『なんでも屋』の西京無敵さん
第一話 死にたくなった若者・綾野透 4

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 綾野の家から中洲までは、歩いて三〇分程かかる。地下鉄に乗ればすぐ着くのだが、今は人がたくさんいるような場所には、なるべくなら行きたくない。  博多の町に流れるドブ色の那珂川が見えてきた。川沿いを少し進んだ、路地裏の中に、その薄汚い雑居ビルはある。綾野は躊躇いを覚えたが、覚悟を決めてビルの階段を上っていく。  二階の廊下。茶色がかった電光灯が、ぱちんぱちんと音を立てて点滅を繰り返す。小さな蛾の死骸が、廊下にいくつも落ちている。ホラー映画を彷彿とさせる場所。用があるのは、その奥にある角部屋だ。 「ああ、綾野さん。こんにちわ」  西京は、相変わらずの笑みで綾野を迎え入れた。笑っているはずなのに、どこか無機質な笑顔だ。  綾野は「どうも」と軽く会釈。複雑な心境だった。 「考え、決まりましたか?」 「…………ええ」  実際はまだ迷っている。 「それは良かった」  西京は、ソファに座るよう綾野を促した。 「喉が渇いたでしょう? お茶は熱いのと冷たいの、どうします?」 「では、冷たいので」  西京は少し嬉しそうに「では、冷たいので」と、綾野の言葉を反復させた。 「それで、どういった内容をご検討されていますか?」  お茶をテーブルに置くなり、西京は聞いてくる。また、続けて、 「やはり、店主を見つけ出しますか?」  綾野は、首を横に振った。 「それはもういいんです」 「あれ、よろしいのですか?」 「はい。もう関わる気もありませんので」  被害者ではあるが、実際店長を恨んでいないのが素直なところ。雇ってくれてありがとうと、感謝しているくらいだ。今でも、営業終わりに店長と二人並んで芋焼酎を飲みながら話していた時のことを思い出す。悪くない、そんなひと時のことを。 「お人好しなのは分かっています。ですが、店長にもなにか、お金が必要な事情があったと思うんです。お酒が入ると残念なところもありましたが、基本的にあの人、悪い人ではないんです」 「綾野さんは、思慮深いんですね」  思慮深い。その意味は分からなかったが、綾野は「ええ」と曖昧に答えた。「思いやり」のある、そういったニュアンスだろうか。 「自分のことだけではなく、相手の立場となって考えられる綾野さんは、本当に出来たお方だ。尊敬したいくらいです」 「そんなことはありませんよ。それに西京さんだって、俺の話をちゃんと聞いてくれた上で相談に乗ってくれているじゃないですか」  西京は、にこりと笑った。 「ええ、なんでも屋ですから」  仕事だから、そう意味合いか。飾らないその態度には、少しだけ好感が持てる。 「それで、いかが致しましょうか。ここへ来たというからには、なにかしら依頼があってのことでしょう?」 「……はい。その通りです」 「どういった依頼ですか?」  綾野は口を閉じる。ここへきて、怖気づいてしまっていた。「なんでも屋」という、いかにも胡散臭い店。仮に依頼をしても、実行されないまま依頼料だけを持ち逃げされる可能性も考えられるが、 「ご安心ください。なんでも承りますよ」  西京の変わらない笑みが、綾野の気持ちをふっと軽くさせる。ここまで来て悩んでいることがバカらしく思えてしまう、そんな笑みだった。  綾野は決意を固めて、結局は告げることにした。 「俺を、この世から消して欲しいんです」  西京は「おっ」と、これまで見せたことのなかった驚いた表情を浮かべた。そんな顔もするのかと、綾野自身驚いていた。 「この世から消えたい、ですか。それはまたどうして」  訊ね返してくる西京に、綾野は乾いた笑いで返す。お茶で喉を潤して、ここ数日ずっと考えていたことを打ち明けた。 「もう、生きていることが嫌になったんです。まさか俺がこんなこと言う日が来るなんて思ってもみませんでしたが、この気持ちは、もうどうしようもならないんです。以前は、なんとなく生きていけるって、この歳にもなってそんなことを思っていたんです。まだ若いから、いくらでも潰しはきく。やりたいことが見つかったら、そっちへ方向転換すればいい。仮に見つからなかったとしても、普通のサラリーマンとなって平凡に暮らすのもアリかなって」  話せば話すほど、自身の見通しの甘さが際立つのが分かる。生きるってことは、そんなに甘くはない。 「最近、ようやく気付いたんですよ。なんとなく生きて、じゃあその先はどうするんだって、そんなことを」  西京は小首を傾げた。 「そのときとなって、考えてみてはいかがですか? 将来のことなんて、誰にも分かりませんよ。今の状況も、いつかは『そんなこともあったなぁ』と、笑い話となる日が来るかもしれません。  それに、あなたはまだお若い。その歳ならば、いくらでもやり直しはききます。一生懸命頑張れば、新しい道が開ける可能性だってある。綾野さんなら、それができると私は思います」  人情味溢れる、そんな言い方。  まさかこんなにも優しい言葉をかけてくれるなんて、思ってもみなかった。 「綾野さん。私としては、もう一度人生を見つめ直してみても遅くはないと、そう思うのです」 「人生を見つめ直す、ですか」 「はい。今はいろいろなことが重なって、気分が沈んでいるだけですよ」  全くその通りだ。信頼していた人に騙され、借金を背負わされ、いきなり仕事と目標を失った。それら悩みがいっぺんに押し寄せたから、ただ気持ちがナーバスになっているだけ。まだまだ、やり直しにきく。人に言われなくたって、頭では分かっている。 「怖くなったんです、将来が」  綾野は頭を抱え、悲痛な思いを口走る。 「確かに、やり直しはきく年齢かもしれない。なんでも出来る、そう思って生きてきました……だけど、だからなんだと、そう思う自分もいるんです。頑張ってやり直しても、かつて自分が思い描いていた幸せは掴めない。俺は、同年代のみんながしてきたことを、なにをしてこなかった。定食にもつかず、結婚のことも考えず、ずっとふらふら生きていただけなんです」  一度吐き出すと、不安な気持ち、言葉が止まらなかった。 「結婚も、子供も、きっとできない。親も、いつかは死ぬ。それだけならまだしも、ボケた親の介護をする羽目になるかもしれない。そうなったら、いよいよお終いです……俺、何のために生まれてきたんですか」 「綾野さん。その苦しみを抱えているのは、あなただけではありません。中には、綾野さんよりもっと苦境に立たされている方もいらっしゃいます」 「分かってますよ……世の中にはもっと不幸な人もいて、それでも頑張って生きているんでしょうね。でも、俺には無理なんです。俺は、その苦しみに耐えられない。将来に希望もない。このまま生き続けても、なんで生きてんだろうと、いつかきっとそう思うはずです。そうやって、惨めに死んでいくんです」  いい歳こいた男がなにを言っているんだと、綾野は自分のことが嫌で嫌で堪らなかった。でも仕方がない。今の自分には、斎藤のように全国一周の旅へ飛び出すチャレンジ精神はないのだ。かと言って、普通に働くという度胸すらない。アルバイトしかしてこなかった綾野は、社会が怖くて堪らなかった。  だったらいっそ、苦しみを抱えて生きていくならば……そんな気持ちで、この場所へ訪れたのだ。 「綾野さん。お気持ちは、もう変わりませんか?」 「…………はい」  西京は、「分かりました」とゆっくり頷いた。 「ご自身でもいろいろと考えてここへ訪れた、そういうことですよね。なのに、あれこれ余計なことを言ってしまいました。申し訳ございません」  西京は素直に謝罪する。その丁寧な謝罪は、彼のこれまでを表していると思えた。この西京という男もまた、社会の荒波に耐え、頑張って生きてきたのかもしれない。俺みたいな底辺とは違う。 「では、具体的な話に移りましょうか、綾野さん。ご依頼は『自身の消失』と、そういうことで間違いはありませんか?」  綾野は少し迷って、 「はい」  小さく、恭しく、頷いた。

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