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「じゃあナナ、僕は指導があるから先にいくよ」 「あ……はい。ありがとうございました」  マサキ先生は、あっさりとそういって、食堂を去っていった。  わたしも食堂を出て、ゆくあてもなく、どこかへ向かった。  とたんに、目に映るものがあいまいになった。  まるで白昼夢の中をさまよっているかのように、ぼやぼやに。  ぼやぼや――ぼやぼやあんって……。  マサキ先生になでられた頭に残る、あたたかみ。  頭があたたかくなちゃって、あたし、ぼやぼやしちゃっているのかな?   ううん、先生のせいにしちゃダメよ。  あたたかみは、いつまでも冷めない。冷めないでね。  わたしはときおり、頭に手をあてて、マサキ先生からもらった熱を守り続けた。  先生に、たくさんなぐさめてもらい、いっぱい甘えさせてもらい、求めていたもので満たしてもらった。  なのに、人間って欲深い生き物だ。もっといっしょにいたいって、あれじゃ物足りないって、身勝手にも思ってしまうんだもの。  心がじんじんする。  ああ……わたしはなんてわがままな子なんだろう。  わたしって……たぶん……ううん、たぶんじゃなくって、きっと、人と比べて独占欲が高いんだ。  マリアには、いつも「ナナはいちばん最初」っていってもらいたい。  いってもらえるようになるため、あの子のわがままだったり、文句だったりには、目をつぶることが多いし、今回みたいに自分の気持ちを押し殺している節だってある。  もちろん、恋心をいだく相手……マサキ先生だって、わたし、独占したい。 「わたしだけのマサキ先生」になってもらいたい。 「マサキ先生だけのわたし」になりたい。  わたしは、自己中な欲望を、心の中で叫んでしまうこともある。  枕をぎゅっと抱きしめて、体をよじらせる夜もある。  わたしは、十七歳だ。恋がしたくないといえば嘘になる。恋がしたいというのが本心だ。  もちろん、恋心は、わたしだけが有する感情じゃない。  マリアも、陸でまだ知らぬ恋人とめぐり逢うことを夢見ている。  シュンは、その夢見るマリアのことが好きで悶々している。恋に燃えて燃やされている。  別に、ゆりかごで恋をすることは、禁じられているわけじゃない。  十五歳、十六歳の子たちの中にはカップルもいる。  狭い世界であるものだから、関係なんてすぐに知られてしまうけれど、その子たちはあえてバラしているようにすら感じるのだ。  抱きしめ合ったり、キスしたりしているところを見たこともあった。 (見えるところでしないでほしい。)  けれど、ゆりかごには、こんな決まりがある。  恋愛は自由だけど、キス以上の「ある線を超えてしまう行為」は、してはいけないのだ。  そういう行為をしてしまい、もしも女子のお腹にいのちが宿る……なんて事態が起きてしまうと、強制的にいのちを堕ろさないといけなくなる。男子にはきつい罰が与えられる。  頑なに禁じられるわけは、ただ女子の体に負担がかかるからっていうだけじゃない。  わたしはその理由を年中組になったばかりの十一歳のときに、保健学を受け持つ副院長先生からこう教わったのだ。          ☆ 「好きな相手ができても、〝ここにいる限り性行為はしてはいけません〟。未熟な体や心での行為は大きな負担がかかります。マリア、ナナ、ユウリ、サユリ、あなたたち女子にだけかかるといってもいいでしょう。対して男子……ナオト、セイヤ、ハル、シュンの立場でいえば、相手の子に大きな負担を与えてしまう行為です。あなたたちのことを思っていいますが、それでも構わないと強行して、避妊せず、あるいは避妊に失敗して、相手の体にいのちが宿ったとしましょう。男子諸君は、そのいのちを産ませたい、女子諸君は、産みたいですか? 育てたいですか?」  そのときの副院長先生の口調は、トゲトゲとしたパイナップルのように鋭く感じた。  ことばの終わりは疑問形で、副院長先生は、わたしたちひとりひとりの目を覗き見て、そう問うてきたのだ。  それまでも保健学では、男の子の体、女の子の体を学ぶことはあった。はずかしくて、気まずくて、男子といっしょに受けるのが嫌だった。  でもこのときは、はずかしい、気まずいなんて嫌悪感を示すレベルじゃなかった。  副院長先生は、突然、「性行為や避妊」なんていう単語を使いだして、その上、問うてきたのだ。  わたしたち八人は、男女関係なく、みんな揃って凍りついていた。  さなかで副院長先生は、つり上がった形をしたトレードマークの赤いメガネのブリッジを右手の中指、人差し指で抑え、目もそれと同じようにつり上がらせて、こう続けた。 「あなたたちはいい子です。ここで頷かないということは評価しましょう。ここでもし頷いた子がいれば、こう教えて正そうとしていました。幻想は断ち切りなさいと。少なくとも、ゆりかごにいる限りは……と。もしも断ち切ることができずに行為に及んで、そしてもしもいのちが宿った場合、そのいのちは、問答無用で中絶させます――ああ、その前にひとつ伝えておきます。来月から健康診断時においては、女子諸君には、処女検査をおこないます。潔白なあなたたちを疑うようで申し訳ないけれどこれは決まりなので。それに男子たちの前でいって悪いですね。ごめんなさい。ですが、だまって性行為をしても必ずバレて、堕ろすことを強制されます。男子諸君も肝に命じておいてください」  張り詰めた空気と、切り裂くことばの列。  副院長先生は前触れもなく「処女検査をする」なんていいだしたのだ。  男子たちの前でいわれたことについて抗議をする前に、わたしはそのときの副院長先生のそのすべてが、ただただこわかった。  あれは異様だった。異常だった。  どこか、狂っているように見えてしまった。  となりにいたセイヤが、ぷるぷると小刻みに体を震わせていた。  いまも、脳裏に残っている。 「宿ったいのちを中絶させる。堕ろす。殺す。残酷ですか? 残酷ですよ。しかし、ゆりかごで子どもを作ることは、許されざることです。なぜなら、子どもができたとき、あなたたちがその子の親になるからです。ではいまから、こんな仮定をしましょうか。あなたたちのうち、だれかふたりが恋に落ちて、子を宿して産んだとします。その生まれた子は、あなたたちという〝親がいる〟ゆりかごで育ってゆきます。子は当然あなたたちを『パパ、ママ』と呼び、あなたたちはかわいがり甘えさせて、愛を注ぎます。すると、ゆりかごで暮らす子ども……主に年少に上がる前のうみ組、つち組、そら組の幼児たちはどう思うでしょうか? 『なんであの子にだけ、ほんとうのパパとママがいるの?』『なんでぼく、あたしには、ほんとうのパパとママがいないの?』、と嘆き悲しむでしょう。あなたたちも親のいない幼児でした。その頃の自分と重ねてみると、ゆりかごの中で子どもを作ることがどれだけ残酷で残虐なことであるか、わかるでしょう。ですので、繰り返しますが、もしもあなたたちが過ちを犯し、そしていのちが身ごもった場合、あなたたちの意思意向を問わず、宿ったいのちは中絶させます。よって、きっかけとなる性行為の一切を禁じます」 〝呪い〟をかけられた……みたいだった。副院長先生がいったことは、その意味自体は、理解できたんだけれど、わたしはどうしてもそれが〝呪い〟に感じてしまった。  そう感じてしまうわたしは、わたしがよくわからなかった。  その話があった日の夜は、マリア、サユリ、ユウリがこそこそとした声で会議をしていた。  いわずもわたしは巻きこまれることになった。 「びっくりしたよね。鬼みたいな顔で『性行為だ処女検査だ』なんていわれて。てか、ぶっ飛び過ぎでしょ子ども作るとかあ。ああ、検査いやなんだけどおー。てかさあ、そもそも好きな人いないんだけど、みんなどう?」  マリアからの質問に、サユリとユウリは口を揃えて「いなぁーい」とだらけた口調で返した。  そして、「くくくく……」と声を抑えながらも、みんな一斉に笑いだす始末。  副院長先生の話のさなかでは、揃って凍りついていたくせに、ペラペラとネタにしていて、わたしは内心で、すごく嫌な感じをいだいた。 (けれど、あとになって考えてみると、このとき、みんな強がっていたんじゃないかって思うんだ。)  そして、マリアが、「ナナは?」と振ってきた。  わたしはすぐに首をブンブンと横に振り、否定した。  このときからわたしはマサキ先生のことを密かに想っていたけれど、つき合ったり、キスをしたり、ましてや性行為をしたりなんて、想像すらできなかった。 「そう。あー、でも男子たちはエッチなことやりたいんだよね。てか、いつもそんなことばっかり考えてるみたいよ。うさぎたち見てもそうじゃん。オスはメスを見つけるとすぐに後尾したがる。じゃなきゃあんなにポンポン子うさぎは生まれてこない。そう思うと男子って大変だよね。ふふふ」  マリアは、にたにたと半笑いをしながら続けた。  話を聞いていたサユリも、マリアにつられてにたにたと笑いだした。 「シュンとかさ、いつもおどおどしてるけど、マリアとやりたいって悶々してるんじゃないの? きゃははっ」  サユリは、マリアを想うシュンのことを面白おかしくからかっていた。 「あーいえるいえる。マリアはどうなの?」  するとユウリも、サユリのおふざけに乗っかっていく。 「えー! こらあ、サユ、ユウばか! まじやめてよそれ。あたしシュンなんか対象外だから」  マリアはふたりに怒鳴ったが、冗談のようで、楽しそうに駄弁り、にたにたは増して、次第にこそこそへ発展し、さらにはけらけらへと、どんどんボリュームをあげていった。  わたしは、まったくといっていいほど、彼女らについていけなかった。  十七歳になったいまも、わたしは性には鈍感で、そういう行為をしたいとかしたくないとかわからないが、それは少なくとも、愛し合う形の発展系だと想像している。  愛の終わりは、好きな人の子どもを、お腹に宿すことだとも。  でも、それは、ゆりかごでは禁じられていること。愛し合うことに上限が設けられている。  とすれば……わたしはマサキ先生と愛し合うことは……できない。          ☆  はぁ……。  キスもしていなければ告白もしていないくせに。  いったい何を考えているのよ……わたし……。  いつしか、頭のあたたかみは失せ、冷えていた。  白昼夢のようなまどろみは消え、わたしは現実世界へ帰ってきた。
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