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 少し張り出した赤茶色の屋根に『ココア専門店~フラット~』と白字で書かれている。オフホワイトの壁は、腰の高さから地面にかけて赤茶色のレンガが並べられ、小さな窓が並ぶドアは、重そうな木でできていた。  千帆は屋根と同じ店名が書かれたスタンド型の看板をドアから少し離れた場所、大きめの窓の下に置く。曲げていた腰を伸ばして、通りへ視線を向ける。店の正面から延びる道を歩けば自動車が多く行き交う幹線道路に出る。その大きな道から二本奥まったところにあるここは、平日の日中、大通りを避ける営業担当者らしき男女が時おり姿を見せるくらいで、人通りはほとんどない。抜け道に使う自動車が走り抜けるくらいだ。  ウエーブがかかった明るいブラウンの髪をひとまとめにしたゴムの上から、濃いブラウンのスカーフを巻きつけた。  ドアを引いて開け、千帆は店に入る。  カウンターに高めの椅子が10席並ぶだけの小さな店だ。椅子の向きをそろえてカウンターの中に入り、アルコール消毒液を吹きつけた布巾でカウンターテーブルを拭く。  大学卒業後は就職せずに、いくつかのカフェでバイトをしながら開店資金をコツコツ貯めた。ココアが好きで、専門店を開きたい思いが強かった。そのせいか、親から「遊びは止めて就職しろ」と言われ続けても頑張り続けて、2年。たまたま空き店舗となった射抜き物件のここを借りることができた。それが半年前のことだ。地道に営業を続けているものの、大繁盛店とは言えず、両親、特に父親にはいまだに遊び半分で趣味の域を超えていないと、思われている。  入り口の横にある窓から人が少なすぎる通りを見て、千帆は肩を落とした。  ドアベルが鳴る。  千帆は思いっきり口角を上げて、そちらを向く。 「いらっしゃいませ」  入ってきた男性は狭い店内を全て観察するように視線をあちらこちらに向けている。60歳は超えているだろうか。トレーナーにチノパンといったラフな格好に対して、眼鏡をかけ、白髪が混じる髪はきちっと短く切りそろえられているのが、アンバランスに感じる。  ゆっくりと奥へ歩いてくる男性に、千帆は手を差し出して自分の目の前にある席を案内した。男性が座ったのを確認して、水を入れたコップを差し出す。 「初めまして、ですよね。ホットはミルクとビターの2種類がございます。プラス料金にはなりますが、どちらも生クリームをトッピングしていただくことができます。アイスもございます。いかがなされますか?」  男性はしばらく考えた後「ホットのビターで」と言った。  千帆はココアを作りながら、男性を横目で盗み見する。彼は再び店内を見まわしたり、カウンターに置いた手元に目を落としたりしていた。  たっぷりとココアを注いだカップを彼の手元に置いた。  小声で礼を言った彼は、ゆっくりとココアを口に入れる。  顔をほころばせて小さくうなずき、静かにカップをテーブルに置いた。カップの淵を指でなぞりながら千帆に向く。  入ってきたとき、堅苦しく感じた顔が和らいでいる気がした。 「ココアだけで儲けはあるのかい?」  初対面で聞くにはぶしつけな質問のはずだけれど、彼の口調はそれを感じさせなかった。遠慮がちではなく、探るようなものでもなく、ただ純粋な質問、という印象を受ける。  千帆は胸を張る。 「えー、すごく儲けさせてもらっています」  そう言ってすぐ体を丸め、苦笑いをこぼした。 「というのは、ちょっとした冗談で」  つられたのか男性がかすかに笑い、ココアに口をつける。次の言葉を待っているようだ。  千帆はカウンターに視線を落とす。 「生活をギリギリ維持することはできる。その程度ですね。でも」  初対面の客に言った冗談を今さらながら反省してしまう。  外からトラックが走る音が聞こえた。店の前は三叉路で、混雑しやすい大通りを避けようと入ってきた自動車がよく左折、右折していく。  息を吸って男性の顔を見る。 「好きなことをしているので満足です」  かみしめるように言葉を紡ぐと、自分の鼓動が速くなっているのを感じた。  キッチリとしていそうな年配の男性から、どんな言葉が返ってくるのだろうか。  千帆は両手を握りしめる。  彼は凝視するように見つめてきた。視線を外すことはしない。フッと息を吐いた彼は微笑みかける。 「私はね、営業職で40年勤めたんだよ」  カップに視線を落とした。 「それが、先月、定年になって。今は家でのんびりしてるんだけど、時間があると、つい自分の生き方を振り返るんだよ。」  彼は一瞬口を閉じたが、すぐに話し出す。 「私は営業が好きじゃなかった。ただ家族を養うためだけに働いてきた。間違ってたとは思ってない。収入も良かったし、幸せだった。40年も勤めあげたことを誇りにも思っている。でも、心のどこかで他の生き方があったんじゃないかって思う自分もいる」  千帆は落ち着いてきた心臓に合わせるように、握りしめていた両手を緩める。遠い目をして話す彼の目を見つめる。  ココアを飲んでカップを置いた彼は、千帆に視線を戻した。 「この店を見つけたとき、趣味なんじゃないかって思った。真剣に稼ぐ気があるのかって」  彼が見せたのは蔑むような表情ではなく、自嘲したような笑いだった。 「でも、このココアを飲んで気持ちが変わった。美味しいのはもちろんだけど、なんか温かい気持ちになってきたよ」  彼は微笑んでいた。つられて口角があがった千帆は胸が温かくなってくるのを感じた。 「そう言っていただけて嬉しいです。ありがとうございます」  彼はカウンターに代金を置き、席を立った。 「これからも来させてもらうね」  カランカランと音を立てるドアから出ていく。その後ろ姿に千帆は深々と頭を下げた。体を折り曲げているせいか、温かいものは胸から喉、鼻、目へと上がってくる。  静かになった店内で、千帆はしばらく頭を上げようとはしなかった。

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