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 優美の目はマットに塗りつぶされていて光を感じさせなくなっていた。 「週末にここで頭と気持ちを落ち着けていたんですけど、新メニュー作るのに『ゆるーく』とか、味がわからないかもって言ってる人に試飲お願いするとか、なんかゆるすぎじゃないって思って、思わずぼやいてました。八つ当たりですよね」  優美は千帆に顔を向けて、謝るように目を伏せて首を折った。千帆は口を思わず開いて、両手を胸の前で振った。 「いえ、ゆるいのは確かなので。というか、ゆるく生きるように意識してます」  角田が意外だというように気抜けした顔をする。 「ゆるくを意識してるんだ、千帆ちゃん」  千帆がこめかみをかいて目線を角田から外す。  角田は手に持ったガラスコップを見つめた。 「そうだね。事情や考え方はいろいろだろうけど、理由があってゆるくいる人もいる。でも、その同僚は厄介だね」  優美の方を見て、しっかりと目を合わそうとしている。 「仕事しんどいとは思うけどさ、上司や取引先から、中井さんはすっごい信頼されてるよね。気持ちを切り替えたらどうかな。今は給料が同僚の彼女と変わらないとか、残業ばっかりでって思うだろうけど、必ず差が出るよ。中井さんが大変な思いをしてるのは見てる人は見てるから」  優美は初め目を合わせていたのだろうけれど、だんだんと視線が落ちていき、今は角田が持つガラスコップを見つめている。角田は天井を見た。 「こんなことをいう俺も同じようなことで悩んだことあったよ。渦中にいるときは不満しかなかったな。参考になることを言いたいけど、頑張れしかでてこないな」  自嘲気味に笑う角田に優美は小さく首を振った。千帆は目の前で暗く沈む2人を見つめる。 「あの、私、会社勤めとかしたことないし、この店も一人でやってるから誰かと一緒に仕事をするときの苦労とかわからないんですけど」  岩を背中に乗せたような2人に乗る空気を軽くしたくて、千帆は見切り発車で話し出した。 「えっと、中井さんって仕事できる有能な方ですよね。角田さんもおっしゃってましたけど、上司の方も取引先もそう評価されてらっしゃいますよね」  優美は、寝耳に水、といった顔をして千帆を見る。 「いや、全然そんなことはないと思いますよ。当たり前のことをしてるだけで」  角田が優美の言葉に切れよく反応した。 「何、言ってるんだよ。俺、言っただろ。すっごい信頼されてるって。単に真面目にこなすってだけじゃなくて有能だからだよ」  優美は動揺を隠そうともせず、千帆と角田を交互に見る。千帆は吹き出した。 「中井さん、わかってなかったんですか」  千帆は前のめりになって優美をまっすぐ見る。 「仕事がしんどいのは同僚の仕事が回ってきて量が多いからっていうのもあるんでしょうけど、それよりも受け身だからじゃないですか。だから損してるって思っちゃうんですよ」  角田が自分の額を手の平でたたき、小気味よい音を立てる。 「そうだった。気持ちの切り替えね。思い出したよ。中井さんと同じような目にあったとき、能動的に動くようにしたんだった。自分の仕事はもちろん、回ってきそうな業務は率先してやったり、やらないって決めたら頼まれても頑として受けなかったり。俺は仕事をしない同僚よりも有能なんだから、自分の業務量の決定権は自分にあるって思ってたよ」  出口のない迷路でさまよって途方にくれたかのようだった優美の頬に赤みがさした。マットだった目の奥に一点の輝きが見える。  千帆は、優美の変化に嬉しさがこみ上げてきたものの、強めの口調を意識した。 「私も、バイトしていたカフェでは、自分の店を持ちたいためにノウハウを得てやろうって思って勤めてました。中井さん、有能なのに、上司や取引先から信頼のない、ゆるい人に飲まれちゃってますね」  体を角田の方に向けたまま千帆を見た優美の目は鋭く、千帆はほんの少し後退りしてしまった。  ドアベルが鳴り、千帆は入り口を振り向く。寒さにかじかんだ手をこすり合わせた年配のご夫婦が入ってきていた。カウンター中央の席へ案内する。  夫婦が席に着くと同時に、優美が腰をあげた。
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