昨日の夕方、庭の花壇に水をやっていると、隣に建つ那月の家の玄関チャイムが鳴った。 角田がそちらへ顔を向けると、スーツ姿の女性が何度もチャイムを押している。 時間は、時短勤務を終えた那月が子どもを保育園に迎えに行って、帰りにスーパーにでも寄ってるだろうと思われるころだ。 帰ってくるのは数十分後だと思うよ。 そう教えてあげようと思って玄関へ回ったところ、そこに立っていたのは堅物黒縁眼鏡、もとい中井優美だった。 優美も角田に気づいたらしく、ずり落ちた黒縁眼鏡を持ち上げた。 「この間、ココアのお店でお話しした方ですよね」 彼女は那月と同じ会社に勤めていて、所属は人事課らしい。 翌日が提出期限になってる福利厚生の書類を勤務中に渡すことができなくて、家まで届けに来た、という。 角田は数十分も立ち話するわけにもいかないと思い、家に上がって那月を待つように促した。 角田はキッチンで紅茶を2人分入れて、リビングで待つ優美の元へ行った。 「人事課なんだ。取引先とか言ってたから、営業とかそういう部署を想像してたよ」 優美は照れたように微笑んだ。 「人事課でも取引先って表現できる先はあるんですよ。福利厚生は外部委託ですし、健康保険組合とか労働基準監督署やハローワークとかも。まあ濁しましたけど」 屈託なく笑っている。 悩んでたことは解決して、心が晴れたのかもしれない。 優美は両手でカップを持ち、少しずつ紅茶を口に入れる。じっくり味わっているように見える。 「お二人に話を聞いてもらった次の日から、私、率先して仕事をしたんです。ゆるい同僚から、どんな作業が回ってくるかとかが想像つくようになってるんで。先回りして片付けていったり」 カップを顎の下あたりで持ち、透明感のある赤茶色の波を見つめているらしい。 「彼女がメインで、私がサブのはずの業務も、突然の相手方からの問い合わせにも対応できるようにコツコツ準備したり、調べ物したりして内容を把握して。もちろん、そこは彼女を差し置いて対応することはしませんけど」 堅物黒縁眼鏡ではなく、凛々しい黒縁眼鏡の彼女になっている。 「上司からの指示も気持ちよく受けるようにして。やらされてる感を持たないで、責任感を持って対応したんです」 柔らかい表情が一番表れている頬が、だんだんと赤くなってきている。 照れているのか、気分が高揚してきているのか、どちらかだろう。 「それだけやると、勤務時間内に終わらないから、残業も増えていくんですけど、頑張ったんです。ゆるい彼女に飲まれるのなんて嫌だから」 千帆が言ったセリフが印象的だったらしく、『ゆるい彼女に飲まれる』と表現している。 「そしたら、今まで何もしない彼女に対してスルーを決め込んでいた上司が、彼女に仕事の姿勢を注意し始めたんですよ。びっくりでしょ」 おもしろいものを見たとばかりに、優美は自分で言った言葉に笑い声を立てる。 暗い表情をしていて、初対面の角田と千帆に苛立ちを隠せなかった優美とは別人のようだった。 角田は心から嬉しくなり、楽しそうに笑う優美を見る目が細くなる。 リビングの窓の外に那月の姿が見えた。 ◇◇◇◇◇ 「で、那月ちゃんが帰ってきたのが見えたから、優美さんとはお開きになったんだけどね。凛々しくて、頼もしいキャリアウーマンに変わってたよ」 角田はお気に入りの生クリームが乗ったビターココアを一口喉へ流し込む。ココアカップを見つめて目を細めている。 店の雰囲気を温めてくれる常連客の穏やかな笑顔に、千帆も顔がほころんだ。
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