レイはココアのカップを両手で包み、手を温めているようにしている。 入り口近くの席でおしゃべりに興じている主婦3人組から、水のお代わりが欲しいと声がかかる。千帆はピッチャーを持って、ガラスコップに水を注ぎに行った。 2人の前に戻ってきて、自分用にコップに水を注ぐ。 「で、何で竜真の話を聞くのが嫌なの」 レイが大げさにため息をついた。 「だってさ、自分がどれだけ課で求められてる人材か、どれだけ向上心があるかってことを延々聞かされるんだよ。先週、仕事帰りに飲みに行った時もさ」 いったん上げた肩を落として、体全体でため息を表現するレイは、コメディ女優のようだ。千帆も無声映画のコメディアンのような表情を作った。 奥の席に座る女子大生2人組が手をあげた。 「あのー、ここにあるスイーツって注文できるんですか?」 千帆が近づかなくても話ができるよう、大きな声を出してくれる。 できれば、この店でもスイーツや軽食が食べられることを他の客にも知ってほしい。そう考えた千帆は、女子大生に一歩だけ近づいて少し声を張る。 「ええ、それは隣にできたカフェのメニューなんです。そちらのテイクアウト商品をここで食べていただけます。注文は私がお聞きしてカフェに伝えます。忙しくなければ届けてくださるので、その時にテイクアウト料金をお支払いください。もし、店が忙しいようなら、お手数ですけど、お客様ご自身で受け取りに行っていただくことになります。ちなみにテイクアウト品なので、パッケージは紙BOXです。」 話を聞きながらもメニュー表に夢中だった女子大生は、千帆の声が止むと、2人そろって手を挙げた。 「ベイクドチーズケーキ2つ、お願いします」 携帯電話を手に持って画面をタップしつつ、千帆は女子大生に向かって大きくうなずいた。 5分と経たないうちに、『らぶち』店長の唯人が紙BOXをもってやってきた。 千帆はジェスチャーで注文した女子大生を教える。入り口から一番遠い所へ座っているせいで、唯人は他の客にも愛想を振りまきつつ、女子大生2人の元へたどりついた。 唯人と女子大生は商品の受け渡し、料金の支払いなどのやりとりをする。女子大生の声からすると、店名『らぶち』の由来なども聞いているようだが、他の客の話し声にかき消されて、カウンターの中央では詳しい話は聞き取れない。 今度、店名の由来を聞いてみよう。唯人の様子を見ながら、そんなことを考えた。 物音がして、音の出所を探す。竜真が指先でカウンターを叩いていた。 「千帆、あの人と付き合ってるとか」 予想もしない発言に千帆は目が飛び出そうになった。小さく横に首を振る。 唯人がレイと竜真の背後を通るとき、千帆に会釈し、静かにドアを開けて出て行った。 竜真が不思議そうに口をとがらせ、顎をゆっくり上下に振る。 「あ、だって、スイーツとか軽食を隣からテイクアウトするなら、この店の商品としてメニューにすればいいのにさ、わざわざ隣の店の売り上げに協力するみたいなことしてるから、彼氏とか、片思いで近づきたいと思ってるとか、なのかなって」 レイは興味深そうに千帆と竜真を交互に見てくる。軽く眉間にシワを寄せた千帆が首をかしげる。 「ごめん。その発想がわからない。できる人に任せればいいんじゃないの。私も作れるけど、お金もらって出せるレベルじゃないし、1人で店をやっててスイーツまで手が回らないし」 1人で来ていたサラリーマン風の男性が席を立ち、ハンガーにかけた黒いコートを外している。千帆は入り口近くに置いたレジに向かった。 会計を終えて、直角に腰を曲げて感謝の意を示し、男性を送り出す。 扉が閉まるまで、出ていった男性客の姿を見続ける。ドアベルの振りがゆったりとしてきたころ、カウンターの中央へと戻った。
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