ストリング・クロス
第五幕 夢のあとに

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「こうやって、生きてる」  船室の天井をじっと見つめたまま、私は静かに、噛みしめるように口を開いた。 「……伎芸天ぎげいてんが消えてしばらくすると、私は病室の天井を、今みたいに見上げていたわ。  命は助かったけど、当然あちこち痛めていてね。半年後に退院するとき、病院の待合エントランスでひと言交わして。私が絃英いとえを見た、それが最後」 「……雪原さん、空良そらさんに気づかなかったんですか? 本当に?」  聞いて那岼なゆりは目を丸くした。そりゃそうだろう。伎芸天の話の下りなど、ただの夢か妄想を見ただけに過ぎない、と思うのが普通なのだから。  ――病院エントランスのソファに座り、薬が処方されるのを待っていると、横に女性が一人座ってきた。エントランスは、受付待ちの患者や付添人で溢れている。かなりの数があるソファや椅子も、大部分が埋まってしまっていた。 「……」  横に座っていたのは絃英いとえだった。同じく薬の処方待ちらしい。  とさっ  手に持っていた小さなカバンを、私はわざと床に落とした。  確かめてみたかったのだ。伎芸天ぎげいてんの言葉を。 「あ、すいません」  足へ軽く当たったカバンに、絃英いとえは視線を落とす。とっさに私はカバンを拾い上げると、ファスナーに付けていた小さな熊のぬいぐるみが、ちょこんと揺れた。 「いえ。お気になさらず」  見慣れた穏やかな表情。  しかし、社交辞令の言葉とその視線は、まさに知らない他人を見るそれだった―― 「そして、私は何も感じなかった。これは哀しいことなのだと認識できているはずなのに、悲しみの感情すら湧いてこない……それだけで充分、察しはついたのよ。伎芸天ぎげいてんの言葉は本当なのだと。  ……もう、人生諦めて世捨て人になろうってね。男らしくとか、男として生きることにすらうんざりした、ということ。私の昔話は、これでおしまい」  私は、ゆっくりと上体を起こす。昔話をしているうちに、朦朧気味だった意識もしっかり戻っていた。 「無理しちゃダメですよ」 「……もう大丈夫。ありがとう、那岼なゆりさん。  反射性の失神、これ伎芸天ぎげいてんの呪いに強く抗おうとしたときに起きるみたいで、ね。PTSDも完治して、怪我前より病気も一切しない身体には確かになったけど、とんだオマケをつけてくれたわ」  冷水の入ったペットボトルを手に、ベッドの側へと寄る那岼なゆり。私は冷水を右手に受け取ると、栓を開けてひとくち飲んだ。 「うん、美味しいわ」  私は、那岼なゆりも既に聞いたことがあるであろう、口癖のような台詞を呟く。 「……なんてね。実は嘘。  今の私は、美味しいと感嘆することも、音楽で感動を覚えることも、もはやできないのだから」 「でも、きっと美味しいものであり、そして素敵な演奏なのだろうと……儚くも、しかし強い意志をもって信じようとしている」  私の言葉に、那岼なゆりは静かな言葉を続けた。 「……わたしはヴァイオリンもヴィオラも弾けますが、本格的にヴァイオリンを始めたのが十六歳。ヴィオラの習得を始めたのが、大学生になってから……空良さんほど壮絶ではないですが、わたしもちょっとだけ色々ありましてね、人生挫折を味わってるんですよ」  それを聞いて、今度は私が目を丸くする番だった。演奏者にとって、それはちょっとどころの挫折ではない。  楽器は大抵が幼少期から英才教育、というのが一般的なのだと思うのだが、那岼なゆりの弦楽器のキャリアは十年そこそこでしかない、ということなのだ。  少々の天才程度の才能なら、致命的ともいえるそのハンデ。那岼なゆりはそれを跳ね返すほどの、類い稀なる音楽センスの塊なのだろうが……同時に、那岼なゆりがどれほどの壮絶な努力を重ねてこの場にいるのか、察するに余りあった。  ピピッ、ピピッ 「あ、もうこんな時間」  那岼なゆりのスマートフォンから、通知アラームが鳴る。 「スタンド演奏の準備に行かないと……スタンドでの演奏が終わったら、そのままラウンジ演奏の準備にも入ってしまいますので……」 「私はもう大丈夫。もう少し休んでから、あとでビールでも片手に聴かせてもらうわ……といっても、こんなお話した後だし。私に聴く資格あるかしらね」  スマートフォンをしまい、壁に立てかけてあったヴィオラケースを背負うと、那岼は再び私の方を振り向いた。 「演奏を聴いてくださるということは、限られた人生の時間の中で、その時間の一部をわたしのために頂戴している、ということに他なりません。  聴いてくださることへの感謝の気持ちだけは、決して忘れないようにしています……待っていますね、空良そらさん」 「ありがとう、那岼なゆりさん」  那岼なゆりは私の言葉に、えもいわれぬ表情をして軽くひとつ頷くと、ドアノブに手を掛け、部屋を退出しようとする。 「わたしと空良そらさん、似たもの同士かもしれないですね」  ドアを開けながら、振り向いて那岼なゆりは少し悪戯っぽく微笑んだ。  ラウンジは、昨晩より明らかに聴衆は多かった。わずかに満席まではいかないが、九割程度は席も埋まっているだろうか。  軽食スタンドで、夕方前にこなしたミニコンサートはクラシックが三曲。ラウンジ演奏のプログラムは、前夜と同じ一〇曲だった。  うち五曲は同じだが、残りは別の曲目へと入れ替えている。五線譜の世界へ、再びぼんやりと浸る。  ――はて。  昨晩の演奏よりも、那岼なゆりの演奏はより研ぎ澄まされているのは、気のせいだろうか?  最後の曲、フォーレの『夢のあとに』を弾き終わると、ラウンジは大きな拍手に満たされた。右手を胸元に当て、ゆるりと一礼する那岼なゆり。  最後方の席から見るその景色を、私は穏やかな気持ちで見ることができた。  演奏が終わり、ラウンジの出入り口は笑顔の人々で溢れかえる。那岼なゆりに声だけは掛けようと、ラウンジのソファから動かず、他の聴衆が退出するのを静かに待っていた私だったが―― 「……ん?」  那岼なゆりと最後に話していた男性二人。那岼なゆりと話す片方の小柄なダークスーツは知らないが、その後ろに控える、もう片方のガタイが大きい男には見覚えがあった。 「確か、昨晩の酔っぱらい……仕方ないわね」  私は実にメンドクサそうな嘆息をつきながら、ソファから立ち上がると、早足で那岼なゆりの方へと向かう。 「那岼なゆり様、どうかお聞き分けください」 「いやよ、どうせわたしを弓弾き人形ぐらいにしか思っていない人のところなんか嫁がない!」  ……様とか嫁ぐとか、なんか途方もなくメンドクサさが漂う単語が聞こえてくる。那岼なゆりも年頃だろうし、彼女は伴侶に選ばれるのではなく、伴侶を選ぶことができる器量良しだとは思うが……それはともかく、これは普通の会話じゃないわね、と眉をひそめる私。 「……貴女は先にここを出た方がいいわ。ここは私が何とかします。五分を過ぎても私か那岼なゆりさんが戻らないようでしたら、船員さんに助けを求めてください」  私は先に、戸惑うばかりの伴奏者のもとへ行き小声で囁く。伴奏者はすいません、と少し申し訳なさそうにラウンジから退出する。 「痴話喧嘩なら船降りてからやったら?」  両腕を組み、仁王立ちになりながら横から大きな声を上げる。ダークスーツの敵意剥き出しの視線と、那岼のすがるような視線が私に集まる。 「部外者のくせに、首突っ込まないでもらえませんかね?」 「部内者ごときが、偉そうな口叩いてんじゃないわよタコ頭」  ダークスーツの言葉に、私も真っ正面から応戦する。 「私は那岼なゆりさんのファンですけどね、知識の浅そうなファンを部外者呼ばわり邪魔者扱い、疲れている出演者のことはまるで考えず、自分だけ楽しめればオッケーで労いの言葉も礼儀もない……あーあ、これだからマニアは困るのよね。『すべてのジャンルはマニアが潰す』っていう格言知らないの?」  敢えて一気に、責めるようにダークスーツへ言葉の猛射を浴びせる私。メンドクサそうな人が来たと思われればしめたもの、さっさと退散するだろうと思われた。  が。 「うるさい女ですね……僕は那岼なゆり様のファンとかそういうのではないんですよ。もちろん口説いているわけでもありません。真面目なお話をしているので、ちょっと黙っていてくれませんかね?」  やや無雑作感のある黒いマッシュショートヘアをした、歌劇団の男役のような美丈夫の、視線と口調に込められているのは、呆れと怒り。  ――引いてはいけない。  私の直感は、そう告げていた。 「この人、両親同士が決めた婚約相手の、相手方のお家の秘書さんなんですよ……わたしに嫁ぐ気がなくて、幾度も話し合いを持ちましたが平行線で……ももう何年も断り続けているので、無理やり連れに来たんです」  那岼なゆりは少し怯えたような口調で、私の背中の後ろにそっと身を隠そうとする。こら勝手に私を楯にしないの。別に構わないけど。  しかし、那岼なゆりが転々と全国各地の仕事を受けているのは、そういう事情だったのかと少し察しはついた。 「那岼なゆりさんが逃げ回るほど本気で嫌がってるなら、無理やりは良くないんじゃない? そんな結婚はお互いに不幸だわ。  結婚するもしないも、最後の決め手は本人の意志よ。女性にとって、結婚だけが人生ではないでしょう?」  私は左手を腰に当て、敢えて少し呆れたように返す。とはいっても、中身は独身男の私に、結婚やその先に待つであろう出産や子育ての苦労と尊さが、分かっているはずもないのだが。 「そ、そんなこと僕だってわかってます。ただ、我が主人の望むところ、それを果たすのが僕の務めです……相手があばずれとはいえ、正直女性に手荒なマネはしたくないんですが」  ダークスーツは、上着の内側に手を伸ばす。ちょっとちょっと、こんな場所で殺しはプロの仕事じゃないわよそれ。  びゅっ  有無を言わさず、ダークスーツの右腕が伸びる!  ぱしんっ 「なかなか仕事熱心なことだけど、那岼なゆりさんの目の前で血はダメよ、絶対」  蛇のように伸びてきた右腕を、私は左手を伸ばして難なく引っ掴む。掴んだ腕先、ダークスーツの手には、鉄串のような針状の得物が、鈍い光を放っている。 「……っ! 何者!?」  命のやりとりは慣れている私のこと。涼しい顔で、震えるダークスーツの右腕を掴んだまま、私は右手の親指を立て、ラウンジの大時計を差してみせる。 「深夜三時に展望デッキ。サシで話し合うのはどう?」  私は突き放すように左手を離す。ダークスーツはこちらを睨んだまま、凶器を懐にしまった。 「……フン、いいでしょう」  この場は不利と判断したのか、上着の襟をピンと引き、不承不承ながら頷くダークスーツ。 「しっぽ巻いて逃げるなら今のうちよ」  立ち去るダークスーツと大男の背中に、私は声を掛ける。振り向いて私達を一瞥することすらせず、二人はラウンジから立ち去っていった。 「空良そらさん……」 「あー久しぶりだわ、男の子っぽいことしたの……どう? ちょっとは格好良かった?」  不安そうな様子を隠しもしない那岼なゆりに、私はあっけらかんとした声を上げた。 「……ばか」 「ふふ、褒め言葉と受け取っておくわ。こういうの、私の生き方に相応しいから」  私は泣きそうになる那岼なゆりの顔に手を伸ばそうとして……思いとどまるように、手を虚空で止めた。  手を伸ばせば届くほど距離は近い。でも、それは決して手を伸ばしてはならない宝石――

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