『なんでも屋』の西京無敵さん
第一話 死にたくなった若者・綾野透 6

 人生最後の三日間、その一日目は鈍痛とともにはじまった。頭が痛い。記憶はおぼろげだが、どうも昨晩は飲み過ぎてしまったようだ。床には、ストロングゼロ500ml缶が幾つも転がっていた。  スマホを見る。消費者金融の着信が鬼のように入っている。それはどうでもよかった。綾野が「おっ」と思ったのは、斎藤からのメッセージだった。 『じゃあ今夜、いつもの店で』 『19時には着くと思う』 (笑顔のスタンプ)  いつもの店で、とは大学時代によく通っていた居酒屋のことだろう。仲間内で集まるときは、大体その店で飲んでいた。八〇年代洋楽好きの大将が一人でやっている、雰囲気の良い飲み屋。  少しずつ、記憶が蘇ってくる……そう言えば昨晩、酔った勢いで斎藤に電話をかけたのだ。会話の内容までは覚えていないが、今夜飲みの約束を交わしたのだろう。  結局、その日はなにをするわけでもなく適当に時間を潰した。人生最後と言っても、いきなりそうやることなんて浮かばない。仮にもあるとすれば、知り合いへ会いに行くことくらいだ。その斎藤とは、これから会う。  綾野は、約束の時間五分前に居酒屋へ着いた。  居酒屋に斎藤の姿はない。スマホを見ると、数分前に「ちょっと遅れる」とメッセージが入っていた。「じゃあ、先に飲んでるよ」とテーブル席に座る。多くても一〇人程度が限界の店内に、客は綾野一人だけだった。  一〇分後、斎藤が「悪い悪い」とやってきた。  きっちりかっちりとしたスーツ姿に、整髪料で整えられた清潔感溢れる短髪。以前の斎藤は、ロン毛でいつも小汚い服装をしていた。身だしなみには関心がない、そんな男だったはずなのに。  一方の綾野は、数年前から着回している私服姿のままだ。妙な敗北感を覚えてしまう。  驚く綾野に、斎藤は「よう」と笑いかけてくる。その笑みは以前となに一つ変わっていなかったが、なぜか狸に化かされた気分だった。 「斎藤、なんか変わったな」 「そう言う綾野は、全く変わってないな」  そんなにも何気ない些細なやり取りに、斎藤に悪気は一切ない。だが綾野には、それが嫌味に聞こえてしょうがなかった。咄嗟に、水荒れし黒ずんだ手をテーブルの下に隠す。  そして、宴とは始まった。  まずは、斎藤の報告から始まった。綾野は、ここ数年の斎藤の立ち回りに耳を傾けながら、焼酎の水割りをちびちびと飲む。  かつて小馬鹿にしていた自転車での全国一周旅も、終わってしまえば成功体験。綾野は素直に、斎藤のことを「行動力のあるすごい男」だと思わされていた。その後に聞いた会社経営者の苦悩と成功の体験談も、天晴れな出世街道のように思えた。  斎藤はひと通り話すと、ハイボールで喉を潤した。 「それで綾野、お前はどうなんだよ?」  話の風向きが、綾野へと移る。  綾野の表情が強張った。 「普通だよ」 「どう普通なんだよ?」 「だから、なんの変哲もない日々だ。変わるとすれば、これからだ」  嘘はついていない。綾野は「なんでも屋」での出来事は内緒にしたまま、福岡を出ることになったとだけ伝えた。それも嘘ではない。厳密には、福岡からではなく人生から、なのだが。 「え、転勤か?」 「まあ、そんなとこ」 「どこに?」 「実はまだ、具体的には決まってないんだ。ただ、かなり遠い場所だと思う」  この世とあの世の距離なんて知る由もない。ただ遠い場所なことに間違いはないだろう。二度と、こうして飲みながら話すこともないはずだ。 「でも、たまには帰って来るんだろ?」 「さあ、行ってみないことには。でも多分、もう帰っては来ないと思う」 「どうして?」 「そのくらいの覚悟を持ってここを離れるってことだよ。俺ももう三〇だし、将来のこともちゃんと考えなくちゃいけないし」 「でも綾野、お前昨日『俺の人生はもう終わった』って、そう言っただろ」 「え?」  覚えていなかった。  斎藤に茶化している様子はない。だったら本当に言ってしまったのだろうか……まさか、この俺が?  綾野は取り繕うように笑った。 「酔った勢いで言っただけだ。特に深い意味があったわけじゃない。忘れてくれ」 「本当に、そうなのか?」 「そうだよ。それで、ほかになんか言ってたか、俺?」 「……いいや、なにも」  斎藤の表情が濁る。 「ただ、苦しんでいるのは、なんとなく伝わってきた。もしかしてだが綾野、お前、仕事うまくいくってないんじゃないか?」  反応に困る。また斎藤の言葉一つ一つが、嫌味に聞こえて止まない。 「そりゃあ、楽なことばかりじゃないに決まってるだろ。でも頑張ってる。俺だって、頑張って現実と向き合ってるんだよ」  向き合ってはいないが。 「ま、社長さまには、俺みたいな底辺の気持ちは分からないだろうが、」 「そんなわけだろ。俺だって、毎日毎日大変なんだ。従業員を食わせていかなきゃいけないって、夜も眠れない。大変なんだよ、俺も」 「斎藤……」 「だから、そんなこと言うなよ。もしもお前が苦しんでるんだったら、俺も力になりたかったんだ。なんだったら、ウチにきて欲しいくらいだ。でも今はそんな余裕もないから、どうしてもできなくて」  斎藤の顔は、真剣だった。数年前まで、「あー、将来だりぃ!」と子供じみたことを言っていた斎藤が、まさかこんなにも大人びた顔をするなんて。  よく、考えることがあった。子供と大人の境界線は、どのように決まるのだろう、と。  かつて小学生だった綾野にとって、学校の先生は遥か大人だった。それは中学生、高校生、大学生になっても、教鞭を振るう彼らは大人に見えた。  だが、今こうして三〇歳を目前にすれば、見方も変わってくる。  行きつけの飲み屋でたまに見かけていた中学教師を名乗る男は、五〇歳にしてキャバレーに入り浸り女の子に貢いでいた。結婚はしておらず、未だ実家に住んでいるという。母親がうるさいと、愚痴文句を言っていた。そして、そういうおっさんたちは社会にたくさんいる。この歳にもなれば、そんなにも見たくもない大人の一面を垣間見ることがある。まだ精神的には子供じゃないかって、そう思わされる。では、かつて俺が見ていた大人はなんだったのか?  俺自身は、どうなんだって──  でも、綾野はようやく『大人』を見つけた気がした。  今目の前にいる、この斎藤という男こそが大人なのだろう。確かに、数年前までは確かにチャラチャラしていた。だがどうだろうか、今の斎藤は妻と子に恵まれ、小さいながらも会社を経営するまでに至った。それのみにならず、不甲斐ない俺の心配までしてくれるまでに成長した。  幼虫がサナギとなり、蝶となるように、斎藤も段階を踏んで生まれ変わったのだ。そんな成長が顕著に現れている斎藤の姿に、綾野はずっと捜していた『大人』の影を見る。  敗北感などは、もはや抱かない。むしろ清々しい程の、それは斎藤に対する称賛だ。 「ありがとう斎藤。でも、心配すんなよ。俺は俺で、なんとかやるからさ。その心配を、少しは自分にも向けてくれ」 「綾野」 「だってよく見たらさ、お前、クマ酷いぞ?」  全体的な斎藤の外見にしか目を配っていなかったが、よく見ると目の下にははっきりと黒いラインが走っている。それに、白髪も随分と増えたものだ。  斎藤は「寝不足でな」と、渇いた笑みを作る。そんな笑みからのため息は、心労の現れ、なのかもしれない。 「少し休んだらどうだ?」 「今が頑張り時でな、そうも言ってられない」 「そうか。そんな中でも俺のことを心配するなんて、斎藤、お前やっぱり変わったよ」 「当たり前だろ、友達なんだから」  もはや、俺が斎藤に勝てる要素はない。  敗北を認めてしまえば、こんなに楽なことはなかった。いや、これは敗北ではない。悟りだ。  俺が将来に不安を感じていたのは、きっと他人と自分とを比べていたからなのだろう。知り合いのフェイスブックやインスタを見るのが嫌だったのも、停滞した人生の自分と、幸福な階段を登っていく他者を比較するが故だ。人に自慢できるものが、充実したプライベートが、俺にはない。人の幸せも見たくはない。だとすれば、SNS嫌いにもなるのも当然の成り行きだ。ツイッターで好き勝手に呟いているくらいが、俺にはちょうどいい。 「あのさ斎藤。俺さ、ずっと自分は普通だって、そう思っていたんだ。みんなと同じ、だってさ」 「なんだよいきなり。綾野、お前は普通だろ。昔からなにも変わってない」  普通なのに、昔からなにも変わっていない──斎藤にはこの矛盾が分かっていないのだろう。分かる必要もないが。普通の基準が、俺とお前ではもう違うんだよ。 「どうしたんだよ綾野。お前、やっぱり変だぞ」 「かもな。最近、俺もいろいろと忙しくてさ」 「だから、どういう感じに忙しいんだよ」 「別に、普通だよ。ただこれから任せられる仕事は、ちと大仕事でな」 「大仕事?」  怪訝そうに聞いてくる斎藤に、綾野は爽やかな笑みを浮かべて頷き返した。 「詳しくは言えないが、たくさんの人が幸せになる、俺にしかできない役目なんだ」

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