ストリング・クロス
第七幕 届け、心に
「これ、お渡しくださいな」
翌日の昼過ぎ。
入港した客船は、下船の準備で慌ただしさに包まれている。私も荷物をまとめて客室を引き払い、船内で下船の案内を待っているところだった。
那岼はこの船で最後の仕事、下船の演奏が控えている。その準備の時間を縫って、瑞希に一通の手紙を渡していた。
「……はい、承りました。那岼様、お元気で」
「ありがとう。貴女もこれからは、素敵で強い女性として、前を向いて生きてくださいね」
二人は軽く握手をする。瑞希は黒革のカバンを持ち、大男を脇に連れて那岼の側から去っていった。
「私も行くわ」
二人の姿が見えなくなった頃合いに、荷物を手に持ち、私も那岼の側へ寄り添い声を掛ける。
「空良さん、本当に色々ありがとうございました」
「ええ。那岼さんのおかげで、退屈しない素敵な船旅になったわ……ああそう、これは念のため渡しておく」
メモ用紙に書いた住所と、数枚の札を入れた小封筒を、那岼の右手に私はそっと載せた。
「ひとつひとつのステージ、ひとつひとつの演奏が、那岼さんの納得できるものでありますように」
これ以上頑張れないぐらいに、那岼が常日頃頑張って生きているのを感じている私の、頑張れの代わりとして贈る言葉。
私と那岼は、お互いの瞳を正面から見つめる。
「空良さんの、その想いでわたしは十分に頑張れます……ですから、約束してください」
時計の鐘が鳴る。そろそろ話す時間もなさそうだった。
「今度、わたしが空良さんへ手紙と招待状を出したとき。女装ではなく男性として、私の演奏を聴きに来てください」
那岼は小封筒をポケットにしまうと、ヴィオラケースに手を伸ばし。
「……空良さん、これ差し上げます。お守り代わりと思ってくださいな」
ケースに括り付けられていた、小さいウサギの縫いぐるみの紐を解くと、それを私の右手に握らせた。
「わたし、空良さんの心にかけられた神様の悪戯を、きっと解いてみせますから。空良さんの心の扉を開く音を、きっと紡ぎ出してみせますから……ですから、そのときは」
そして那岼は、譜面台に楽譜をセットすると、再びヴィオラケースに手を伸ばし、今度はケースを開けて楽器を手際よく取り出す。数度、軽く音を出して演奏の準備を整える。那岼の仕事の時間だった。
「ええ。約束するわ……また、そのときまで」
譜面台へと視線を落とした那岼に、私はそう言うと、ウサギの縫いぐるみを持った右手を軽く肩の上で振りながら、船の下り口へと歩を進めた。
――幾つかの、季節が過ぎて。
森の中は、秋風に揺れる木々の、静かな自然の音が支配していた。
大自然の合奏のお邪魔をしないように。私はゆっくりとボルトアクション銃を構え、標的へ照準を合わせる。軍用狙撃銃なら、実際に前の仕事でも使ったことはあるが、民間用のボルトアクション銃は、やはり勝手が違う。
気づくなよ、気づくなよ――
チチチ……
小鳥のさえずる音が鳴り、標的がピクン、と反応して駆け出そうとする刹那。
パゥンッ!
私は銃の引き金を引く。サイレンサー付きの狙撃銃より、当然だが派手な音が鳴る。
「仕留めた!」
鳥が一斉に飛び立つ音にも負けないよう、私は大声で周囲へと知らせる。
「おー、やっただな!」
オレンジ色の帽子のゆがみを少し直しつつ、私は銃を手にしたまま、仕留めた獲物のところへと歩み寄る。
標的は、スラッグ弾に頭を撃ち抜かれ、大地に倒れていた。
「なかなか大物のクマですね」
「んだんだ。いっつも百発百中だなー、空良くんは。こいつは、山ん中で人さ襲ったりしてた、噂の凶暴なクマに違いねえ。これでみんなも安心できるだよ」
「ありがとうございます。運がいいだけですよ」
猟友会の人生諸先輩方と一緒に混じり、私も仕留めた獲物の運び出しにかかっていた。
猟友会の仕事を終えると、草色オフロード軽四駆のハンドルを握り、私は慣れ親しんだ家路についていた。
人並みの庶民的生活をするなら、一生食える程度のまとまったお金は――当然、暗殺稼業はマトモなお金ではないのだが――すでに手に入れていた。
祖父母が遺してくれた、ド田舎で広い先祖代々の故地に帰り、一人暮らしには十分な設備の整った、小さいが新しい家を建て、零細農家というか自給自足に近い生活を、ここ数年送っている。
那岼に出会うまでは、隠遁生活と呼ぶに相応しい無気力生活だったが、那岼との邂逅の後は、スローライフと呼べる程度にはなったというべきか。
地元の猟友会に入ったのも、およそ一年前。那岼と出会った直後のことだった。
さすがにコンパウンドボウだけで裏社会はやっていけない。私は狙撃銃の扱いも慣れているのと、猟銃所持免許を取得済みだったこともあるが、最近は若い猟友会員が少ないようで、すんなり受け入れてくれた。
銃を撃ち、生き物を殺す。殺す相手が人間ではなくなったことと、獲物はありがたく食すること。そして報酬が大金から雀の涙に変わっただけで、相変わらず業が深いことをしていると思うのだが、それでも獣被害で困っている農家の皆様から、心の底から感謝の言葉を頂戴する。
これは新鮮だったし、鍛えた技が、目に見える形で人の役に立っている充実感は、善良とは言えないだろうが悪い気分でもなかった。既に地獄落ち完了の身の上、開き直っても構うまい、といったところか。
「さて、今夜も一杯やって寝るかね」
車をガレージに止め、郵便受けを適当に開ける。怪しい広告ダイレクトメールすら滅多に届かないようなこの田舎に、珍しく一通の封筒が入っていた。
夏は暖房、冬は冷房。春夏秋冬で、気候のメリハリが明確であるが故に、古都では文化がいにしえより華開いたという。
一ヶ月前、家に届いた一通の封筒。中身はチケットが一枚。内容を紹介したフライヤーが一枚。そして……那岼からの一筆書き。
『空良さん。約束。聴きに来てください』
恐ろしいぐらい、シンプルにひと言だけ。しかし故に、那岼の自信と覚悟の程も感じることができた。
「MerryMaking! CLASSICねぇ。ずいぶんと斜め上を攻めた催しだこと」
招待されたコンサートの前日。会場に近い旅館から古都の秋、風情ある夜景を眺めながら、私は改めてフライヤーに目を通していた。
フライヤーのイベント紹介によると、弦楽器をメインパートに少数の管楽器・打楽器・ピアノを加えた、全員合わせて三〇人の編成で行うコンサートのようで、加えてシークレットゲストが二名ほど出演するという。メンバー紹介に、ヴィオラパートのひとりとして、那岼の写真と略歴紹介がしっかり載っていた。
ひとつの楽器パートで、様々な国内外のコンクールで金賞や銀賞を受賞してきた若手演奏者が、全国からン百名ほど集まり、数枠または一枠をオーディションで競ったらしい。上位入賞歴がなかったり、コンクールのグレードが低い受賞者は一次書類選考で落とされているというから、応募総数は千人に迫ると思われた。
「何、そのエグすぎるチャンピオンズトーナメント。那岼さん、よくもまあ残れたもんだわ」
読んだ瞬間、私の第一声はそれだった。ここまでくると、もうほとんどオーディションは各楽器の天下一決定戦の様相を呈していたことは、想像に難くない。
通常のクラシックコンサートの常識を見直して、ひと味違った楽しみ方をコンセプトに、お祭り騒ぎ気分で楽しむエンターテイメントなクラシックコンサート、という試みらしい。
どうしても、クラシックコンサートは堅苦しくフォーマルなもの――実際そうだし、そこはそこで良い部分があるけど――というイメージが強い。いささか楽器生演奏に縁遠い人には、敷居が高そうに見えるハードルを、力業で少しでも下げて、一人でも多くの人に聴いて欲しいというイベント意図が感じられた。
大手レコード会社が主催して広告を打っているだけあり、古都で最も大きなコンサートホールは、早々に全席完売と相成ったとか。
「よかったね、那岼さん。貴女が望んでいた、生演奏を聴く機会に恵まれない人々に、少しでも興味を持ってもらえる大チャンス。見事にとっ掴まえたね。今夜はちょっと早いけど、おめでとうの乾杯しようか」
古都に近き、いにしえの銘水で造られた、一番上等なシングルモルト古酒の栓を開ける。もう滅多に手に入らない、とっておきの銘酒なのだが。
「那岼さん、私が持ってる二本のうち、一本は私に頂戴な。もう一本は貴女にあげるけど、浴びるように一気に呑んじゃダメだよ?」
私は、グラスに濃く澄んだ弁柄色を満たしていく。うん、今夜はダブルでいってしまおう。
「じゃ、乾杯」
天空から注がれる自然の光と、大地を満たす文明の光に彩られ、鮮やかに輝く弁柄色を眺めてから、私は中身をくいっと呷った。
喉を通り、胃へとたどり着いた熱い塊。喉を逆流し気道を通り、鼻から抜けるその香りは、芳醇もここに極まれり。
「うん、美味しい」
絶対に感動をすることができない報いを受けている私。しかし、ほんの僅かだけ。感じるというレベルですらないほど僅かに、感動を覚えたような気がしていた。
古都の秋、多くの人々の往来に紛れて、私はコンサートホールの入り口をくぐった。
「へえ、こういう作りか」
入り口から受付ゲートまでは、硝子張りの少し長い廊下を歩く。多くの老若男女に紛れながら、受付ゲートでチケットを入り口係員に渡し、さらに少し奥へと進んだ、出演者へのプレゼント受付へ。
「こちらを、本日ご出演なさる、笠舞那岼様に」
ワインバッグに入れたシングルモルト、そして花束を受付係員に渡す。
「お預かりしました。確実に笠舞様へお渡しいたします」
「ありがとう、頼みます」
イベント慣れした、礼儀正しさが心地よい受付係員に礼を言うと、ホールへと入る前に、少し周囲を見渡す。
「華やかだな」
数多くのスタンドフラワーが、ホールの入り口前にびっしりと並べられていた。開演時間までは少し時間もあるが、早めに私はホールの中へ入り、座席を確認。
「那岼さんの意地悪……私には勿体なさすぎる席」
彼女が用意してくれたチケットの座席は、ほぼ真っ正面の前から二列目。ハッキリいって特等席に等しかった。
小さな熊とウサギの縫いぐるみをつけた革鞄を足許へ置き、私は着席して開演を待つ。
緞帳が上がると、もはや全面背景と化している超大型スクリーンを軸に、デジタルと光を駆使した演出のもと、雛壇にそれぞれ乗り、黒地ベースの衣装で統一された演奏者が、予定されていたプログラムを開始する。
元々はポップスのライブを得意とする主催会社なだけあって、強みであるポップスの演出フォーマットをベースに、クラシックコンサートの要素を取り入れた、という方が近い演出なのかもしれなかった。
比較的耳慣れたクラシックの名曲を、メドレー方式で演奏が続く。繋ぎの違和感がないようにうまく編曲してあるあたり、メドレーがまるで元からひとつの曲だったのでは、と錯覚するような編曲の妙と聴き応え。
メドレーが終わると、四曲ほどソロも交えた単曲のプログラムに。時折混ざるソロの演奏は、確かに巧いと唸るレベル。さすがは若き王の中の王、女王の中の女王しかいない編成なだけはある。
――そういうことか。
演奏を聴きながら、私は那岼がこの席を用意してくれた意味を、ようやく悟る。
私の席からは、どんな演出であっても、必ず三段からなる雛壇の最上段にいる那岼の表情が、一瞬たりとも隠れずに必ず見える。奇跡の産物と呼ぶに相応しい、絶妙な位置。
――楽しそうだな、那岼さん。
もちろん真剣な表情なのだが、変な緊張ではなく気持ちよさそうに、思う存分自信を持って弾いているのが、見ていて伝わってくる。
たった一年、されど一年。客船で初めて逢ったときから、さらに相当な修練と場数をこなしたのだろうと想像できた。
休憩は、やや長めの時間が取られていた。楽器の演奏はおしゃれな肉体労働である。衣装替えや次の演出の準備も大がかりなのかもしれないが、かなりハードなプログラムだけあって、演奏者のリカバリー時間も多く必要とするのだろう。
「お兄はん、都の人ではおまへんでっしゃろ?」
手洗いから席に戻ると、隣席の見知らぬ老婦人から声を掛けられた。
「ええ、遠いので前泊で今日は来ていますけど……」
「熱心なことどすなぁ。弾いとる人が聞おいやしたら、えらい喜ぶでっしゃろ」
「招待された身の上ですから……後半、始まるみたいですよ」
阿吽の雑談をしているうちに、再び緞帳が上がりはじめた。
後半プログラムを素早く確認。息抜き的な意味合いだろうか。最初だけ、クラシックではない曲が、一曲だけ盛り込まれているようなのだが――
「ちょっと、これ」
私の本当に小さな驚きの声とともに、会場は照明が落ちて暗くなる。
そして、超大型スクリーンに映し出された文字。
――夢を見ている。きっと私はいま、夢を見ている。
《EnglishMan in NewYork》
《Secret-PianoGuest:Itoe-Yukihara with Viola:Nayuri-Kasamai》
「スティングの名曲、イングリッシュマン・イン・ニューヨーク。
歌詞には、ニューヨークで暮らす英国人の、異邦人として孤独と悲哀を感じながらも、誇り高くあらんとする生き様が綴られています」
事前にアフレコされたものだろう。本当に久しぶりに聴く、絃英の声が、会場中にスピーカーを通して流れる。声に合わせて、字幕のようにスクリーンに文字が次々と映し出される演出。
「初めて足を踏み入れる、生演奏の音楽を聴く世界。
そう、この曲の英国人のように、見知らぬ異国にいる異邦人のような心地で、会場に足を踏み入れられた方が、きっと多いと思います」
続いて、那岼の声。初めて逢った船内ラウンジのときとは別人の、自信と優しさに満ちた、信念が込められた、力強い声。
「でも、貴方はひとりではありません。
この曲の異邦人のように、孤独や悲哀に苛まれることがないように。初めて訪れる貴方も、楽曲に詳しくない貴方も、純粋に聴くことそのものを楽しんで、心穏やかで誇り高きオーディエンスであって欲しい。その願いを込めて選んだ曲です」
『全ての演奏者の、心優しく聴いて下さる皆様を想う心を、感じながら聴いていただければと思います』
そして、最後にふたりの声が合わさった言葉とともに、ステージにスポットライトが当たる。
絃英を除く出演者は、那岼も含めて、ヴィクトリアンスチームパンクの渋く煌びやかな、そしてクラシックコンサートとしては型破りな衣装に身を包んでいた。
そして、演奏が始まった。
――軽快なリズム感の中にも、深い哀愁を漂わせ、ときに燦めくような力強さを秘めた曲調。那岼の主旋律が際立つよう、極限まで突き詰めた編曲に仕立てられていた。
絃英の伴奏は、昔よりさらに優雅さを感じる旋律。そして那岼が紡ぎ出す主旋律は、彼女らしい凛としたダイナミックな力強さ、心地よいロマンティックな優しさに満ち溢れている。歌詞がなくとも音だけで、曲に込められたストーリーと、弾き手が込めたメッセージをアウトプットしていく……まさに、命を削って音を紡ぎ出していると呼ぶべきものだった。
――届け、心に! 扉よ、開け!
旋律の中に、那岼の心の声を、確かに聞いたような気がした。
曲が終わる。
那岼は満足そうで自信に満ちた、会心の微笑を浮かべながら、弓先をスッと真上へ向ける。天に座する神へ、どうだと言わんばかりに。
心臓の奥が、ほのかに痒くなるような感覚。全身が心地よく、頭の中をマッサージされているような、ほんわかと痺れるようにくすぐったい感覚。
ずっとずっと忘れていた感覚を実感しながら、会場の大きな拍手に混じり、私も拍手を惜しまなかった。
「かなヴィオリストはん、ほんまに思いん強い娘はんどすなぁ。
お兄はん、うちん負けどす。感動でけへん報いやけは解いておおいやしたさかい、せえだいかなヴィオリストはんに尽くおくれやす」
「……えっ?」
拍手に混じり、隣席の老婦人が、私の耳元で古都言葉をささやく。驚いて横を振り向くが、しかし老婦人の姿はそこになかった――
その後は、ド派手な演出の効いたクラシック名曲のプログラムが続き、興奮の中で閉幕した。トリックスター路線なやり方は賛否渦巻くのだろうが、これだけ盛り上がれば大成功と言っていいのだろう。
感動した。そう表現するしかない心地の中、私はコンサートホールを出る。席でしばらく感慨に耽っていたこともあり、もうロビーも人がかなり捌けていた。
「あの老婦人、あれはやはり……」
少し考え込みながら、ロビーの出口をくぐる。もう帰りの聴衆もほとんどいない長い廊下を、足取りも遅く出口へ向かう。
「ちょっと、ちょっと待ってよ!」
「……え?」
廊下に大きく響く声が、私の背中にぶつけられる。その声を間近で聞くのは、およそ一年ぶりだった。
「来て……来てくれたのね、空良さん」
膝に手を当てて肩で息をつく、ステージ衣装のままの那岼がそこにいた。
「あーこの衣装、猛ダッシュするとコルセットきつッ!」
「そりゃそうだろ。ヴィクトリアンスチームパンクの衣装なんて、まあこのコンサートの趣旨らしい、といえばそうだけどさ」
「わたしの趣味で選んだ衣装じゃないから」
「それは何となく分かる」
阿吽の会話とともに、ようやく息も落ち着いたのか、那岼はスッと立ち上がる。
「空良さん、男性の恰好だとこういう風なんだ……」
「もう女装はしてないから、いまはこれが普通。でも、よく後ろ姿で分かったね」
ネクタイを締めたカラーワイシャツにベスト、ノータックパンツという、ごく一般的なメンズ衣装を纏った私を見て、那岼は感嘆混じりの言葉を漏らす。
「……カバンの縫いぐるみ。見かけたら超特急で声かけてって、係員さんにお願いしてた」
「なるほど」
後ろ姿でも私と分かったカラクリを、平べったい目で説明する那岼。聞いて納得ではあるが。
「縫いぐるみつけてなかったら、どうするつもりだったのやら」
半分茶化すような言い方をした私だったが、それを聴いた途端、那岼の表情は一転して神妙な面持ちになり、うつむいて泣きそうな声を漏らす。
「絃英さんに伴奏を頼んだのはね、わたしの我が侭。空良さんにかけられた神様の悪戯を解くには、彼女の伴奏が必要だって思ったから。だからお願いした。
怖かった。彼女に伴奏をお願いするのは怖かった。でも、わたしはその怖さから逃げてしまったら、きっと神様は、空良さんへの悪戯を解いてくれないと思ったから。だからお願いした。
もし神様の悪戯が解けて、彼女が空良さんのことを思い出して、空良さんは彼女のことを選んで、彼女は空良さんのことを選んで、いまここに立っているのが、わたしではなかったら。
あるいは、縫いぐるみを空良さんが身につけていなかったら。あるいは後ろから、絃英さんが駆けてきたら……いまこの瞬間も、震えが止まらないぐらい怖い」
両手を胸元で合わせ、彼女は祈るような表情で次の言葉を絞り出した。
「でもね、そのときはそのとき。それが……それが、わたしと空良さんの運命なのだと。わたしに、自分の想いを叶えるだけの力がなかったのだと」
老婦人――伎芸天は、私の感動ができない報いだけを解くと言っていた。那岼の言葉から察するに、絃英はあのときと同じく、私のことを何も覚えてはいないのだろう。
それは、それでいい。絃英は那岼の代わりではないし、ましてや那岼は絃英の代わりでもないのだから。
しかし私ひとりのために、那岼がそこまで思い詰めて時を過ごしていたとは。彼女は人間が織りなす考え得る限り超絶技巧の舞台で、器楽の神と対峙すべく一年を過ごしてきたのだろう。
「空良さん、わたし達の……そして、わたしの演奏、どうだった?」
意を決したように顔を上げた那岼は、いまにも断崖絶壁から飛び降りそうな表情で、私の目を真っ直ぐに見つめる。
「うん、感動できたよ。本当に久しぶりに。神様の悪戯も解けたみたい。ありがとう、那岼さん」
真っ直ぐに彼女を見つめ返す私の答えは、淀みなく。
「……よかった。ありがとう空良、聴いてくれて」
彼女はうつむき、涙を隠そうとせず。
「……たとえ無数のファンに囲まれていても。どんなに多くの人から愛されていても。わたしがわたしの頑張りを最期の刻まで聴き届けて、見護って欲しい人は、たった一人」
再び意を決したように顔を上げると、那岼は私に……抱きついてきた。
「ちょっと、那岼さん」
「これからは『さん』づけしないで」
胸元から、ドキリとするような言葉が漏れてくる。
「わたしの頑張りを最期の刻まで聴き届けて、見護って欲しい、たった一人の人は貴方よ、空良」
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