朝の愉しみ
朝の一杯②

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朝の一杯は、四角い箱に乗らねばたどり着かない。我ながら割に合わないと感じているが、これがなければ気持ちが仕事に向かないのは分かっていた。 今日は何を飲もうかな、と出来るだけ仕事のことを考えないよう、頭を使わないよう思考を停止しながら、みのりは自宅から駅へと歩いた。ここから目的地まで、電車を乗り継がねばならない。職場までの距離にうんざりする。家を出た時は、軽く感じていた気持ちも、段々と重くなって来た。 時刻は朝六時過ぎである。通勤ラッシュを避け会社に向かうサラリーマン、部活動の朝練と思われる高校生。彼らの間に挟まり、みのりはホームに立つ。 ふと、自分の前に並ぶ男子学生の姿が目に入った。小麦色の健康そうな肌。短く刈り上げられた髪。彼らにも年相応に悩みごとがあるのだろうか。たった数年歳が違うだけなのに、学生の時とは比べものにならないほど沢山の仕事をこなし、何とかやり過ごす日々。たまにはサボっても良いのではと思うが、染み付いた習慣は中々変えることができない。だからこそ自分にご褒美をあげたいと思い、毎朝早起きしているのだった。 みのりは線路の向こうへ目を向ける。大きなボリュームで、列車が来るとアナウンスが入る。朝の涼しげな空気は段々と生暖かくなり、熱風を連れて電車がホームにやって来た。四角い箱。まるで鉄の塊のようだとみのりは思った。車内にはスペースに余裕がある。空いている車両に乗り込むと、すぐにドアが閉まった。 みのりは車内の中央寄りにポジション取りをする。窓から見える景色を眺めるためだった。荒川を渡る時、神奈川、山梨方面の山が見えるのだ。運が良い時は富士山が見えることもある。一種の願掛けみたいなもので、山々のシルエットが綺麗にはっきりと見える時は気分が良くなる気がするので、荒川が近づくと自然と外に目が行ってしまう。 今日はどうだろう。 電車は川に近づき、車輪の音が一段と低くなった。電車は橋を進み始める。みのりは必死に川向こうを見つめる。 川面に朝日が反射し、空は青く透き通っている。河川敷をランニングする人々。川沿いの桜の樹。遠くに見えるマンション。橋の中腹に差し掛かった所で、ビルの合間から丹沢と富士山の双方が視界に入った。 今日は成功だ。運が良い。 たった数十秒のことだったが、みのりはひそかに心の中でガッツポーズをした。 電車は一駅、一駅と乗る人を増やしながら揺れている。人がまばらだった車内は、いつの間にか混みあっていた。少しずつ減速し、電車はいくつもの架線が立ち並ぶ駅舎へと入って行く。 ついに目的地に到着した。発車を知らせるメロディに見送られながら、みのりは電車を降り、階段を早足で下った。 朝の一杯はもうすぐそこまで来ている。人を掻き分けながら足を進めると、駅ナカに併設されているコーヒー店が見えて来た。ようやくたどり着いたとみのりは思った。そのまま店のドアを押し開ける。 カラン、と音が鳴った。

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