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 先日の吹雪が嘘のように、空には冬の太陽が柔らかい色で輝いている。15時のおやつ時は甘いココアが恋しくなるようで、平日にも関わらず満席だ。  1週間ぶりに店に来てくれた角田は、お気に入りの入り口から一番奥の席に座っている。30歳前後と思われる男性と一緒だ。Vネックのセーターを着ている男性は短髪が精悍な顔立ちを際立たせていた。  千帆は2人に水の入ったコップを差し出し、厚手の白いニットを着た角田を見る。 「角田さんがお連れの方といらっしゃるって珍しいですね」  定年退職をしてから『フラット』を見つけた角田は、ジム帰りや散歩の休憩などで、この店に時間をつぶしにくることが多い。そのため、半年以上の付き合いになるが、人を連れてきたのは今日が初めてだった。  角田は隣に座る男性の肩に手を置く。 「こいつは息子の蒼市。久しぶりに実家に帰ってきたっていうのに、葬式に来たような顔をしてるから連れだしてきたんだよ。あ、ビターココア2つね」  蒼市の表情は、初対面の千帆には平然としているように見える。  彼は目の前に立ててあった『らぶち』のメニュー表を手に取って凝視していた。千帆は2人分の牛乳を鍋に入れて火をかける。 「あ、それはお隣のカフェのメニューなんです。食べたいものがあればテイクアウト品として持ってきてもらえますよ」  メニュー表から顔を上げた蒼市は黒目が揺れているように見える。首をかしげる千帆を見て、彼は目を伏せ、小さく首を振る。千帆へ向けたジェスチャーではなく、自分自身に言い聞かせているようだった。  蒼市の横から角田がメニュー表をのぞきこんだ。 「蒼市、俺も見たい。あ、ビターを注文したからガトーショコラを食べてみようかな」  そう言って千帆の顔を見る。 「隣のカフェにも行ってみたいとは思ってるんだけど、つい、こっちへ入ってしまうんだよ」  鼻の下に人差し指を添えて、上目づかいになった。 「蒼市は何か食べるか」  食い入るようにメニュー表を見ていた蒼市が口元に手をやり、何かを考えている。 「俺、鯖サンドにするわ」 「えっ、美味しそうだとは思うが、ココアに合うか、それ」  目を丸くした角田だが、蒼市の希望のまま注文を頼んできた。千帆は『らぶち』に電話をかけ、ガトーショコラと鯖サンドを注文する。 「その鯖サンド、たしか昨日からメニューに入ったんですよ。私、試食させてもらったんですけど、とっても美味しかったです。まあ、角田さんがおっしゃるようにココアと合うかは微妙な気もしますけど。あ、ココアは軽食が届いてからお出ししますね」  カウンターの中央当たりの席に座っていた営業マン2人から会計の声がかかる。千帆は入り口近くに置いたレジに向かった。  年上のほうの男性が2人分の支払いをする。 「これから気難しい取引先での商談なんですよ。甘いココアを飲んで気持ちを和らげてからいくのがいいって、コイツに誘われて早めに会社を出てここへ来させてもらいました。おおらかな気持ちで臨めそうです。ごちそうさま」  見るからに仕事ができそうな男性に言われて、千帆は肩をすぼめ、少し後ろに立つ若い方の営業マンに目をやる。人たらしだろうなと思わせる顔は、ここ最近、頻繁に来店するようになった人だった。  2人に向かって、腰を直角に曲げる。千帆が顔を上げると、上司の方は軽く手を振りながら扉を開けていて、若い彼は千帆に会釈して上司の後ろをついて出ていった。  千帆はレジに向き直す。すでに次の客が会計を待っていた。  満席だった席が空いた。入り口近くに座る主婦3人組は話に花が咲いているようで、全員、ココアが半分ほど分残っている。  この人たちは千帆が話に入る必要はないだろう。  千帆は奥に座る角田の方へ行く。蒼市と親子水入らずで話をしているようだ。こちらも話し相手になる必要なさそうだけれど、ケーキとサンドイッチが届いたらタイミングよくココアを出したい。  角田が座る目の前にあるコンロの前に行き、そこに鍋を乗せる。  蒼市が勢いよく水を飲んだ。 「ごめんな。親父が世話になった人からの見合いを断ったうえに、仕事を辞めてフリーターになるっていう親不孝ばっかりしてさ」  ほとんど飲み干された蒼市のコップに、千紗は水を注ぐ。  そろそろ軽食が届くころだろう。  温めた牛乳にココアを溶き始める。  角田がカウンターに両腕を乗せ、蒼市に目を向けている。 「ああ、数か月も前のことじゃないか。いいよ。あれは俺も断りづらくて、とりあえず一回会ってくれたら恰好がつくかなって思った話だし。あわよくば話がまとまればいいなとも思ったけど」  口に力を入れて閉じ、鼻でため息をついている。  怒っているというよりも、良い大人なんだから仕方ないな、とでも思っているようだった。 「恋人がいるなんて聞いてなかったからな。仕事のことは、まあ追々、聞かせてくれ」  蒼市は両腕を組んで角田の顔をじっと見つめた後、目を伏せて首を小さく振った。  その行動に千帆は既視感を覚える。  彼が最初にカフェのメニュー表を見たときと同じ行動だった。 

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