ストリング・クロス
第二幕 夜更け

作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

 すっかり日も暮れて、月明かりをほのかに照らしながら揺れる海面と、澄んだ星空を眺めながら。私は、クラフト紙に包まれた円筒ボトルを軽く斜めに傾け、グラスに菜の花色の液体を少し注ぎ、くいっと呷った。  強めながら刺々しさのないアルコールの旨味と、ほんのりと広がる麦の甘みが心地いい。 「うん、美味しいわ」  幾つものテーブルと椅子が並んでいる、広々とした硝子張りの展望通路。私は椅子にゆるりと腰掛け、持ち込んだお気に入りの麦焼酎を、ちびちびと飲っていた。  いわゆる晩酌というか寝酒ともいう。寝るにはまだずいぶん早いけど。 「くはーっ!」  ――人が静かに呑んでるときに。  無粋な、明らかに酔っぱらいが発したものとしか言い様がない声の方を向いてみると。 「うまー、もう一杯いってみよー」  さすがの私も、あまりの見知った姿との格差に目を丸くする。脇にヴィオラケースを立てかけ、テーブルに左肘で頬杖を突きながら、右手で明らかにウイスキーボトルと思しき瓶を、かなりの急傾斜で傾けていたのは……ほんの二時間ほど前にステージの上にいた、かのヴィオリストの女性だった。  いやあの。銘柄まではわからないけど、ウイスキーって度数が四〇以上のものが大半だから。その量と勢いで呑んだら、そのうち記憶なくなるから普通。 「とても、大人のレディに相応しい呑みっぷりとは言えないわね、ヴィオリストのお嬢さま」  酒乱化する前に、さすがに止めた方がいいだろうと思い、私は冷水の入ったグラスを左手に持って席を立ち、彼女の横に移動。口に運ぼうとしていたグラスに、そっと右手で蓋をするようにして制止する。 「ちょっと……あ、貴女はさっきの『情熱大陸』の人」 「どういう覚え方されてるのよ」  私は即座にツッコミを入れつつ、右手をグラスから離しながら、斜め向かいの椅子へと腰掛けた。 「人がどういう呑み方してても勝手でしょ」 「その通りよ。私が、今日はひとりで呑む気分じゃないから。貴女と呑んだ方が、美味しいお酒が飲めそうだったからね」  チェイサーをテーブルに置き、私は落ち着いた声色で答える。まだ私が酔い潰れる量には程遠い。 「あら、ナンパしてるの? 名前も知らないお姉様?」 「ふふ、そうかもよ? 名前も知らないお嬢さま?」  二人でクスクスと笑みを浮かべながら、私は彼女からボトルをひったくり、マドラーを手にすると、マドラーを這わせるように、ゆっくりとチェイサーへウイスキーを少し注ぐ。 「……へえ、いっちょ前にシングルモルトじゃない。浴びるように呑むには、勿体ないシロモノね」  瓶のラベルを一瞥しながら、私は半ば呆れた声色を発する。慣れていない人は癖の強烈さに顔をしかめる、独特の香りの深さは、まさしくシングルモルト古酒の風格。庶民が呑むにはお高い値段がついている、明らかな高級酒だった。 「わぁ、なんてきれいなの……」  シトリンのように華やかな煌めきと、クォーツのように透き通った輝きとが、綺麗にグラスの中で上下に分かれている。私が即興で作って見せたウイスキーフロートに、彼女は感嘆の声を漏らす。 「お姉様、かなりの酒通ね」 「まさか。ただの腑抜けた酒好きよ……これだけの高級酒をくれるファンができた暁には、お礼も欠かさないようにして、大事にしておいた方がいいわよ。  あと、私にも今のところ矢ヶ崎空良やがさきそらっていう名前があるから」  右手に持っていたグラスをテーブルに置きながら、彼女へ名前を先に名乗る。 「そう、空良さんね。わたしは笠舞那岼かさまいなゆり」 「素敵な名前ね……那岼なゆりさん、今日はなにか嫌なことでもあったの?」 「え……なんで、そう思われたのですか?」  やや目を丸くしながら、真っ直ぐにこちらを見る那岼なゆり。 「呑み方の激しさから」  私は再び右手でグラスを持ち、ウイスキーフロート越しに那岼なゆりの瞳を眺める。 「シングルモルトウイスキー特有の強い香りと風味は、私達の文化の味覚としては、伝統的に本来ないものよ。風味を調整したブレンデッドと違って、浴びるように飲めるほど、呑みやすいものではないわ。  その香りの深さ、味わいの深さは、人が生きることの歓びと苦しみ、その人生の深さを、ぐっと呑み込んで味わい感じるようなもの。そう思っているからね」  静かに、グラスの中で揺れる二つの色を、目を細めて眺めていた私は、ゆるりと喉に流し込んだ。 「だから私は、ウイスキーは少しずつ、香りを感じながら噛みしめて呑むのよ」  ひと口目がほぼストレート、ふた口目がトワイスアップ。その後は水割り……ひとつのグラスで三通りの味わいを楽しみ、グラスをテーブルに置くと同時に、横から何故か拍手が起きる。いやその私、酒飲んだだけで何もしてないんですけど。 「おぉー、お姉様飲みっぷりといい台詞といい、すっごいカッコイイ。まさに大人の女性だわ」  那岼なゆりは感心した声を上げる。恐らく那岼よりは多少歳は重ねていると思うが、そこまで感心されるのは……とても、懐かしい感覚を覚えたような気がした。 「おい、そこの姉ちゃん達よぉ」  ――人が気分よく呑んでるときに。  今日はどうにも、ムードが出てきたところで気分を害されるあたり、お日柄が良くないのか、はたまた私の日頃の行いのせいなのか。後者には人生全体で十分すぎるほど心当たりはあるので、まあたぶん後者なのだろうと、心の中で嘆息する。  酔っぱらいであろうと思しき、私よりひと回りは大きいワイシャツ姿が、こちらのテーブルに迫っていた。 「ナンパならお断りよ。怪我しないうちにさっさとお部屋へ帰ることね、お兄さん」  私はスッと立ち上がると、左手を腰に軽く当てながら、ワイシャツ姿と那岼なゆりの間に入るように立ち塞がる。 「用心棒の姉ちゃんに用はねえ。用があるのは奥のお嬢様だ。そっちこそ部屋に帰んな」  言うや否や、ワイシャツ姿は大雑把なモーションから、いきなり私の顔面を殴ろうと剛拳を繰り出してきた!  ぱしんっ 「っ!?」  腰に当てた左手を振り上げ、腰の入ったフックを私は易々と受け止める。ボクシング熟練者なのか、拳速と圧力は申し分ないけど、この程度の鋭さではね……所詮はアスリートの拳に過ぎない、といったところ。  とりあえず、いきなり女の顔を殴りつけてくるやからは、問答無用で張り倒してもいいと判断した。 「とりゃっ」  私は右手で手刀を作り、ワイシャツ姿の目にバチンと一撃すると同時に、左手をくるりとさせて相手の手首を引っ掴む。 「あぐっ……」  右手を手刀から、ワイシャツ姿の右拳の甲へと素早く持って行くと同時に、体を脇に入れ足払いしながら、右拳と右肘を思い切り逆関節に決めて。 「うっ、い、いて、いてててて!」  どうんっ  ワイシャツ姿の大男を、呆気なく床へと捻り倒した! 「……怪我しないうちに帰れって言ったろ? それとも、海に放り込もうかい?」  私は、パンプスの踵でワイシャツ姿の水月を軽く踏んで見下ろしながら、私本来の声で、冷酷さをしっかり込めて言い放つ。 「ひっ……!」  ワイシャツ姿は小さく悲鳴を上げると、慌てて立ち上がり、展望通路の奥へと走り去っていく。 「……?」  男が走り去っていく方向の奥、人影がスッと消えていく一瞬を、私は見逃さなかった。 「……ただの酔っぱらいじゃないわね。ま、いいか」  私はいつもの調子に戻り、肩で一息つきながら、那岼なゆりの方へと向き直る。  彼女はあっという間の出来事を、呆然とした様子で見ていた。 「……嫌われちゃったかな?」  私は自嘲気味に言いながら、再び椅子へと腰掛けた。 「い、いえ……そんな……あ、ありがとうございます。暴漢から、護ってくださって。そうだ、何かお礼を」  遠慮がちに頭を下げる那岼なゆりに、私は軽く頭を横に振る。 「いいのよ。それより、せっかく美味しいお酒を呑んでいたのに台無しね。呑み直しましょうか……もう少し人目のつく場所で、ね」 「味わってというより、結構ガンガン行くんですねビール」  那岼なゆりはビアグラスをちびちび傾けながら、私を平べったい目で見つめている。酔いはさっきより多少醒めているらしい。  展望通路から、船内設備の軽飲食スタンドに場所を移すと、お互いシングルソファに対面で腰掛け、くぴくぴと呑み直していた。 「軽くひと運動した後は、ビールのしゅわしゅわ感が美味しいものよ」  客船で出しているクラフトビールは、いかにも地ビール然とした濃い赤銅色しゃくどういろ。口の中に流し込むと、いささか雑味は強いものの、広がる良質な苦みは、気分を良くさせてくれる。 「お兄さん、同じやつもう一杯。あ、チーズクラッカーも追加」  私はカウンターの向こうへ、五杯目の追加注文を流す。 「それわたしにもーっ、おろっ、ピアノステージ始まるじゃないですかっ? おーいっ」  チェイサーを一気に呷り、那岼なゆりは傍らのヴィオラケースを抱えて立ち上がると、スタンドの入り口にある、スケルトンタイプのグランドピアノに向かう。那岼なゆりのラウンジ演奏時にいた、伴奏の女性ピアニストが、ちょうど演奏に入ろうかというところだった。 「やめなさい、酒飲みさん」 「だいじょうぶだいじょうぶ」  追いかけて制止する私の声なんてどこ吹く風。那岼なゆりは、ピアニストと幾つか談笑しながら言葉を交わす。 「大丈夫だから、空良そらさん。さきほどのお礼に、一曲弾いてさしあげますわ」  振り向いて私を見つめる那岼なゆりの目は、酔っぱらいのそれではなかった。 「……そう?」  私は自分の席へと静かに戻る。ヴィオラケースから楽器を取り出し、脇に退かされていた譜面台に楽譜をセット。  数度軽く息を吸って心と佇まいを整えた那岼なゆりは、ピアニストと視線を交わしてお互いにひとつ頷き、スタンド内に二人で『Summer』の旋律を響かせてゆく。  ――心地よいテンポの、染み渡るように穏やかな旋律。夏の豊かな自然の移ろいが、時間を優しく刻んでゆくような感覚――  弾き終わると、ぽつぽつといたスタンド内のお客から、拍手が起きる。那岼なゆりも勝手に演奏して良かったのかは知らないけど、まあそこは那岼なゆりが後ほど責任を取るでしょう、と冷淡なことを思う私。  那岼なゆりは軽く一礼してから、再びソファへと戻ってきた。 「ありがとう、那岼なゆりさん。素敵な『Summer』だったわ」  私は拍手をしながら彼女を出迎える。ヴィオラの優しい音域だからこそ活きる、心に沁みるような演奏だったのではと思う。  空になっていた彼女のビアグラスが下げられ、新たに赤銅色しゃくどういろが満たされたグラスが運ばれてきた。 「……この客船で、いつもヴィオラは弾いているの?」 「いえ。このフェリー会社の仕事は、ありがたいことに定期的に頂戴しているけど、今回はこの一便だけの仕事よ。  ……決まった地方だけで仕事したくない理由があって、ね」  ピアノ演奏の背景音楽が流れ始める中、那岼なゆりはそう言うと、ビアグラスをやや急角度に傾けてビールを呷る。 「毎日演奏するお仕事も、充実はしているけど……普段、生演奏の音楽を聴く機会に恵まれない人々に、ひとりでも多く演奏を聴いて欲しいし。もっと大きなチャンスとか、掴めるといいんですけどね」  少し残った赤銅色を見つめながら、那岼なゆりはしんみりとした表情を見せた。 「チャンスはよく逃げるものだけど、晩酌は逃げないわよ。  チャンスが来たら、逃がさないように全力でとっ捕まえにいくことね。晩酌は、チャンスをとっ捕まえてからでも、楽しめるのだから……  これ、呑兵衛な世捨て人からの受け売り」  右手に持ったグラスを軽く上に掲げ、私は優しく微笑んだのだった。  ――あなた、相当人を殺してるみたい。ちょっと救いようがないわね。  ――それでも、助けてあげたい? 受けた愛情は心に刻まれても、与えた愛情は何も残らないとしても。  ――わかった。助けてあげる。そして、簡単には死なないような丈夫な命も与えてあげる。ただし…… 「ひっ」  小さく悲鳴を上げて。私は跳ねるように、ベッドから上体を起こした。  また、嫌な夢を見た。  夢の先の結末もよくわかっている。それでも…… 「ふぅ……少し呑みすぎたせい、か」  額にかいた大粒の汗を袖で拭いながら、私は小さな窓の外を眺める。揺れる濃い黒と、揺るぎなき薄い黒。単調な風景でしかないのだが、客船の一等客室にいる……その事実が、妙に心を落ち着かせてくれた。  再び枕へと頭を沈める。今度の眠りは深かった。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません