生きて欲しいに決まってる
恋愛のはなし episode2 - 7

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「昔を思い出すなぁ」と、晴馬は切り出した。 「……え?」  「高校の時、別れ間際に喧嘩したじゃん。あの時を思い出す。あの時も、俺はさんざ加奈に酷いって言われた」 「そうだっけ」 「俺がさ、三組の女子とちょっとだけデートしたんだよ。デートって言っても一緒に映画見て、ご飯食べたくらい」 「十分デートじゃない」 「だな。たしかにそうだ」  本気で反省しているのか、晴馬の表情にいつもの浮ついた笑みはなかった。 「たしかに言わなかった俺が悪かったから、その時謝ったんだよ。そしたらさ、晴馬は私のこと好きなの?好きじゃないの? って聞かれたんだ」 「……言ったかもしれない。それ、学校の近くのコロッケ屋さんの前じゃない?」 「まさにそこ。よく買い食いしたよな。六十円でけっこう旨いやつ。思い出してきた?」 「……うん」  夕立が降ったのだろう、路面が薄っすらと濡れて光を反射している。長く薄く伸びた自分の影を見つめる。 「俺がさ、うまく答えられなかったんだ。加奈の質問に。そしたらさ、すごい怒られた。晴馬はいつもそうだって。いつも私の質問に答えてくれないって」 「言ったかな?」 「言ったよ。いつもいつもって。これ、脳内で音声がまだ再生されるもん。加奈はそうなんだ、俺によく色んなことを質問した」 「……うん」 ――私は、晴馬のことをたくさん知りたかった。  ただ、それだけのはずだ。それでたくさん質問をしてしまう。相手のことを知りたいと思って何が悪いんだ。なぜだろう――今も、少し考えてみるだけで、たくさん聞きたいことが浮かんだ。  さっきのパーティーのご飯、まずかったよね?  ビールとワイン、どっちが好きなんだっけ?  今、注目してるバンドはいるの?  休日は何をして過ごしてるの?  インドア派かアウトドア派かで言うと、どっち?  明日もし一日自由に出来るとしたら何がしたい?  もし私が死んだら、どれくらいで悲しくなくなる?  今戻れるとしたら、小学校時代?中学校時代? 将来、大事にしたいのは、仕事?家庭?  今度のデート、どこいく?  私たち、ずっとうまくいく?  私のこと、好き? 「じゃあ…質問したのが良くなかったの? どうして?」 「いや、わかんないけどさ。でもなんだか、加奈には理想があるんだなと思った」 「…え?」  また、新しい話が始まったのかと加奈は少し混乱した。 「どういうこと?」 「僕には応えられない理想が、加奈にはあるんだろうなって。そう思うことがよくあった。それがなんか、ちょっとしんどかった」  晴馬の一人称が、俺、から僕、に変わった。本音を話すとき、彼はいつもこうなる。 「ないよ……理想なんて」 「理想はあるだろ。僕にだってある。一度しかない人生でさ、迷わずに正解を出したいと思うよ。自分がやっている仕事は、本当に自分にとってベストなのか、自分の前にいる人は、自分にとって最良のパートナーなのか」 「わかんない、ほんとにわかんない。私そんなこと考えないよ」 「それは嘘だよ」 「嘘じゃないって。なにそれ、なんかセコイよ、それ。だからなに? だから浮気しても、不倫しても許されるってこと? 今の奥さんは自分にとって最良のパートナーかどうかわかんないから、コンパに顔を出して女の子に声をかけるの?」 「……かもしれない」 「……最低」 「……かもな。でも」  次に続く言葉を探すように、晴馬は短く言葉を切った。 「でも、もうやめだ。自分の外に、幸せを探すのはやめたんだ」 「だからなにそれ。全然納得できない」 「……わからない。答えなんてない、ってことに薄々気づいてたけど、思い知ったって感じ……僕はもう、現実に戻らないと。今から、人生変えることなんて出来ないんだから。仕事も家庭も、これしかないんだってもう思って、大事にするしかない」 「……それは幸せなの?」 「え?」  これが最後の質問にするから、と加奈は付け加えてから 「だって、理想を追い求めてこその人生じゃないの?」と、訊ねた。 「加奈の言う通りかもしれないけど。でも」 でも、なんだろう。 「理想が叶うなんて、ほとんど無いんだって。ちゃんと知っておいた方がいいかもしれない。それは諦めとかじゃなくって」  諦めではなくて。 「そりゃ運命的な出会いをしてさ、お互い死ぬまでずっと幸福な二人もいるかもしれない。でもそれはさ、夢を叶えるやつがほんの少数だったり、宝くじを当てるのが無理だったり……喩えがあんまり良くないかもしれないけれど」  「それは諦めじゃなくて?」 「うん。上手く言えないけど」  答えになってないよ、という言葉をまた飲み込んだ。  晴馬はとても寂しいことを言っている。そう、加奈は思った。  なにもこの世で一番の幸せを勝ち取ろうなんて、大げさな理想を掲げているわけではない。ただ、幸せになりたいと思っていた。それの、何が悪いんだろう。それくらい願っても、たとえ幸せになるのが不器用だとしても、べつに良いじゃないか。  自分の外に幸せを探し、幻想を追いかけて苦しむ晴馬と、自分の中に幸せや答えを探して苦しむ加奈だ。二人の苦しみは、傷つき、傷つけやすい。幼き理想を互いに叶えて欲しくて、苦しみ合う。だから、長くは続かない。  人生には、広大な時間が横たわっている。そこを、心細くて辛くても歩いて行かなくてはならないのなら、さよならをしなくてはならないもの、捨てないといけないものもきっとあるのだろう。  加奈は、そう思った。  少し落ち着いた様子の加奈を見届けたかのように、晴馬が「じゃあ」と言い、加奈は「うん」とだけ、短く返した。  これまでの会話なんてなかったかのように、晴馬は踵を返して駅の改札へと吸い込まれていく。  この光景を忘れたくはないと、晴馬の後ろ姿が見えなくなるまで、加奈は目をそらさなかった。晴馬はこちらを振り向かずに、改札の中へと消えていった。 「バイバイ」――そう、呟いてみる。  彼と、私の幼い理想と憧れに。  ぽっかりと空いた心に、それでも暖かい何かが流れ込んでくる。  きっと、これは恋だ。  何も着飾る事がない、裸の恋心。  もうすっかり暗くなっていた足元に視線を落とすと、路面は無機質に乾いていた。さっきまで自分は泣いていたのだと、加奈は気が付いた。

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