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「本当に心臓が止まるかと思ったよ」  努めて冷静に、弓削は裁判のことを振り返ろうとしていた。 「私までもが尾行されているとはまったく考えてなかった。甘かったと思う」  椅子に腰かけたままで、弓削は頭を深く下げた。弓削の話を、黙って聞いていた由家が、そこではじめて口を開いた。 「弓削さんは、最善を尽くされたと思いますよ」 「……でも、結果から言えば私の作戦はすべて失敗だった」 「まだ失敗だと決まったわけじゃないですよ」  頭を下げたまま動こうとしない弓削に、由家は柔らかい口調で投げかけた。 「よければ、その裁判の続きがどうなったかを教えてください。弓削さんはその後、いったいどう戦ったんですか」  重たい頭を、弓削は回転させ始めた。けれど、何かを考えることさえ嫌気がさして億劫だ。それでも仕事のパートナーである由家に、何があったのかを伝える必要はあった。  二週間の間、停職処分を受けて仕事を休んでいた。  その期間、弓削は自暴自棄に陥っていた。全てがもう、どうでも良いように思われたのだ。   人の人生なんて、自分には無関係だ。誰かが誰かを助けようなんて、それそのものが間違った考えなのかもしれない。人は所詮、一人だ。誰も助けてはくれやしない。もしそれが辛いのなら、死を選ぶしかないだろう。その選択は、ほかの誰にも止められるものではない。  もとから、自分が不器用なタイプであることはよく知っている。人と接するのも実際のところは極めて苦手だ。そして、少し調子に乗ってみたらこのざまだった。  閉じていた記憶の蓋を開ける。  途端に脳裏には鮮明な光景が蘇り、本条美紀子のいやらしい声が法廷に響き渡る。 *     *     * 「彼が会っていたのは、どこか暗い表情をしていたり、明らかにお金に困っていたり……何かトラブルに巻き込まれているような人たちばかりでした。それこそ、橋本朋美さんのように」  美紀子は話せば話すほど調子が出て、饒舌になっていくようだった。これ以上はやめてくれ、と弓削は強く念じたが、彼女の演説が止まる気配はまったくなかった。  朋美の弁護士が水を差すべく、「それで、どうして弓削さんの職業がフリーのジャーナリストではないということになるのでしょうか」と、異議を申し立ててくれた。 「それについては」  美紀子が横目で、弓削の顔を見やった。  勝利を確信したような、相手を完全に見くだす眼差しだった。 「まず最初に疑ったのは、この人が都庁の中に、セキュリティカードをかざして中に入っていったのを見たことです。そんなジャーナリストさん、いますか? 間違いなく都庁に勤務する人なんだと思ったんです」 「ちょっと待ってください、すべては推測だし本件となんら関係ありません」  朋美の弁護士の訴えの甲斐もなく、裁判長が「本条美紀子さん、続けてください」と、却下した。 「ええ」  言われなくても続けます、といった余裕の態度だった。 「推測と言われてしまうと確かにそうかもしれませんね。私は間違いなく、彼は国のお役人さんで、福祉関係とかそういったお仕事をされているんじゃないかと思っているんですが……いずれにしても彼は、自分の正体を隠しているんです。それはかなりの問題じゃないでしょうか。ぜひともご本人に、真相を語っていただきたいですわ。いったいあなたの本当の職業は、なんなのですか?」  背中に、視線が一斉に集まるのを感じた。  なぜこんな事態になってしまったのだろうか。口の中に苦いものが広がった。例えるなら、砂を噛むような味。これまでの人生で味わったことがないような味だ。  鶴見弁護士に名前を呼ばれて、弓削は再び証言台に立たされた。 「弓削さん、もし仮に彼女の証言が事実だとすると、先ほどまでのあなたの発言は嘘だということになりますが、いかがでしょうか」  今さら抗ってもどうしようもなかった。調べればすぐにわかることだろう。 「彼女の証言は……概ね事実です」 「それでは」  にわかに騒がしくなる傍聴席を背に、鶴見弁護士は続ける。 「弓削さん、あなたの仕事はなんでしょうか」 「……それは、言えません」  傍聴席のざわめきはやがて、怒号のように大きくなっていった。裁判長が静粛にと促したが、それでもしばらくは騒然としたままだった。  弓削の本当の職業を知っているかと、裁判長が朋美に尋ねると、彼女は震える声で「いいえ」と答えた。  その後のことは、はっきりとは覚えていない。いつの間にか裁判は終わっていた。  いつもなら朋美と落ち合って喫茶店に行くのだが、その日は逃げるように裁判所を後にした。  次の口頭弁論に、弓削が呼ばれることはなかった。  そこまで話すと、ここで終わりだというように、弓削はそっと両手を顔の前にかざした。   由家は「お疲れさまでした」と小さく頭を下げた。  そして、 「つい先ほど、連絡がありました。裁判の、結果が出たそうです」と、抑えたような声で続けた。

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