ」 「そ、そんなこと考えたこともないから分からない! そもそも、女装してても男の貴方が、男はマヌケで単細胞とかよく言える」 そう言いながら、徐々に赤面していくダークスーツ。うーん、中身は男の私が言うからこそ、抜群の説得力だと思うんだけどね? ふーん。それならこうしてやるか。ショック療法だけど、外傷なしで何とかするには、この際仕方ない。 「私は矢ヶ崎空良。貴女、名前まだ聞いてなかったわね」 魔女みたいに意地悪そうな表情をしながら、私はダークスーツの名前を問う。 「ぼ、僕は神前瑞希……いまさら、名前なんて」 「とても大事なことなのよ。なぜなら」 私は、近づけたままの顔を、さらに大きくダークスーツ……瑞希に近づけ。 「ンッ……!」 私の意地悪たっぷりな瞳と、瑞希の大きく見開いた瞳とが交錯する。 波の音だけを背景に、数秒なのだが数分とも錯覚するような、刻が流れた。 「……男としての神前瑞希くんを殺した、最初で最後の女の名前が、矢ヶ崎空良だからよ」 私はコンパウンドボウのリリーサーを外し、じゅるっと少し音を立てて右袖で口元を拭った。 うわっ気持ち悪っ……中身は女だと頭では分かっているけど、見た目が男とキスせにゃならんとは……しかも舌まで絡むし。お口のエチケットも欠かしていないのか、微妙にミント味したけど、そんなの関係なしでもう二度とやんないこれ。 「貴女は、私みたいに人生諦めるにはまだ早すぎるわ」 再び顔を近づけ、めっちゃ泣きそうな瑞希の視線から逸らさずに……さすがにちょっと可哀想なことしたかな、と思いつつもここは心を鬼にして。 「内に秘めた自分の想いを叶えるために、まずは足掻いてみなさい。那岼さんから、貴女はもう一度足掻くことのできるチャンスをもらえるのだから。 それでもダメなら仕方ない。そういうこともあるでしょう。 しかし、その足掻いたことこそ。貴女が次なる想いを抱いたとき、想いを叶えるための大きな力となるはずよ。きっと、ね」 瑞希は私の声に応えるようにして、咽び泣きながら首を立てに何度も振る。悲しみよりも感極まったその様子は、それまで内に抑えていた感情が爆発してしまったのだろう。 男としてのダークスーツの神前瑞希は、もうそこにはいなかった。 「……空良さんのヘンタイ。いっくらなんでも、他にやり方なかったの?」 後ろから一部始終を覗いていたらしい那岼から、ジト目で背中にかけられた冷たい言葉は、さすがに少し痛かった。
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