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 美術部顧問の山村先生は、箱の中に入った大量のクロッキーを丁寧に取り出し、机の上に並べた。  それらからは、群像画に描かれたひとりひとりの様々な角度、ポーズの検討の様子がうかがわれた。 「うわあ……。あの細かい絵を描くだけでも大変そうなのに、準備にもこれだけ手間をかけてたってことですね」 「下絵はこの箱だけじゃないよ。他にもたくさんある。だから美術の授業で私は、生徒たちにこれらを見せてから言うんだ。  一枚の絵を描くために、どれほどの隠れた努力が必要なのか。そして『美は細部に宿る』ということは、例えばこういう風に観る人が見逃してしまうような部分にも、決して手を抜かないということだ。そう教えてるんだよ。  だから幸村くんの絵は、金賞をとった素晴らしい作品というだけでなく、私のような美術教師にとって、これ以上ない最高の教材でもあるんだよ」  美玖は陸に向かって、すごいんだねえ、りっくん、と感心して声をかけたが、陸は珍しく上の空で、彼は美玖よりも彼の斜め後ろにいる志穂が今、どんな顔をしているのかばかりが気になっていた。   ======  結局俺は強気で押してくる上條に負け、奴の指示通り、小遣いをはたいて中学生にはもったいない、どデカいキャンバスを買ってきた。  そして俺はまず美術部員に、大作に挑戦するんだ、と事あるごとに吹聴した。  それだけではない。  上條がクラスの連中や教職員に、俺が絵のモデルを探していると触れ回ってくれたのだ。  そして俺が実際に彼らにモデルになってもらった時には、人物がたくさん出てくる絵を描くためだということを、聞かれてもいないのに毎回話した。  美術室に置かれた目立つ大きなキャンバスは、当然美術の時間に皆の目に留まり、俺がモデルを探していることも、ほどなく学年中に知れ渡った。  物事はすべて上條の思惑通りに進んでいった。  実行している俺自身が驚くほどだった。  そういう訳で俺に関するバカげた噂は、なんだ、じゃあ小斗坂もその絵のモデルになってただけか、という驚きの無い種明かしがされた形になり、急速にしぼんでいった。  とどめになったのは、もちろんその絵が金賞をとったことだ。  俺は金賞をもらえたのは、ただの大まぐれだと思っている。たまたま他に有力な対抗作品がなかったのが一番の理由だろう。  ただ、金賞という通りのいい肩書は非常に有効で、受賞後、今まで誤解していたと、直接謝りにきてくれた奴もいた。俺は素直に嬉しく思い、そいつをイイ奴だな、とむしろ尊敬した。  そんな事もあってそれ以来俺は、人間の親しくない他人に対する態度というのは、時と場合によってコロコロ変わるいい加減なものに過ぎないんだ、と考えを改めたものだ。  でも俺が一番身に染みたのは、待ち合わせ場所こそ駄菓子屋に変わったけれど、また三人でバカ話をしながら、楽しい時間を過ごせることの大切さだった。  俺にはそれが、久しぶりに帰ってきた我が家みたいに感じられた。 =====  しかしそれから時を経た現在、、陸がいまだに腑に落ちていないのは、志穂がなぜわざわざ自分に助け舟を出すような真似をしたのか、ということだった。  美玖が心配しているからというなら、陸を無理やり連れて来て、直接説明させるという手もあっただろう。そして陸が適当な理由をでっち上げてまた逃げたら、今度こそ志穂は堂々と美玖を独占できたはずである。  なのに、なぜそれをしなかったのか。  そういえばこれまで、陸は志穂にその理由を尋ねたことはなかった。 『考えてみれば美玖ほどじゃないにしろ、上條ともそこそこ長い付き合いになるのにな……』  陸はそんなことを考えつつ、山村先生と二人で、陸の絵を元の場所に掛け直している志穂の姿を、改めて見つめ直していた。  美術室を後にした陸たちだったが、しかし校舎を出てしばらく行ったところで、その歩みは止まっていた。  次のヒントが描かれた封筒は、発見者の愛ちゃんから受け取った美玖が持っているが、しかしまだ開封はされていない。  なぜなら、美玖が愛ちゃんの説得にかかりきりになっていたからだ。 「ダメよ愛ちゃん。いい子にしてるって言ってたじゃない」 「でも、愛だけ帰るのやだもん……」  ぐずる愛ちゃんに対して、しかし美玖は空を指さし厳しく言った。 「ほら、お日さま出て来ちゃってるでしょ? これからあっついあっついになるの。だから愛ちゃんはおうちに帰らなきゃいけないの!」 「……でも、平気だもん」  愛ちゃんはしぶとく抵抗を見せていたが、しかし美玖は粘り強く愛ちゃんを説得し続けている。  一方陸はその間に、なぜ志穂がわざわざ美玖をめぐるライバルである陸を助けたのか。改めてその真意をたずねることにした。 「あのさ、上條。今さら聞くのもあれなんだけどさ……」  しかし陸は、切り出したはいいものの、やはり今になって聞くのは不自然だ、と感じてしまい、どう話を続けようかまごついてしまった。  すると志穂は、イラだちを隠さず陸をせかした。 「何よ? ぐじゃぐじゃ言ってないではっきり言って。ただでさえ暑くなって不快指数が増してるのに」  志穂のあけすけな言いざまに、逆に陸は話しやすくなった。男子同士のような遠慮のないやり取りが出来るのが、陸と志穂の関係の強みだ。 「あのさ、さっき美術室で思い出したんだけどな。あのとき上條、わざわざ駄菓子屋から学校まで戻って来てくれただろ?   それでまあ、結果的に俺は助けられたわけなんだけど、でもなんでそこまでしてくれたんだ? いくら美玖が俺を心配してたって言っても、上條にそこまでする義理は、少なくとも当時はなかったと思うんだが」  すると志穂は眉間にしわをよせて、不機嫌そうに言った。 「何よ突然。よく覚えてないわ。多分だけど、うじうじしてるアンタにイラついて、一言いいたくなっただけじゃない?」 「そう言う割には、フォローが行き届いてた感じがするんだけど……」 「今さら礼でも言うつもり? だったら要らない。幸村からのお礼なんて何の得にもなんないから」  陸は苦笑しつつ、それでも頭を下げた。 「いや、断られてもやっぱり言っておきたい。あの時はありがとう。ほんとに助かったよ」  すると志穂は照れたのか、ぷいと横を向いてしまった。 「やめてよ、気持ち悪いわね。まあ要するにあれよ、私はこれでも結構律儀な方でね。貸しを作りっぱなしってのはどうにも……」  そう言いかけて、志穂はすぐに口を閉じた。話すつもりのないことを喋ってしまったらしい。  けれども陸は、志穂の中で何が引っかかったのか全く見当がつかず、不思議そうにたずねた。 「貸しってどういうことだよ? 俺には全然心当たりがないんだけど?」 「それは幸村の記憶力の欠如のせいでしょ。他人ひとのせいにしないでよ」  陸と志穂がそんないつも通りの言い合いをしていた頃、美玖の方は、なんとか愛ちゃんを説得することができていた。  まだ少々昼には早いが、愛ちゃんに外食をさせることを条件に、家に帰ることを約束させたのだ。  美玖がやれやれ、と思いながら顔をあげると、言い合いを続ける陸と志穂の姿が目に入った。 『二人とも変わんないなあ。でも、あれでいて実はいいコンビなのよね。男女と言うより、それを超えた親友同士のじゃれあいっていうか、そんな感じ』  そう思った美玖の胸の内から、むくむくといたずら心が沸いて来た。  美玖はこっそり陸と志穂の方に忍び寄ると、わざと顔をにやけさせながら、二人を意味ありげに見つめた。 「……なんだよ美玖」 「……どうかしたの?」  しかし美玖は含み笑いをしつつ、まずは愛ちゃんとの交渉がうまく行ったことを報告した。 「なるほど、外食ね。ここらで外食って言えば、あそこかな?」  陸がそう言うと、すぐに志穂が食いついて来た。 「中華の蓬莱ほうらいね。懐かしいわ。部活帰りによくあそこで栄養補給したものよ」 「げっ。上條、お前駄菓子屋まで来る前に、あそこで夕飯食ってたのか? すげえ早食いだな」 「夕食は別腹よ。ちゃんと家で食べるわ」 「……どんだけ食ってたんだよ」 「バスケはそれだけカロリー消費するの。ひょろひょろの美術部と一緒にしないで」  二人の見ようによっては息が合っている、とも取れる会話を聞きつつ、美玖はますますにやけた笑いを浮かべた。 「……だからなんなんだよ、美玖。その顔は」 「幸村の顔がそんなに面白いの?」  志穂の挑発にまた陸が反撃しようとしたのだが、その前に美玖はわざとらしく口元を右手指で隠しながら言った。 「なんかさあ、りっくんと志穂ちゃん、中学の時より仲良くなってなあい?」  しかし当然ながら、陸も志穂も心外だ、と言わんばかりの表情で否定した。 「んなことねえだろ」 「そもそも幸村とは、仲が良かった記憶自体がないわ」  しかし美玖は今度は、芝居っ気たっぷりに二人を指さして見せた。 「いいえ、私の鋭い勘が告げているわ! ズバリ、私がいない間に二人ってば、実はくっついちゃってたんでしょう!」  美玖はコミカルに胸を張って手は腰にやり、二人のリアクションを待った。  美玖はすぐに陸たちの、 『おいおい、やめてくれよー、それで面白いつもりかよー』 『やだもー、おちおちケンカも出来ないじゃないのよー』  などという、牧歌的なツッコミが入るものと信じ込んでいた。  しかし返って来たのは想定外のものだった。 「何が鋭い勘だっ! なまくらだなまくらっ!」  陸が今にも血管が千切れそうな勢いで怒声を浴びせかける。 「あなたってば、昔っからそういうところあった!」  志穂が𠮟りつける様子には、鬼神が怒鳴ったような迫力があった。  二人の本気の怒りを感じ取った美玖は慌てた。 「あ、あの、つまり、違うのね?」 「そうだ! 誰が好き好んでこんな奴と!」 「人類が絶滅して幸村と二人生き残っても、それだけはないわっ!」  陸と志穂は、あまりにも鈍い美玖のせいで言葉にけんが出てしまっているのだが、しかしそんなこととは知らない美玖は、勝手に中華屋に向かって歩き出した二人の背中を見ながら、不満げにつぶやいた。 「なによ、ちょっとお茶目しただけでしょーが。そんなに怒らなくたっていいじゃん……」  美玖は思惑通りに事が運ばず、しばらく憮然としていたが、しかしそんな美玖の脳裏に、ある可能性が稲光のように走った。 『……もしかして私、今、ものすごくデリカシーのないこと言っちゃったの?』  美玖は嫌な汗が背中に流れるのを感じながら、なおも考え続けた。 『もしかして今の本気マジリアクションは、つまりそこには触れてくれるなっていう二人からの警告?! いや、間違いなくそうよ。だってホントに怒ってたもの。  だとしたら、二人の今の関係性は、ものすごくセンシティブで微妙な関係……。例えば、お互いなんとなく好きだとわかってはいるものの、けれど言葉には出来ていない、とか……。 いえ、きっとそうよ。絶対そうよ!』  一度エンジンがかかった美玖の妄想に近い想像は、さらに加速した。 『だとしたら今回、長い時間一緒に居られる二人にとっては、まさにこの夏こそが勝負時。いわゆる佳境っていうやつだったんだわ!  ああ、私ったらやっちゃった……。二人の関係が中学時代と同じに見えてたから、今自分たちが高校二年生だってこと、ぜんっぜん頭から飛んでた……。  そうよ、高二と言えば、誰もが認める恋の季節。お年寄りばかりの田舎で暮らしてた、いつまでも中学生気分の私の方がおかしいのよ』  美玖は自らの、事実の斜め上を行った解釈に確信を持ってしまった。  さらに美玖は、ならばさっそく行動で示そう、とばかりに、愛ちゃんを連れベビーカーを引き、しかし前を行く陸と志穂にあえて追いつかないよう、慎重に距離をとりながら歩き始めた。  二人の邪魔になってはいけない、という配慮のつもりだ。  美玖は胸の内で新たに決意した。 『よし、これからは二人を応援しつつ、でもやぶ蛇にならないよう気を付けていこう!  でも正直言うと、仲間はずれみたいでちょっと寂しいけど……。  ううん、ダメダメ美玖! 私がりっくんと志穂ちゃんにかけた迷惑を思えば、当然そうすべきなのよ。それにこれはお目出度めでたいこと! 大人になれ、美玖!』  美玖はそう結論づけ、今後、陸と志穂の仲については、取り扱い要注意のセンシティブ案件にしようと心に誓ったのである。

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