『なんでも屋』の西京無敵さん
第一話 死にたくなった若者・綾野透 10

 生きた心地がしない──  それは車の助手席に乗っている間も、馴染みある博多の街が見えてきても、『なんでも屋』の事務所に着いたときなんかはその最も。  その間、西京が一切口を開かなかったこともあるのだろう。なにを考えているのか、分かったものじゃない。  西京は扉を開き、綾野に目で合図。 「では綾野さん、ソファにかけてお待ち下さい。冷たいお茶を、ご用意致します」  それだけを伝えて、西京は台所へ引っ込んでいった。  もしかしたら、お茶に毒でも盛られているのかもしれない。ソファに座った綾野は、貧乏揺すりをしながらその時を待つ。さながら、死刑執行を待っている気分だ。  数分して、西京が戻ってきた。お膳に乗った湯呑みを綾野の前に置く。相変わらずの笑みを浮かべる。 「安心してください。毒は入っていませんから」 「えっ!」 「ふふふ、冗談です」  西京は、綾野の対面に座る。 「それで、お話を伺ってもよろしいですか、綾野さん。私のプランに、なにかご不満でもありましたか?」  西京は笑顔のままだ。  綾野には、その笑みが怒りの表情に見えてしまう。実際にもそう見えるのか、ただ綾野の恐怖心がそうさせたのか。  綾野は開口一番、「申し訳ありませんでした」と謝罪句を述べる。また深々と頭を下げて、死ぬのが怖くなったのだと、素直な気持ちを伝えた。気持ちを偽っても仕方がない。怖いものは、怖いのだ。  それから始まる綾野の独語りは、実に数十分にも渡った。西京は相槌を打ちながら、静かに頷くだけだ。  話し終えたとき、綾野の目には大粒の涙が浮かんでいた。 「西京さん。俺が間違っていました。俺、やっぱり死にたくありません」 「涙を拭いてください、綾野さん」  西京は胸ポケットから白いハンカチを取り出し、綾野へと渡す。 「死にたくないと思うのは、人間として当然のことです。いや、人間だけではなく、虫も、魚も、動物も、きっとそう思っているはずですよ。なぜなら生物は、生きるために誕生し、死なないために生きているのですから。  ですので、綾野さんは生物として当然のことをしたまで。生きるために、必死に、死ぬ気で足掻いた、そうでしょう」  道徳的な言葉。綾野は西京の笑みに、仏の姿を垣間見た気でいた。 「ですが、それは生物的観点から見た範囲での話に過ぎません。確かに、犬猫であればそれでも構いませんが、綾野さん、やはりあなたは人間です」 「えっ」 「人間社会のコミュニティで生き、その恩恵に預かり生きてきたはずです。その営みの中で、死を選んだのでしょう? そして、『なんでも屋』である私に依頼し、契約を交わした」 「そ、それは……」 「今回の一件で、綾野さんがどれだけの損失を生み出したのか、想像つきますか?」  西京は、綾野へ手のひらを開いて見せた。  厳密には、五本の指を。 「ざっと見積っても、五〇〇〇万の損失です」  綾野の表情が凍り付く。 「人さまの命を取り扱うことは、並大抵のことではありませんからね。今回綾野さんのために、たくさんの人が協力してくれました。私としても、綾野さんにより良い最後を迎えていただけるようにと誠心誠意プランを組みました。どうも、ご理解は頂けなかったようですが」 「申し訳、ありません……」 「謝って済むのであれば警察はいりませんよ、綾野さん。あなたはどれだけの人に迷惑をかけたかを、まるで分かっていない」  分かるわけがない。分かりたくもない。ないが、五〇〇〇万の損失を生む程だ。少なくとも、綾野の想像は絶していることだろう。 「もしかしたら、首を吊る人が出るかもしれませんね」 「そんな! 俺一人なんかの命で!」 「それこそ想像力の欠如ですよ。人一人をこの世界から消すことが、どれだけ大変なことか考えてみてください。下手を打てば、人生を一生棒に振る方もいたことでしょう。いや、中には既にそうなっている方もいらっしゃるかもしれません。彼らは、被害者です。綾野さん、あなたは店主にされたことと同じことを、彼らに強いてしまったのです」  西京の無機質な声が、綾野を冷たくつけ離す。 「さて、どうしましょうか、綾野さん。もう一度プランを組み直しても構いませんが、こんなことがあった上では誰もあなたを受け入れてはくれないでしょう。私の信用問題にも関わってきます。かと言って、あなたには定職もない。アルバイトで地道に返せたとしても、月数万くらいが関の山。それでは綾野さん、あなたの生活が苦しいでしょう? 生き残ってしまったことを後悔する日が、いつか訪れるかもしれません」  返す言葉もなかった。  綾野は、ただただ焦燥する。自身の考えも訴える気力は、もうない。西京の言っていることは正しい。反論する余地などない、社会の真実そのものだ。今こうして生きていることに罪悪感を覚えてしまうほどの、それは揺るぎなく正論だ。  全部、俺が悪いのだ。  俺の生き方が、間違っていたんだ。 「……西京さん」 「ええ、なんでしょう?」 「非常に図々しいお願いではあると、思うのですが、」 「はい」 「今からまた、依頼をすることは、可能でしょうか?」 「ほう、この後に及んでまだそんなことを」  西京は足を組み直し、俯く綾野の青ざめた顔を見つめる。 「それで、どのような依頼を?」 「……生きて、借金を返す、その方法を聞きたいんです」 「ほうほう」 「今回のことで、よく分かりました。俺は、死にたかったんじゃない。見えない将来が怖くて、目を背けていただけなんだって。でもよくよく考えたら、死ぬ気になればなんでもできるんじゃないかと、そこに気付いたんです」  実際、綾野は死ぬ気となって逃げ出し、今この場所にいる。西京の返答次第ではこれからまた逃げ出すことになるかもしれない。それでも構わない。どうせ死ぬのなら、最後まで足掻いてやる。死を乗り越えた今の綾野に、怖いものなんてない。  西京は、ふっと笑みを溢した。 「今の綾野さんは、無敵の人と呼ぶのかもしれませんね」 「……無敵の、人?」 「はい、そうです。無敵の人。社会的地位も、財産も、職もない。なにも失うものがなにもないので、犯罪を起こすことにすら躊躇いはない。大量殺人を犯す人によく見られる傾向です」 「そ、そんな! 俺は別に、人を殺したいだなんて思っていませんよ!」 「これは極端な例です。綾野さんの場合は、生きるためならば、死ぬ気で頑張ると、そういうことですよね? もちろん、常識的な範囲で」 「まあ、そういうことに、なりますかね」 「そうでしょう。ですので綾野さん、無敵の人となった今のあなたにだったら、これからなんだってできるはずですよ。人並みの生活を送ることも、はたまた大金持ちとなることも。全ては、綾野さんの選択次第です」  西京は、穏やかな笑みを綾野へ向けた。 「だからもう、死のうだなんてバカなことは考えないようにして下さいね」 「さ、西京さん……」 「脅すような真似をしてしまい、申し訳ありません。ですが、どうすれば綾野さんをより反省させられるか、私なりに考えた結果こうなったのです。死にたいだの、死にたくなくなっただの、命は、自分の思い一つでどうこうできるほど、軽いものではないと、あなたに知っておいて欲しかったのです」  まさか、そこまで考えていてくれたとは。   「私はなんでも屋という職業柄、たくさんの人の最後を見送ってきました。それら人たちの選択に、口を出すつもりもありません。ですが、やはり同じ人として、心は痛むのです。  実を言うと、綾野さんと同じようなことを望む依頼者が、本日もう一人いたんですよ。経営者さまだったのですが、結構な借金を抱えていたようです。そうしてついに、返済が滞ってしまった。結果として、綾野さんと同じ依頼を私に持ちかけてきた。一応、綾野さんの時と同様、思い直すよう説得したのですが、意思は固いようでした。丁度、本日の枠が急遽空いたばかりでしたので、今からであれば無料でご案内できると伝えたところ、『助かります』と、そう言ったのです」 「まさか、その空いた枠ってのは……」 「注射嫌いの子供が、いましてね」  俺のことを言っているのだろうか。 「そんな訳で、本日また一人、私は命を見送りました。死に顔を見せていただいたのですが、すごく穏やかな顔をされていましたよ。生きることよりも、死の方が救いだと、そう思われたのでしょうか」 「どう、なんでしょうね……」  死ねなかった綾野には、その気持ちは分からない。  だが、その彼に自身の未来を重ね合わせている自分がいる。もしも、あのまま焼き鳥屋を引き継いでいたとしても、うまくいくとは限らなかった。結局は、借金だけを抱える羽目となっていたかもしれない。そんな人が、この世の中にはたくさんのいるのだろうか?  それすら、今となって空虚な妄想に過ぎない。 「残念なことですが、この国は自ら死を選ぶ若者が年々増えている。人間であるが故でしょうか、生きることの理由を求めたがるのです。なぜ生まれてきたのだろう、生きることに意味はあるのだろうか、とね。考えること自体に間違いはありませんが、度が行き過ぎると、今回の綾野さんのようになるわけです。彼の場合は、その一線を飛び越えてしまわれた」  聞いていて、耳が痛かった。  確かに、俺は生きる意味にこだわり過ぎていたのかもしれない。皆のように幸せな人生を歩めていない現状に、どうせ不幸な未来しか待っていないだろうという不安に、自身の存在理由を問うてしまった。人生に悲観し、人生を悟ったつもりでいたのだ。でもそれは間違いだったと、今ならそれが分かる。  死にたくないと、心からそう思える。 「悲しい話です。私は死にたいと思ったことがないので、彼の気持ちは理解してやれませんが、死んで欲しくはなかったと、そう思ってしまうのです。だから綾野さんが今この場にいることを、心のどこかで喜んでいる自分がいるのですよ。商売人としては失格、かもしれませんが」 「西京さん……」 「綾野さん、厳しいことも散々言いましたが、全てはあなたを思ってのことです。余計なお世話だなんて、思わないで下さいね」 「そんなこと、思うわけありませんよ……むしろ、ありがとうございますって、そんな感じで」 「ふふふ、よかった。なら、私からも言わせてください。綾野さん、生きることを諦めないでくれて、ありがとうございます」 「さ、西京さん……」  綾野の目頭に、熱いものが込み上げてくる。両膝に手を置き、もう一度、深々と頭を下げた。誠心誠意の謝罪、その意思を、西京に示す。 「ご迷惑をお掛けしてしまい、本当に申し訳ありませんでしたっ!」  西京はウインクをしながら笑った。 「仏の顔も三度まで、ですよ?」  西京さん! 「ただ先ほど申しあげたとおり、五〇〇〇万の負債を負ったのは事実です。孔雀さんの方はなんとか補填が効いたのですが、問題は桐崎さんですね」 「桐崎さん?」 「ご贔屓にさせてもらっているブローカーです。ほら、タクシードライバーの。本職はヤクザなんですけどね」  やはり、そういうことだったのか。 「綾野さんが逃げ出したので、急遽でしたが桐崎さんに依頼を頼んだ次第です。実を言うと、この負債が大きいのです。さてさて、どうしたものか」 「返します。一生をかかってでも」 「当然です」  即答する西京。もしかしたら借金もチャラにしてやると言い出すかも期待していただけに、少し残念に思う。さすがにそこまで甘くはないようだ。  西京は綾野の顔を見つめてくる。次に、値踏みするように、綾野の目を見た。 「綾野さん、良かったらウチで働いてみませんか?」 「えっ、俺ですか!?」 「はい。実を言うと、最近は有難いことに忙しくさせていただいておりまして、従業員を雇おうか考えていたのですよ。ただ特殊な商売故、なかなか人選が難しくて」 「だったら、俺じゃ駄目でしょう。逃げ出したんですよ、俺は」 「でも、帰ってきたではありませんか」  違う、連れ戻されたのだ。と、さすがにそれを口に出す度胸が綾野にはなかった。 「これも運の巡り合わせ、とでもいうのでしょう。死から生還し、生きる決意を固めた若者がここにいる。しかも人あたりが良さそうですし、お世辞抜きで中々にハンサムだ。営業向きかもしれません」 「そ、そんなことは……ははは」  満更でもなさそうに綾野は笑った。 「どうですか、綾野さん。もしも綾野さんが勤めてくれるのでしたら、とりあえず借金を私が肩代わりしてあげてもよろしいのですが」 「ほ、本当ですか!?」 「ええ。ただもちろん、毎月給料から天引きさせていただきますけどね」  なんでも屋の給料……一体どのくらいの額になるのか、綾野は気になって止まない。ただ、今この場でその額を尋ねる権利など俺にはない。借金を肩代わりしてもらえただけ、有難いことだ。  綾野は、西京へと向き直った。姿勢を正し、頭を下げる。 「もう、なにからなにまで……本当にありがとうございます、西京さん」 「一緒に働いてくれると、そういうことでよろしいですか?」 「もちろん! 西京さんの為なら、なんだってしますよ!」  その言葉に、嘘偽りない。  西京にも、綾野のそんな熱い想いが伝わったのだろうか。 「よろしい」  西京は立ち上がり踵を返すと、デスクへと向かう。引き出しから紫色の風呂敷を取り出し戻ってくると、それを綾野の前に置いた。 「西京さん、これは?」 「祝い金です」 「は?」 「中身をご確認ください」  意味が分からない。もしかして拳銃が入っていて、『引き金です』なんてブラックジョークをかまされるとか──と、そんな冗談は、風呂敷を開いた瞬間にも思考から吹っ飛んだ。 「三〇〇万。ちゃんと枚数があっているか、確認してみてください」  綾野は目を疑った。いや、現実を疑った。 「さ、西京さん! これ、どうしたんですか!?」 「回収してきました」 「回収? ま、まさか……」  西京は頷き、「そのまさかです」と宣う。 「実はですね、焼き鳥屋の店主の行方をこの三日間ずっと捜していたのです。そしてついに、見つけ出すことに成功しました。と言っても、これは私が勝手にしたことです。彼に騙されていなければ、綾野さんがこんなにも悲しい結末を選択することもなかっただろうと、あなたが哀れに思えて仕方がありませんでした。ですので、せめてあなたが奪われた資金を取り返し、それを親御さんに返してあげようと考えました」 「さ、西京さん! 店長はどこに!? それに三〇〇万全額なんて、店長が……」 「人の心配をしている場合ではありませんよ、綾野さん。元はと言えば、これはあなたのお金でしょう」 「あ、はい。そうですね……」 「これだけ、ちゃんと理解しておいてください。彼には彼の、綾野さんには綾野さんの人生がある。仮に彼の人生が不幸なものとなったにせよ、それは自業自得。因果応報と、そう言うものです。その後の人生をどうするのかは、彼次第です」 「……はい」 「本当に、分かっていますか?」 「も、もちろんです!」  西京は「やれやれ、あなたって人は」と、呆れ気味にため息を吐く。ただ直ぐにも、ふっと穏やかな笑みを見せた。 「まあでも、それが綾野さんの良さかもしれませんがね。今回は、騙されて尚相手を恨まなかった綾野さんの勝利と、そういったことにしておきましょう」    次に、西京はテーブルに並べられた札束全てを掴み、綾野へと渡す。 「親御さんに、お菓子でも買っていってあげてください。きっと、綾野さんのことを心配しているでしょうから」  まずは親にお金を返しなさいと、そういうことが言いたいのだろう。親からの借金だったのなら踏み倒してもという、俺の腐れ根性を見透かしていたのかもしれない。借りた金はちゃんと返しなさい、と。 「西京さん、ありがとうございます……ありがとうございます……」 「いえいえ」 「聞いても、いいですか?」 「はい、なんでしょう?」 「……どうして、俺なんかの為に、そこまでしてくれるんですか?」 「人情」  西京はそこで一旦言葉を区切る。顎に手を当て、思案した後にも。 「──と、綺麗事を言っても仕方がありませんね。綾野さん、あなたは私に『自身の消失』を依頼した。あなたからすれば、それは死を意味していたのかもしれない。だけど私には、死にたいのではなく、ただその生き方を見失っているだけのように思えたのです。結果としては、そんな私の推測は正しかった。綾野さん、あなたは死の運命を乗り越え、ここにいる。そして、生き方を見つけた。かつてのあなたは、依頼通り『消失』したのです。だから、こうも思います。私は自身でも知らず知らずの内に、こうなる結果を、プロデュースしていたのではないか、とね」  西京は、にっこりと笑った。それは阿弥陀如来菩薩のようにも、はたまた聖母マリアとも思えるくらい、慈愛に満ちた優しい笑顔で。 「私は『なんでも屋』、西京無敵ですから」  綾野は感動のあまり、その場で泣き崩れてしまう。  西京は綾野の背中を摩りながら、「辛かったでしょう」と優しく慰めた。 「今日はもう遅いので、ご実家まで車でお送り致します」  綾野は、西京の好意、言葉に甘えにさせてもらうことにした。今は神さまに身を委ねてみようか。  博多の街を、ジャガーの高級外車が走り抜ける。  俺の車ではないが、最高に気分が良い。俺もいつか、西京さんみたくこの車のハンドルを握る日が来るのだろうか──そんな夢想を、綾野は博多の夜に、西京の横顔に抱かされる。 「綾野さん、これから一緒に頑張りましょうね」 「はい、西京さん!」  世界規模の伝染病。  その煽りを受けて、今も尚苦しんでいる人たちがたくさんいる。だけれど今夜の博多は賑わい、街行く人々の顔を幸福そうだった。博多も少しずつではあるが、元気を取り戻しつつあるようだ。  だったら、大丈夫だろう。生きて、明日の朝日を浴びることができるのであれば。  今日を生きる時間が、俺たちの未来には広がっている。  実家の春吉に着いた。あっという間のドライブ。西京は「では、またこちらからご連絡致します」と、業務的にそう言い残し去っていった。  実家に入る。なぜか、母親は料理作って待っていた。どうも、綾野が帰ってくるという、そんな予感があったらしい。虫の知らせか、はたまた親の勘か。  いずれにせよ、数年ぶりに食べる母親の肉じゃがは美味い。  タイミングを見計らって、綾野は借金を母親へと返した。そして、本当は騙され借金だけが残ったこと、死のうと考えていたこと、西京無敵という男に救われたこと、借金まで取り返してもらった挙句はたらき口まで紹介されたことを打ち明けた。とは言え、さすがに今日起きた出来事を話すわけにはいかない。その辺は、適当に誤魔化すことにした。  母親は、 「はぁ、あんたバカねぇ」  そう言って、目に涙を溜める。ここ最近の綾野の様子がおかしかったので、薄々と変なことに巻き込まれていることは予感していたようだ。  綾野は感無量だった。繰り返し何度も謝罪する。「もうこんなバカなことはしない」と、西京の元で一生懸命働くことを誓った。もう、母親を悲しませるのは御免だ。  と、話もひと通り終わり、綾野の全身泥まみれの服を脱いでいる時だった。 「ほんと、相談してよかったわぁ」 「え、なんだって?」 「え? 聞こえてた?」 「うん。で、相談ってなんの話?」 「…………なんでもないわよ」        ※   ※   ※  次の日、綾野は朝の報道ニュースを見て仰天した。70歳男性が、部屋で首を吊り自殺していたという報道。アナウンサーの無機質な声が、綾野のよく知る人物の名前を読み上げる。事件性の可能性は低いと言われているが……ふと、綾野はなぜか店長の携帯を持っていた西京のことを思い出す。  綾野は、乱暴にテレビの電源を切った。  そのまた後日、西京の方から連絡がきた。  綾野は事務所へ訪れ、これからのことについてを話し合った。仕事の話だった。  業務内容的なことは、詳しくは語られない。曰く、「依頼人の希望に沿って動いて頂きますので」とのことだ。つまり、臨機応変に対応しろということらしい。「綾野さんなら問題ありません」とのことだ。不安が少しだけ軽くなる。  問題は、それ以外の全てだった。  月給は十〇万(借金返済を差し引いた金額)。休暇は月四日。ボーナス年二回、三ヶ月分の給料(全て借金返済に当てられる)。寮への住み込みが必須(家賃は発生しないが、依頼は二十四時間いつでも受け付けている為、事務所の空き部屋に在中しなければならない)。内容だけみれば、俺は下僕かそれ以下の存在。  まさかこの西京、俺を程の良い召使いにしようとしているのではなかろうか──  なんてな。  まだ他にもいろいろとあったが、綾野は考えないようにした。働けるだけ、雇ってもらえただけマシだ。それに、仕事ぶりによっては給料も上がると言っていた。借金を返済さえすれば、西京さんのように高級車に乗れる日が訪れるかもしれない。  未来は明るい。今はただ、西京無敵の背中だけを追いかけよう。  そう言えば、あれから斎藤と全く連絡がつかなくなった。仕事が忙しいのか、それにしたってラインの既読通知を付かないなんて。斎藤は、レスポンスの速い男だったはずだ。  ふと、綾野の脳裏に西京の声が走りよぎる── 『──実を言うと、綾野さんと同じようなことを望む依頼者が、本日もう一人いたんですよ。経営者さまだったのですが、結構な借金を抱えていたようです。そうしてついに、返済が滞ってしまった。結果として、綾野さんと同じ依頼を私に持ちかけてきた、というわけです』    ……まさかな?

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