ストリング・クロス
第一幕 夕暮れ

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「うん、美味おいしいわ」  柔らかさを損ねず、旨味を封じ込めた焼き加減……ビュッフェ皿から口に運んだ、ポークカルビの炙りを、私は決まり文句で評した。  夕方出港、明後日の昼には目的地につく、国内航路の船旅。定期航路の客船で出しているビュッフェということで、とりあえず満腹になれば御の字だろう――と大して期待はしていなかったのだが、これは期待より少し上の味と言ってよかった。 「スパークリング清酒か……ま、相性は悪くないわね」  それなりに酒を嗜む私にとっては物足りないが、口当たりの軽やかさと微炭酸の爽やかさは、軽食にはむしろ丁度いい。 「さて……船旅といっても」  ビュッフェ皿を片付けて、レストランスペースを出る。木目を基調とした階段が目を引くエントランスには、出港して間もないせいか、多くの旅客が往来している。 「丸二日近くも、一体何をすればいいのやら」  そう。色々と暇つぶしスペースは用意されているとはいえ、ひとりの船旅は結構暇を持て余すのは、目に見えていた。旅慣れてはいるつもりだが、のんびりとした移動手段たる船旅は、ほとんど経験がない。 「ラウンジ、ねぇ」  しばらく船内を目的もなく巡っていると、船尾近くにあるラウンジスペースから、軽快な弦楽器の音が漏れ聞こえ始めていた。私は引き寄せられるように、ゆっくりとラウンジの入り口をくぐる。  聴衆は六割方の埋まり具合といったところで、思ったよりもまばらだった。しかし前方で聴くのも気が引けた私は、最後方の一人掛けソファに腰掛ける。  クラシックとタンゴを中心とした、一〇曲ほどの五線譜の世界へ、ぼんやりと浸っているうちに、予定されていたプログラムが全て終わったのか、深々と頭を下げる演奏者。  心の中で目を細めながら、女性離れした力強さと、女性らしい繊細さ。そして確かな技術が織りなす、弾きっぷりの良さが耳目の印象に残った女性演奏者に、私は拍手を送る。 「ありがとうございました……まだ少しだけお時間がありますので、お客様でご所望の曲がありましたら、お弾きしますけど、いかがでしょうか?」  白を基調とした衣装から、スラリと伸びる健康的で艶やかな手脚。やや茶色に染めた長い髪を後ろで結んだ、まだ若そうなその名も知らぬ演奏者は、マイクスタンドを引き寄せる。 「ええっとですね、クラシック以外にも、結構いろんな楽曲をご用意していますよ」  演奏中の堂々とした弾きっぷりの良さからは信じられないほど、やや猫背気味で自信なさげな雰囲気が漂う様子と、アンコールの要望はなかなか上がってこないため、少し気まずい空気に私も眉をひそめた。  仕方ない。  私は記憶の倉庫から、聴き応えがあり、かつ誰もが親しみのありそうな名の通った曲を物色する。 「情熱大陸」  ほんの少し間を置いて、私が最後方の席から上げた声は、凛としてきちんとラウンジ内に響いていた。 「情熱大陸を所望するわ。貴女あなた、弾ける?」  私が選んだのは、弦楽器でよく演奏される定番曲。ラウンジにいる人で、気づいている人はどれだけいるかは知らないが、あの名も知らぬ演奏者が弾いているのは、ヴァイオリンではなくヴィオラなのだ。伴奏はピアノのみ、プロのヴィオリストの独奏など、そうそう耳にできるものではない。 「ええ、弾けますよ、譜面はあるはずだけど……ねえ、そっちはある?」  独り言、伴奏ピアニストへの声かけ、譜面をぱらぱらとめくる音が、ラウンジに響く。お嬢さん、マイクが入りっぱなしだってば。 「あ、ありました……では、奥の黒いワンピースとショートヘアが素敵な淑女様からのリクエスト、『情熱大陸』で、本日最後の演奏とさせていただきます」

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