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 月が替わる直前の土曜日、変わらず黒縁眼鏡をかけた優美が店に入ってきた。  時間は15時少し前だ。 「ご無沙汰してます。3週間ぶりかな。落ち着いたら、この店のココアが飲みたくなって」  悩みをぶちまけていた日は重苦しく独特の空気感を放っていたけれど、角田に聞いていた通り印象が変わっている。見た目に変化はない。まとう空気が明るく、凛々しい雰囲気になっていた。  千帆は奥の席へ案内し、カウンターに水が入ったガラスコップを置く。 「お忙しくされていると角田さんから聞いています。落ち着かれたんですね」  優美はダッフルコートを脱いでハンガーにかけながら、マイルドココアを注文してきた。  ズレていたのか黒縁眼鏡を持ち上げて、座りやすい体勢を見つけて椅子に座る。 「ええ、率先して仕事をすると気持ちは軽いものの、業務量は増えるので大変でした」  黒縁眼鏡の奥で目を細め、頬に赤みが差している。 「あなたに『ゆるい同僚に飲まれていますね』って言われたことで火が着きました。お尻になのか、やる気になのかはわかりませんが」  優美は肩をすくめる。  千帆は温かいマイルドココアのカップをカウンターに置いた。  優美は両手でカップを持ってココアの香りをかいだ。 「角田さんから少し話を聞かれたんですよね」  口をすぼませてココアのカップに口をつけた。 「あの話、続きがあるんですよ」  いたずらっ子のように笑う。  前に見たときは、可愛らしいなんていう印象はなかった。本当に気がラクになったのだろう。  優美は話し出す前にカウンターを端まで見た。  座っているのは小説を読んでいる男性客、携帯電話を見ながら顔を寄せ合って話す高校生のカップル、合計3人だ。  彼らのほうへ微笑みを向けて、正面に向き直る。千帆と話しても問題ないだろうと判断したのだろう。 「角田さんと話した後、帰ってきた那月先輩に書類を持っていったんですけど、そのとき、ゆるい同僚の話を少ししたんです。この店で話すまで上司以外に愚痴ったことってなかったんですけど。彼女のこと、ぶちまけてやりたくなって」  言葉遣いは少しく荒くなっているけれど、全く嫌らしさを感じない。 「で、彼女の前部署が那月先輩のところだったらしいんです。だから、先輩も彼女のことを知ってて。当時の仕事っぷりとかも教えてもらったんです。そしたら、彼女は仕事に対してゆるいっていうより理解が遅いというか、物覚えが悪いっていう感じだったらしいんです」  一息つくためか、ココアを飲んだ優美の喉が美味しそうな音を鳴らす。 「それ聞いて、少し腑に落ちたというか。うちの部署に来てすぐは熱心に仕事しようとしてたはずなのに、いつのまにか言われたことだけするようになってて」  カップをカウンターに置いて、千帆を見上げてきた。 「で、話飛びますけど。最近、私の仕事っぷりに上司が心配しだして、彼女に自分の担当分は自分でこなすように指導したらしいんです。そしたら、彼女が私に泣きついてきたんですよ」  顔に浮かぶのは苦笑いらしい。 「気を回したり、予測したりすることができないって。言われたことをその場ですることしかできないって。今まで、言われたことだけしてればいいって言ってたのは、どうも彼女の強がりだったみたいです」  優美は感情が入り混じっているらしい。何とも言えない表現のしようのない表情をしている。 「仕方ないので、どんなことに気を回せばいいかを手取り足取り教えているところです。新人相手に仕事してる気分。彼女、プライドが高すぎて誰にも相談できなかったみたいですね」  残り少なくなったココアを大切そうに飲んだ優美は、まだ温かいだろうカップを両手で包み持つ。 「で、彼女の仕事は彼女にやらせて、私はサポートに徹することにしています。そうしたら、彼女は先読みするコツというか、ポイントというか、そういうのを少しずつ掴んできたようです」  ドアベルが揺れたせいで誰かが入って来たのかと思い、千帆はドアの方へ視線を向けた。ただ風が強くてドアが揺れただけらしい。小窓から見える外は冬空を絵に描いたようにくすんでいる。  優美の話のせいか、店内は晴れ晴れとした雰囲気に包まれている。一足先に春が来たようだと言ってしまいたいくらいだ。  彼女がカウンターに両肘をついた。両手に顎を乗せている。 「同僚の指導は終了です」  千帆は口をすぼめて首をかしげる。コツは掴んできているそうだけれど、独り立ちできたということなのだろうか。 「来月、私、昇進することになったんです。自分の仕事しつつ、彼女に指導して、教育の成果が見えてきているのが評価されたみたいです。中途半端な時期ですけど、他の部署でポストが空いたらしくて。そこへ」  はにかむ優美の顔は誇らしそうだ。  1ヶ月にも満たない前、暗く悩んでいた姿が嘘みたいに晴々しい。 「あ、彼女は課長が責任をもって指導にあたる、と言ってくれています」  角田が来たら、この話を教えてあげよう。もしかしたら、すでに那月から聞いているかもしれない。  酒の肴、ではないが、角田にココアを提供するときの『つまみ』にしたい。  千帆は背筋を伸ばして息を吸い込み、カウンターに額をぶつけるんじゃないかと思う角度で腰を曲げた。 「昇進おめでとうございます」  頭を上げると、照れくさそうな優美が姿勢を正してお手本のようにお辞儀をしてきた。 「ありがとうございます。これからも寄せてもらいますね」 「ぜひ。土曜日の午後は必ず1席空けておきます」 「さすがに、それはプレッシャーになるわ」  2人の笑い声が所狭しとばかりに店内をこだまする。  自分の世界に入っていたカップルは体を震わせ、読書家の男性は椅子から飛び上がらんばかりに驚いていた。  千帆は腰を直角に曲げてお詫びする。優美も席を立って3人に謝ってくれる。  目を合わせた優美と千帆は同時に肩をすくめた。

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