ストリング・クロス
第四幕 想いで

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 ――標的は、大きく仰け反ると同時に、数歩後ろへとふらつき……音を立てて仰向けに倒れた。 「手応えのないターゲットだったな。さて、引き続きおとなしく海にも沈んでてくださいよ」  私はコンパウンドボウを手際よくケースに収納すると、物陰から出て、倒れている今回のターゲットへ、面白くもなさそうに歩み寄る。  矢を引き抜き、血は丁寧に拭き取る。ロープでぐるぐる巻きにして、錘をつけて、海にドボン。広くて大きい海さん、また汚してしまって申し訳ないけど、これも仕事だから勘弁、勘弁。 「呑んだ。ラーメン屋で〆して帰る」 「わかった。終電には間に合ったな」  仕事専用の直線型ガラケーを取り出し、ひとこと告げると、電話の向こうの声もひとことだけ。  仕事完了の報告を済ませると、私は夜も更けきった港を後にした。  私はショットグラスを一気に呷ると、こトン、とカウンターへグラスを置いた。 「うん、美味しい」 「電気ブランを、ショットグラスで一気に飲る。この店でそんな呑み方するのは、空良そらくんぐらいだよ」  マスターの冷やかしはいつものことだった。 「サンダーショットっていう呑み方でね。そういう呑み方を出してるバーが昔あったのサ」 「酒に弱い奴ぁ、すぐにぶっ倒れる呑み方だよ。ほれ、口直しはコイツだろ?」  ひと仕事を済ますと、必ず寄っては酔っていく、いきつけのバー。他にお客はいなくなった閉店間際にしか来ない、この常連客の呑むパターンを熟知しているマスターは、きらきらした黄金色の上にふわふわの白泡を載せた、店自慢のビールをすぐに出してくれた。 「ご明察」  私はにっこり微笑むと、ビールを口から流し込む。ほんのりとした苦さが実に心地よかった。  そう、忘れてはいけない。私を一番心地よくしてくれる、きらきらロマンティックな、ここのライブバーにしかないものを。 「あら、こんばんは。また呑んでますね?」 「呑んでますよ。酒場ですから呑まないと。絃英いとえさんのお給金に化けないから」  隣の席にすぅっと入り込んできたのは、ピアノステージで背景音楽を弾いていた、バーの契約ピアニストだった。 「まあっ、それならぶっ倒れるまで呑んでいただかないと困ります……なんてね、冗談。ほどほどにしておいてくださいね。今日ご用意している曲はこんな感じですけど、どれをお弾きしましょうか?」 「そうだねぇ……」  差し出されたハガキサイズのカードには、一〇曲ほどの曲タイトルが、箇条書きに並べられている。クラシック、ジャズ、JPOP、歌謡曲とジャンルも様々。よくもまあ毎回違うラインナップを並べられるな、と感心するしかない。 「じゃあ……」  私は、曲目カードから上から二番目、ショパンの夜想曲第二〇番を指差そうとする。ノンフィクション体験記『戦場のピアニスト』の要所で登場する、物語の代表曲。  そういえばこれ、映画にもなってたな……と思った刹那。  視界は、馴染みのバーではなくなった。  強烈な頭痛とともに、視界から現実の風景は消え失せ、私の視界に映るのは…… 「うっ、うわああああああああああああああああああああああああああ……ッ」  頭を抱えてカウンターへと倒れ込む私に、絃英いとえは両肩を掴んでゆすり、必死に何かを耳元で叫んでくれている気はするのだが、私の脳には届かない。  幾つもの光景が、フラッシュ画像のように脳内再生され、しばらくして……私の景色は、カウンター木地のダークブラウン一色へと戻ってきた―― 「心的外傷後ストレス障害」 「そう。私はPTSDになっていたのだけど、それを深酒で誤魔化してた」  那岼なゆりがポツリとつぶやいた言葉に、私はそっと答えた。 「深酒だけではないでしょう? こころが大きく傷ついていた貴方にとって、絃英いとえさんと、彼女の音はもうひとつの、ううん、きっとより大きな救いだったのでしょう?」  音楽には魔法のような力がきっとある――演奏者としての信念が伝わる、那岼なゆりの静かな言葉だった。やはり、彼女に話してよかった。 「そう。きっとそうだった」  ――大粒の涙を流しながら呼吸を整え、さらにしばらくして、私は平静を取り戻した。 「もう大丈夫、誰も空良を傷つけませんから。大丈夫だから、大丈夫だから」  絃英いとえは、ふわりと優しく包み込むように、後ろから私を抱き留めてささやく。 「相変わらず、ずいぶんと深刻なようだな」  マスターは、氷をたっぷりと入れた炭酸水に、ぎゅぅと豪快にレモンを搾ると、私の前へと差し出してくれた。 「ありがとう……もう、大丈夫」  私は、差し出された炭酸水に口をつける。レモンの香りが、ほのかに精神を落ち着かせてくれた。  人を殺し続けるうちに、いつの間にか負っていた、心的外傷後ストレス障害。ひと仕事終えてバーに来て深酒をすると、最近は定期的にフラッシュバックの発作を起こすようになっていた。 「……マスター、わたし弾きますね」  絃英いとえは意を決した口調で、ゆっくりとグランドピアノへと向かう。 「こころが傷ついた空良だけのために」  私の方へと向き直ると、絃英いとえはそっと微笑んだ。 「いまから弾くのは、モーツァルトのきらきら星変奏曲KV二六五、ショパンの夜想曲第二〇番。ベートーヴェンのピアノソナタ第十四番、嬰ハ短調作品二十七の二……私のとっておきの三曲。クローズドですけど、マスター、構いませんよね?」 「構わないが絃英。立て続けではぶっ倒れるのは絃英いとえのほうだぞ」  閉店時間は過ぎ、丸一日仕事で演奏している絃英は、一日の疲労もピークのはずだった。それでも、絃英いとえは首を横に振る。 「たとえわたしが倒れても構わないわ。空良そらさんを想う私の心と私の音だけを、感じながら聴いていて欲しいの。私以外、なにも考えないで聴いていて……傷ついたこころが癒えるように、ありったけの心を込めるから」    ――傷ついた心を癒すにふさわしい、時空の壁を越えて愛され続ける静かな旋律が、夜も更けたバーを柔らかく満たしてゆく――  絃英いとえに言われたとおり、頭の中を空っぽにして、旋律だけに耳を傾け、弾く姿だけを見て。絃英が私のためだけに弾いてくれた三つの曲は、心にピンを打ち込むような演奏だった―― 「絃英……雪原絃英ゆきはらいとえ。それ、雪原絃英さんじゃない?」  那岼なゆりは、ハッと思い出したかのように、教えてはいない絃英のフルネームを言い当てた。 「去年、雪原絃英ゆきはらいとえさんとわたしは一度だけ、レストランの演奏会で一緒に仕事したことがあるの。幾人ものピアニストと仕事をしたけど、ピアノにとって完全別物といってもいいクラシックとジャズにポップス……どれを弾いても超一流。メトネルの『主題と変奏』なんて激レアピアノ曲までさらりと弾きこなす、レパートリーの広さは雪原ゆきはらさんぐらいだった。わたしも印象に残ってるわ。違う?」  ややまくし立てるように、那岼なゆりは身を乗り出す。繋がらなかった糸が繋がったような感覚なのだろう。 「ご明察。絃英いとえの名字は雪原。雪原絃英ゆきはらいとえ」 「やっぱりそうね。わたしと違って超清楚って感じがする人だったなぁ……あ、わたしは清楚って言われるの大嫌いな人だからね……んー、プライベートのことまでは、あんまし聞いてなかったわね……ん?」  軽く握った右手を口元に当て、独り言を混ぜながら、想いでの倉庫で探し物をする那岼なゆり。 「確か絃英いとえさん、二年前……今からだと三年前か、交通事故で生死の境を彷徨ったって言ってたような……  意識不明になって、助からないかもって重症だったらしいけど、奇跡的に意識が戻って、怪我も回復して、むしろ事故前よりピアノがめきめき巧くなったとか、そんなこと言ってたわ」  那岼なゆりの話を聞いて、私は涙が思わず出そうになるほど、嬉しさで心が満たされていた。 「那岼なゆりさん、このお話には続きがあるの。むしろ、核心部分みたいな、続きが」  ――絃英いとえの演奏が終わってすぐ、窓越しから夜の街並みを洗う、自然と無機質の織りなす合奏が聞こえてきた。 「雨か。ここ最近は降り方も激しいな……おい空良くん、タクシー呼ぶなら今のうちだぞ」  マスターはグラスを拭く手を止めぬまま、窓の外を見る。 「マスター、わたしが車で送っていきます。空良さんの住んでるマンション、帰り道の途中にありますから」  譜面などを片付けてピアノを離れた絃英いとえが、マスターに声を掛けた。 「おう、そうか。どうする空良くん?」  私は、心臓の奥がほのかに痒くなるような感覚と、全身が心地よく、頭の中をマッサージされているような、ほんわかと痺れるようにくすぐったい感覚に浸っていて、ぼーっとした意識でマスターの声を認識する。加えて発作の影響か、珍しくアルコールが激しく回っていた。 「うん……おねがいする」  生返事同然で言葉を返す。ひと言ふた言、マスターと絃英のやりとりが聞こえた後、絃英いとえに手を引かれ、一緒の傘に入りながら店を出たのは覚えている。  次に気がついたときは、私は絃英いとえの車の助手席に座っていた。 「わたしね、ふと思うことがあるんですよ」  桜色を基調としたシートに包まれ、木目のハンドルを握ったまま、絃英は視線を前から逸らさずに話し始める。 「ピアノにせよ他の楽器にせよ、わたしのようなプロとしてお仕事をもらえたり、リサイタルをできるのは確かに一握りだけど、それでも世の中には、数えるのも気が遠くなるほどの演奏者がいるのに」  雨足が弱くなってきたのか、絃英いとえの静かな声と、ワイパーの正確なリズムを刻む音だけが車内に響く。 「なんで敢えて、わたしの演奏だけを聴きたいとおっしゃる人がいるのだろう、って……他にもうまい人、表現の豊かな人、たくさんいるはずなのに」 「……うん。それはね、絃英いとえさん」  まるで自白剤でも大量に飲んだかのような、気の緩んだ意識のなか、私は彼女の疑問に答えようとする。 「技術の巧さ、表現の豊かさ、好きな曲や楽器とのマッチング、音楽へ取り組む姿勢や人生の歩み、容姿や人柄……特定の演奏者を敢えて聴きに行きたいと思う理由は、多くの要素があると思うけど、いずれかひとつの理由ではないものだと思う」  絃英いとえは静かに聞いている。次の言葉を待っているのだろう。 「それらすべてを含めて、自然とのみ込めてしまう感覚……男とか女とか愛とか好きとか、そういう次元とは全く異質なものだけど……うーん、言葉にするのは難しい」 「……そうなんだ。そういう不思議なものなのですね」  彼女の目を細めて少し頷いたような仕草が、ぼんやりとした視界に映った気がした。 「なんで、空良そらはお酒が好きなの?」 「……おいしいから」 「でしょう? それと同じで、理屈だけで説明するのは、無粋なことなのかもしれませんね。少し分かったような気がします」  車の中の時間が、少し止まったような感覚を覚える。絃英いとえとは、かれこれ知ってから二年ぐらいになるはずだが、二人だけで濃密な時間を過ごすのは、初めてのような気もする。 「……空良そら、これ差し上げます。お守り代わりと思ってくださいな」  右手のハンドルは離さぬまま、絃英いとえは左手を助手席へ伸ばす。その手には、小さな熊のぬいぐるみが握られている。絃英いとえが愛用するバッグに、つけられていたものだった。 「……ありがとう、絃英いとえさん」  やはり意識が不鮮明な私は、それは絃英さんの大切なものだから、と遠慮する常識的な反応すらすることができずに、彼女に操られる人形のごとく、熊のぬいぐるみを受け取った。 「……ふふ。さんづけはよしてくださいな、空良そら。わたしの一番大切な人」  意識が、みるみるうちに張っていったと思った刹那。 「きゃあっ!」  ――交差点。信号無視で右手から突っ込んできた、大型ウイングトラックが視界に入った瞬間、身体に強い衝撃を感じて、そのまま意識は暗転した。  目を開いたような気はしたが、目を覚ました感覚はなかった。  仰向け姿で天井を見た気になっている視界は、文字通りの真っ暗だった。  フワリ……と音もなく、右手側に人影が突然現れる。翡翠色を基調とした見たこともない、しかし東洋的な荘厳さを秘めた衣をまとった、女とも男ともつかない容姿端麗な人影が、そこにはいた。  ――誰だ? 「あなた、相当人を殺してるみたい。ちょっと救いようがないわね」  私の額にそっと手を当てながら、脳の中に直接聞こえてきたその声は、果てしなく冷酷さが込められた、天使のごとき優美な声。唇は全く動いていなかった。  いやまて。空気の振動に頼らず、声や音を人に伝えることなどできるのだろうか?  いったい何者だと誰何すいかしようとしても、私の身体は瞬きひとつもできなかった。  怖い。  死の恐怖など、ほとんど感じるヒマがない修羅場を、数多くぐり抜けてきたはずなのに、異様に怖かったのを覚えている。  ――神。  ふと頭を掠めたのは、その言葉だった。  すっ  額に伸びていた手が離れ、そのまま私の唇に、人差し指が軽く触れる。 「絃英さんは……? あんたは、誰だ……」  ようやく唇を動かすことができた。 「我は、世の人から伎芸天ぎげいてんと呼ばれる者」  やはり唇は動かぬまま。空気の振動もなく、その声は聞こえてくる。  伎芸天ぎげいてん……天部にその名を連ねる、器楽の神。それがこの人物の正体のようだった。本当かどうかは知るよしもないが。 「貴方たち二人は、人の移動機械の事故に巻き込まれたようね。今まさに、生死の境を彷徨っている最中……生へと転ぶより、死へと転ぶ見込みが、いささか高いかしらね」  再び伎芸天ぎげいてんは、その掌を私の額へと押し当てた。 「さて、罪深き人の子よ。自らの死を突きつけられて、今何を思う?」  しばし、空間は張り詰めたような静寂が支配する。  先の言葉を紡いだのは、伎芸天ぎげいてんだった。 「――ふむ。自分の命より、かの娘の命が助かる方を先に思うか……重ねてきた罪の深さにしては、殊勝な心ね」  伎芸天ぎげいてんは、目を僅かに細めたような気もしたが、その彫像みたいな表情は変わらない。人の心――つまり頭の中の思考――を、掌を額に触れただけで読み取ることができるのだろうか? 「たとえ自らの命が断たれても。それでも、助けてあげたい? 受けた愛情は心に刻まれても、与えた愛情は何も残らないとしても?」  抑揚の効いていない甘美な声で、私に問いかける伎芸天ぎげいてん。  いま、人生の間違いなく最大の岐路に立ち、そして魂の誇りを試されている……私は瞬時にそのことを悟り、しばらく躊躇ちゅうちょするが……意を決して。  顎をわずかに軽く、縦へと動かす。  それだけしか身体が動かなかったのだが、伎芸天ぎげいてんにはそれで充分なようだった。 「――わかった。助けてあげる。器楽の神として、かの娘にはさらなる天賦の才も与えてあげる……そして、貴方にも簡単には死なないような、丈夫な命も与えてあげる。ただし」  伎芸天が、わずかに口元を歪めたような気がした、と思った刹那。 「いかなる素晴らしい音楽を聴いても。どんなに美しい景色を見ても。此の世で最も美味なる物を口にしても。  貴方は今後の人生、もう何も感じることはできない。  命あるうちに、二度と人の世が生み出す感動を覚えることなく、ただ生物として生きているだけの存在として、惨めに寿命を全うするの。  そして貴方の寿命が尽きたとき、かの娘の寿命も同時に尽きる。だから貴方は、かの娘を想う限り、モノクロームの人生から死んで逃げることも許されない。  かの娘の人生と、貴方の人生とは、永遠に再び交差することはなく、無理に交差しようと求めれば、より重い罪が下るだろう。かの娘の人生から、貴方はいなかったことになる……それが、かの娘を救う代わりに、貴方の受けるべき報い」  紡ぎ出された言葉は、死をも生ぬるいと感じさせるほど残酷な、死の宣告だった。 「もう一度だけ聞いてあげる。どうする?」  伎芸天ぎげいてんの表情は変わらず、その声の冷淡さも変わらず。  そして私は――

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