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 どうすれば、朋美を裁判で勝たせることができるだろう。  そんなことがわかるなら、とっくに弁護士にでもなっている。弓削は頭を抱えながら、無い知恵を振り絞った。  まずは、なぜ朋美が裁判で不利な状況にあるのを整理することから始めた。 これに関して、理由は明白だ。朋美の経済状態が良くないからだろう。  朋美と幼い娘の生活は、朋美が娘を保育園に預けている時間に得られる、わずかなパート代で成り立っていた。  なにかの資格でも取れたら、収入のいい職に変わることもできるのだろう。けれど、勉強するための費用もない。経済的な厳しさが、朋美にとってのすべての希望の抜け道を塞いでしまっている。彼女ひとりの力で、状況を変えることは難しいだろう。  考えうる方法は一つしかない。それは、朋美が誰かの力を借りるということだ。  朋美の近くにいる人で、誰か力になってくれそうな人はいないか――それを訊ねるべく、同じ喫茶店に、朋美を呼び出した。 「お忙しいところ、すみません」 「いえいえ。でも、お昼休憩に抜けてるだけなんで、三十分くらいで戻らないとですけど」  仕事を抜けてきたばかりの朋美はやや上気した表情で、息も少し上がっている。後ろで束ねていた髪をほどいてから、また一つに結び直した。 「質問させていただきたいことがありまして」 「ええ、なんでも」  「朋美さんはですね……」  プライベートに踏み込んだ質問だ、という自覚は弓削にもあった。しかしそんなことに躊躇っている場合ではない。弓削は、自分の両手を顔の前で揉み合わせながら質問した。 「朋美さんはですね、自分の味方になってくれそうな方……たとえば今、お付き合いされている方はいらっしゃいますか?」 「…え?」  質問の意図をはかりかねるといった様子で、朋美は小首をかしげた。 「いませんけども」 「そうですか……あるいは、そういうご予定の方は?」 「……どういう意味でしょうか?」  朋美の語気が、いささか強かった。さすがに失礼だったかなと慌てて反省する。 「深い意味はありません。ただ、もしいらっしゃったら良いのになあと思いまして」 「それはどうして?」  追及の手を緩める様子のない朋美に、弓削は考えていた作戦を打ち明けた。 「もしいらっしゃったら、今後、経済的支援を受けられる可能性のある相手がいる、ということになるわけです。たとえばその方と再婚したら、今の状況は何もかも変わります。ましてそのお相手がそれなりに稼いでいたら、尚更です。相手の弁護士が突いてきているのは、朋美さんの経済状態のただ一点だけですから、それに回復の見込みがあるとなると、向こうは不利になるはずです」  一息で説明し終えた弓削は、コップを手に取った。水を飲んでいる間に、朋美から、なにかしら弾んだ返事が返ってくるかと期待したが「なんだ、そういうことか」と、落胆の声が返ってきた。 「なんだ、ってのはなんです」 「なんだ、そんなことか。期待に応えられなくてすみません、という意味です。弓削さん、そんなこと私にもわかってますよ。私に、お金持ちの彼氏がいたら、それは話も変わってくるでしょう」 「それは……失礼しました」 「いいえ」  朋美は、弓削が自分を呼び出した理由がようやくわかって安心したようだ。いつもの屈託のない微笑みが戻ってきた。 「ありがとうございます……心配してくださってるんですよね?」 「ええ、それに関しては、とっても」 「そっかあ。私がモテないことが、まさか裁判にまで影響してくるとはなあ。こんな負の連鎖が起こるなんて思ってもなかったです」 「橋本さんは、モテないなんてことないと思いますけども」 「モテないですよ。誰か良い人いたら紹介してください。合コンとか」 「え?」 「誰かいないです?」  と訊かれて、まっさきに浮かんだのは、由家だった。しかし、すぐさまその想像を打ち消した。少し嫌な感じの、もやもやしたものが弓削の胸に宿った。 「……誰もいないです」 「そうですか……嘘でもいいからこの裁判の期間、誰か付き合ってくれるフリだけでもしてくれないかな」  なるほど、と弓削は思った。 「その手がありますね。朋美さんのお知り合いに、そういう演技をしてくれるような方はいらっしゃらないのですか」 「いないですよ」 「ほんとですか?」 「だから、いないですって」  朋美は片手を挙げて左右に振った。よく見ると、目が笑っていなかった。 「いま、私の周りにいる男性は」 「ええ」 「弓削さんだけです」  そうですかと言いながら、弓削は視線をテーブルの下に落とした。不意を食らったようでドキッとしてしまった。 「ということは……僕がそういう演技をしない限り、勝ち目はないということですね」 「……え?」  ちょうどそのタイミングで、注文していたピラフがテーブルのもとに運ばれてきた。そのあとは口数少なく、二人は黙々と食事を進めた。  弓削は、この気まずい状況はなぜ起こってしまったのか、ピラフを口に運びながら思案した。  まずもって、恋人がいないかと訊いたのがまずかった。ただの下品な質問に取られたか、気があると思われてしまったかもしれない。  弓削は、顔から火が出るほど恥ずかしくなった。そしてその後で、新しい疑問が浮かんだ。  なぜ彼女は、こちらの意図を説明すると、「なんだ、そういうことか」と落胆したのだろう。  落胆したということは、何かを期待していたということになる。いったい何に期待していたのだろう。  弓削は、頭を抱え込んでしまった。  この状況を、いったい由家にどうやって報告しようか。きっと彼は、こちらがどれほど困惑しているかなんて考えもせずに、いつものように面白がって笑うのだろう。くくく、という聞きなじみのある声まで聴こえてくるようだ。汗が背中にじんわりと滲んだ。  頭を振って、気を取り直す。これは、仕事だ。今、自分に出来ることを考えよう。 「あの……すみません、そろそろ仕事の時間で」  朋美の声で、現実に引き戻された。  いつの間にか朋美は、鞄を手にして店を去る準備を整えていた。 「すみません。もちろん、ここは私が支払いますので」 「いつもすみません。お言葉に甘えてしまって」 「大丈夫です」 「あの」「あの」  と、二人同時になにかを言いかける。 「すみません……なんでしょう?」遠慮した朋美が、話そうとしたことの続きを弓削に促した。 「さっきの話ですが」 「……なんでしょう?」 「裁判で勝つ方法の話です」  弓削は呼吸を整えながら、努めて冷静に話そうとした。 「橋本さんが裁判で勝てるかもしれない唯一の方法。橋本さんの恋人を演じる人がいれば良いかもしれないという、あれですけど、とりあえず私に任せてください」 「どういうことですか?…任せるって」 「そのままの意味です。任せてください」 「それは……」  朋美の顔に、困惑の色が浮かぶ。 「弓削さんが、恋人を演じてくださるということですか?」 「ええ……まあ、その可能性も含めてです」  歯切れの悪い言い方になってしまった。実際のところ他に候補などいないので、弓削が恋人役に立つしかないのだが、ここで断言するのは早急すぎる気がした。 「とにかく、大丈夫です。安心してください」  深々と頭を下げて、店を出ていく朋美を、弓削は見送った。

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